Side:ウォルター・ロイス
生まれ変わりたいと思ったのは、一度や二度じゃない。僕より不幸な人間は数え切れないほどいることだろう。自分が贅沢を言っていることは承知している。それでも自分の存在意義を問わずにはいられなかった。
こんな卑屈で面倒くさい人間が誕生した経緯は、幼少期まで遡る。僕の生家は貴族の末席、後に出会う婚約者よりも低い家柄だった。その家の六番目の息子として僕は生まれた。兄が三人、姉が二人という兄弟構成で、両親としては女児が欲しかったのではないかと思う。後継となる男児はこれ以上いても仕方なかっただろうし、どうせなら他家へ嫁げる娘の方が利用価値があった。
生家での暮らしは短く、大して記憶に残っていない。どうでもいい子供であることを証明するかのごとく、僕はロイス家へ養子入りさせられた。親も兄弟も誰一人、別れを惜しんではくれなかった。
ロイス夫妻は優しそうな人達だった。事実、血の繋がらない僕に優しく、この人達の期待に添える人間になろうと思えた。だがそれも義弟が誕生するまでの話だった。
当時僕は五歳だったが、今でも鮮明に覚えている。妊娠がわかり泣いて喜んだロイス夫妻が僕を横目で見て、なんとも言えない表情に変わった瞬間を。
ロイス夫妻は確かに優しい人達だった。けれども、その優しさが中途半端だった故に、僕は真綿で首を絞められているような心地を味わった。誕生した子が男児だったことで、僕の首に巻きつくものは一層きつくなっていく。蔑ろにされる訳ではないが、大切にされている訳でもない。ロイス家の後継にと引き取ったものの、もはや僕はお荷物でしかなかった。中途半端に優しい人達だから「お前は遠慮しろ」とは言わなかった。でも雰囲気で何となく伝わってきたから僕はこれ以上、お荷物とならないよう品行方正に努めた。模範的な人間であれば、追い出すような真似はしないだろうと考えたのだ。
勉強はもちろん、あらゆる方面で僕は好成績を収められるよう日夜努力した。でもその努力が報われる日は来なかった。家庭教師が僕を褒めようと、両親にとってはどうでもいい事だったのだ。むしろ、義弟よりも大きな功績を残されると、家督を継いでもらう時に世間体が悪いから、僕の努力は見て見ぬ振りをされた。
だからと言って、僕は真面目な人間でいるのをやめることはできなかった。そんな事をしたら今度こそ居場所を失うと恐れていた。誰からも必要とされなくなることを、僕は何よりも恐れ、忌諱していたのだ。無意味な努力ほど虚しいものはなくとも、僕はそうするしかなかった。
そんな息苦しい日々に、ささやかな変化が訪れる。あの時はささやかだと感じたが、今なら彼女との出会いは最大の転機だったと断言できる。
そう、僕の婚約者となるレイラ・ベネットとの出会いだ。
僕の婚約が決まる前、義弟にはすでに婚約者がいた。お相手は由緒ある侯爵家のご令嬢だ。対して僕はロイス家より格下の令嬢。格差を感じられずにはいられなかったが、心の片隅ではほんの少しだけ期待していた。婚約者なら僕のことを必要としてくれるのではないかと。
しかし、その期待はあっさり砕かれてしまう。
レイラ・ベネットは冴えない令嬢だった。どうにかすれば、それなりに可愛くなりそうなのだが…といった感じで。極め付けは「無」に近い愛想笑いだった。礼儀はなっているが、それしかない。正直、こんな得体の知れない人間は初めてでとても困惑した。同時に僕の期待は叶いそうにないとがっかりする。だが、両親がこの令嬢との婚約を望んだからには、僕は応えなくてはならない。ひと月に一度、会うようにと言われれば、会わなくてはいけない。
それからレイラとの交流が始まった。
僕の中で、レイラに対する不気味さは増す一方だった。
まず、目が合わないのだ。俯いている訳ではないのに、レイラとなかなか目が合わない。よく観察していたら、彼女は人の口元を見て会話する癖があるらしかった。
次に表情。大抵ぼんやりしていて、どこか虚空を眺めている。彼女のする表情は、無表情か愛想笑いの二つ。まったく感情が読めなくて気味が悪かった。
最後に会話力だ。彼女の方から僕に話しかけることはほぼ無い。内気だとしても限度があるだろう。何とか僕が話しかけても、ひと言の返事を返すだけで会話が終わってしまう。人の話は聞いているようだが、大して興味はなさそうだった。また沈黙を気にしている様子もなく、いっそ僕は居ない人間だと思われているのかと腹が立った時もある。
あちらが無愛想なら僕だってそうしてやっても良かった。でもそれができないのが僕という人間であり、そんな自分が嫌いだった。
奇妙な婚約者とは、たかが月に一度会う間柄。その一日、いや数時間を我慢すれば良いだけの話だと言い聞かせ、僕は良き婚約者役を演じ続けた。時々、あまりにも虚しくて嫌気が指すと、僕は他の令嬢を口説き始めた。一時的だとしても、薄っぺらいものだとしても、決して満たされないと知っていても、仮初めの愛情を示してもらえるのが嬉しかったのだ。その後に激しい後悔に苛まれるとわかっていたが、僕は女遊びをやめられなかった。背徳感の虜とはまさにこのこと。でも結局、両親や婚約者の顔がちらついて、一線を踏み越えることは終ぞなかった。両親に隠れて小さな反抗をすることしかできず、面と向かって婚約者に本音をぶつけることもできず、誰よりも中途半端な人間は僕だった。
僕が愚痴を語れたのは、カジノ場で知り合った顔見知りの男だけ。酒の勢いを借りて後腐れない人間に愚痴をこぼす、その瞬間だけは僅かにすっきりした。
「逃げ回ってたけど、俺もとうとう婚約が決まっちゃってさぁ。ウォルターはずいぶん前に婚約してたよな?婚約者がいるってどんな感じ?」
「どんな感じと言われてもな…特に何も思わない」
逃げるなんて選択肢すら無かった僕には羨ましい限りだ。
「格下の家のくせに、この僕が気を利かせて話しかけても、嬉しそうな顔の一つもしないからな」
「うわ…そりゃきついな」
「それに見た目も冴えないどころか、気味が悪い。カラスみたいな黒の中に、目だけが浮き出て見えて不気味だよ。僕が義親に逆らえないからって、もう少しマシな相手を用意してくれても良かったはずだ」
「ははっ!言うなぁお前」
本当は、見た目なんかどうだって良かった。人間は美しいものに惹かれるが、僕にはそんな事より重要なことがあった。僕を見て、僕を必要として欲しい、それだけが望みだった。
ところが用意された婚約者は、僕に関心すら示さないぼんやりとした令嬢なんて。なんだか無性に苛立ってきて、僕は饒舌に彼女の悪口を語った。
「まあ阿呆だからやりやすいのが、唯一の長所かな。他の令嬢に贈る予定だった物を間違えて渡した事があったんだが…そうとも知らずに、まったく似合わないネックレスをこれ見よがしにさげてきてさ。あれは笑えたよ」
口説いていた令嬢に渡そうと思っていた、大粒のルビーがあしらわれたネックレス。色々と控えめな婚約者には似合わない品が、手違いでレイラに渡ってしまった。彼女はそれを愛想笑いと共に受け取り、愛想笑いと共に身につけてきた。思った通り全く似合っていなかった。それでもレイラは丁重なお礼の手紙を書いて寄越した。彼女はいつもそうだった。書き出しと締めの言葉は定型文だが、贈り物の感想や感謝の伝え方は、一度として同じだったことがない。
だからこそ重い罪悪感が心に残っていたのだけども、僕の口から出たのは彼女を貶める台詞ばかり。まさかそれを、当の本人が聞いてるとはつゆ知らず、僕は散々レイラを馬鹿にした。思えばあれから、彼女がそのネックレスをつけることはなかった。
何年もレイラの婚約者をやっている間に僕も辟易してきて、話題を振る回数が次第に減っていった。彼女のことだから気にしないだろうと思っていたが、実際その通りだった。
この頃になると外でデートをするようになっていたが、僕達の距離が縮まることはなかった。それもそのはず、デート中の男女らしき触れ合いが皆無なのだ。馬車の昇降をエスコートしようと手を取った際、彼女がおっかなびっくりしたものだから、それ以来あまり触れないようにしている。珍しくレイラがいつもと違う反応を見せたかと思えばこれだ。嫌悪感があるようには見えなかったが…
理由はともかく、相手に嫌われることを避けたい思いが根底にある僕は、最低限の接触を保つほかなかった。
表情の変化が乏しい婚約者ではあったが、月に一度会う目的は理解しているみたいで、僕の両親と顔を合わせる時は常時より愛想笑いが多かった。おかげで僕達の仲は良好だと思ってもらえており、実のところ助かっていた。
奇妙だがごくたまに便利な婚約者、レイラに対する認識はその程度だった。彼女に必要とされたいと願う気持ちは、ほとんど消え失せていたように思う。期待するだけ無駄だと諦めていたのかもしれない。優しく接しても、何の反応もなかったから。だけど間違っていたのは僕だ。上部だけ繕った優しさなんて、そんな紛い物しか与えない人間に、誰が情をかけたいと思うものか。
それでもレイラはだけは違った。僕の紛い物の優しさにとっくに気付いていたにも関わらず、変わらないでいてくれた。僕の婚約者が本当は強く、人情に溢れた女性であることを思い知るには、まだ時間がかかる。
ゆるやかだった歯車が急速に動き始めたのは、とある令嬢が新星のように社交界に登場した時からだろう。
誰よりも可憐で、男を虜にしてやまないソフィア嬢に、あろうことか僕も夢中になってしまった。容姿もさる事ながら、聞きつけた噂が惹きつけられた最大の要因だった。
"慈愛に満ちたその様は、まるで聖女のよう"
ソフィア嬢ならば僕を受け入れてくれる、僕の気持ちを理解してくれる、そう信じ込んでいた。彼女が僕と似たような生い立ちを歩んできたと知ったから余計に。だが、所詮は「似ている」だけであって「同じ」ではない。自分の気持ちを完璧に共感してもらおうなど、不可能なのである。僕にはその当たり前の事が分かっていなかった。ただ盲目になっていただけだった。
自分でもあからさまにソフィア嬢に夢中だったから、流石のレイラでも勘付くかと思った。けれども、彼女はやはり何も変わりなかった。相変わらず視線は虚空を彷徨っているし、無だし、会話も乏しくて。本当に僕に欠片の興味もないのだと、改めて突き付けられているようだった。
それならそれで構わないと開き直った僕は、ソフィア嬢をどうにか口説き落とそうと奮闘した。レイラをいいように使った事すらあった。月の真ん中の日、例によってレイラをカフェへと連れ出した。他の令嬢から教えてもらった、今一番人気のカフェだ。ここまではいつもと同じ。普段は互いに黙っていても気まずくないようテラス席に座る。でもその日だけは個室を選んだ。いつかソフィア嬢と来る時を想定してのことだった。
「今日は個室ですか?」
レイラにそう問われた際、内心どきりとした。適当に誤魔化せば、彼女は追及してこなかったので安堵する。
ついでに、女性目線でこのカフェはどうなのか知りたくて、僕は彼女に色々と質問した。レイラは不思議がる様子もなく、むしろいつになく丁寧な返答が返ってきた。ソフィア嬢とのデートに想いを馳せていた僕は、婚約者のちょっとした変化を疑問に思わず終わってしまった。
だって夢にも思わないだろう?
僕に関心のないと思っていた婚約者が、僕とソフィア嬢の仲が上手くいくよう、陰ながら力になろうとしていた、なんて。
婚約していながら他の女性にうつつを抜かした僕が全面的に悪いのは承知しているが、だとしてもこの結論に行き着くことは無い。それは今でも断言できる。
愛想笑いのレイラに「優しい」と評され、えもいわれぬ感情に囚われた時、僕の目が覚めていたなら違った未来があったのかもしれない。
予想外すぎるところから後押しを受けていたものの、ソフィア嬢の瞳は僕ではない男を一心に見つめていると、早い段階で気付いてしまった。その相手は我が国の皇太子。その時僕はまるで「ロイス家のお荷物に用は無い」と言われたように感じていた。
ソフィア嬢は分け隔てなく優しい女性で、僕はその他大勢の一人に過ぎなかった。彼女が特別な優しさを示す相手は僕ではない。
やっと出会えたと思ったのに。
結局、僕は誰にとっても不要な人間なのか。
絶望に押しつぶされそうになった僕に、更なる厳しい現実が襲いかかる。いやきっと、身から出た錆だ。レイラに不満があったとは言え、婚約者に対する僕の態度は不誠実すぎた。こんな事になったのは自業自得というほかない。
ロイス家の屋敷が全焼した。
一夜にして、すべてが灰になった。
しかし僕が失ったものは、それだけではなかった。
僕と家族達の寝室は距離が離れていた。離されていたと表現するのが正しいか。それが天国と地獄の分かれ目だった。僕の寝室は出火場所から近く、火の回りがはやかったのだ。それにあの晩、僕は結構な量の酒を飲んでおり、半身が焼かれるまで火災に気が付けなかった。僕の断末魔を聞きつけた使用人に救出されたは良いが、それから数週間は生き地獄だった。
とにかく火傷が痛い。まだ炎が体を焼いているかのように痛み、眠ることもままならない。気を失えたら、どれほど楽だったか。命がけで助け出してくれた使用人には申し訳ないが、いっそ見殺しにしてほしかったと何度も思った。
でも、何より痛かったのは心の方だ。
分かってはいた。僕は要らない子だと。ロイス夫妻にとって、大切なのはお腹を痛めて産んだ我が子。それが当然のこと。分かっている。分かっていたが、もがき苦しんでいる僕を置いたまま戻って来なかった事は、身体を焼かれるよりも辛かった。両親とて災いがどうのと完全に信じている訳ではないだろう。ただそう言っておけば世間も納得するし、自分達も良心の呵責をさほど負わずに済む。要するに、やっとお荷物を堂々と手放せるのだ。
もう、乾いた笑いしか出てこなかった。
焼けただれた目から涙が出てくることもなかった。
狂ったように笑う僕を、下っ端の使用人達はうす気味悪そうに見下ろしていた。誰も好き好んで僕の介抱をしたがらなかった。それはそうだろう。化け物みたいな男が、不気味に笑っているのだから。
もう僕には、すべてがどうでもよかった。
明日には息の根が止まっているといい、そんな事さえ考えていた時だった。
レイラが僕を見舞いに来た。
メイドが彼女の来訪を告げた一瞬、耳を疑った。僕のいる別荘は、ベネット家から遠くもなければ近くもない微妙な距離。しかも結構な山奥だ。真冬に来るような場所ではない。そんな場所へ、あの冷めた婚約者が来たというのか?
にわかには信じられなかったが、レイラは本当にやって来た。寒かったからだろう、鼻と頰を赤くしているレイラを見て、僕が最初に抱いたのは感謝ではなく憤りだった。
惨めな姿を笑いにきたのか、そう感じたのだ。口が動かせたなら、この時に怒鳴りつけていたに違いない。僕は自分のことでいっぱいいっぱいで荒んでいた。僕を見た彼女の表情が苦しげに歪んでいたのさえ、嘲笑って見えるほどに。
「必ずよくなりますから、大丈夫です」
初めて、彼女の愛想笑いではない笑顔を見、感情のこもった声を聞いた。
なんてことない普通の小さな微笑みと、静かな声。こんな気休めにもならない言葉が、僕には何か特別なもののように思えたのだ。胸が詰まるような感じがして反応できずにいると、彼女は労わる声音で言葉を続けた。
「また来ますね。動けないと退屈でしょうから、今度は本を持ってきます」
どうせ社交辞令だろう。今日来たのだって、誰かに強制されて渋々だったに決まっている。ところが穿った見方をする僕の予想は大きく覆される。
また来ますという約束を、レイラは忠実に果たした。五日後、彼女は再び深い雪の中をやって来た。そして持参してきた本をゆっくりと朗読し始める。彼女が口下手なのは知っていたから、僕が喋れないとなると朗読でもしなければ間が持たないと考えていたのだろう。親が子に読み聞かせる場面というのは、こんな感じなのか?経験の無い僕には分からない。
彼女の静かな声が心地よくて、つい聞き入ってしまうこともしばしばだった。真剣に耳を傾けている自分に気付いてびっくりすると、決まって腹立たしく感じて、リクエストを聞かれても答えなかったりした。思い返すと馬鹿みたいだ。意地悪したくなったというのもあるが、学術書ばかり読んできた僕には、レイラの選ぶ物語が面白く聴こえて、リクエストの必要がなかったのもある。
狙ってやっているのか、レイラは続きが気になるところで読むのを止める。それで彼女は栞を挟んで本をベッドサイドの机に置いて帰るのだ。片手は使えるので本くらい読めるのだが、僕は頑なにページをめくろうとしなかった。片手を動かすのも億劫だと言い訳を思い浮かべながら、本心では「この栞が最後のページまでいったら、彼女はもう来なくなるんじゃないか」と考えていた。
レイラを除けば、忌まわしそうに世話をする使用人と医者しかここへは来ない。僕はいつしか、彼女の来訪を待ち焦がれるようになっていた。いつまで来るつもりなのだろうか、どうして…来てくれるのだろうか。
腹の底で燻る憤りは健在なのに、彼女が来なくなるのは嫌だという、矛盾した気持ちを持て余しながら、確かに僕はレイラを待っていた。
身体にまとわりつく包帯が減っていくにつれ、そこから現れたのは目を背けたくなる状態の肌だった。自分でも不快に感じる見た目だ。災いだと忌み嫌われるのも仕方がない。
こんな自分を誰が愛してくれるのか。今までにない深い、深い絶望だった。鏡を見ることが恐ろしくてできなかった。包帯をしていても、酷い有様だったからである。片目だけ無事なのが憎らしくさえあった。
そして、包帯がすべて外れた日。レイラは笑顔でその事を喜んでくれた。
「包帯がとれて良かったですね」
心から安堵したように笑う彼女を見た瞬間、僕の感情は爆発した。
「……よくやりますね」
「え…?」
「惨めな人間に優しくして、どうでした?優越感に浸れましたか?立場が逆転して清々しましたか?」
何故、このタイミングだったのか自分でもわからない。とにかく僕は猛然と酷い言葉を浴びせた。
「良い女だと思われたかったんですか?それとも婚約者としての義務感ですか?そんなに僕に好かれたかったんですか?笑えますね」
レイラという女性がわからなかった。
関心なんて無かったはずなのに、どうして来たんだ。僕の家族、友人として付き合っていた人達、一時的とはいえ付き合った女性達、そして僕が求めた人のうち、誰もここへは来なかった。手紙の一通すら寄越さなかったのに。
貴族なら皆が知っている。僕がロイス家で微妙な立場にあることを。それでも一応、名家に名を連ねているから関わりを持っていただけ。当家から見捨てられたと判断されれば、僕の利用価値は無くなる。
それなのに君は…僕が蔑ろにしていたレイラだけは、通い続けてくれた。とっくに喋れるようになっていたのに、黙りこくったままの僕に愛想を尽かすこともなく、凍てつく寒い日でも、見舞うのをやめなかった。
なぜ、そんな事ができるんだ。
「僕のことなんかどうでもいい癖に!!そんなに他人の不幸が嬉しいのか!!僕がこんな風になった途端、足しげく通うなんて君は最低だなっ!!」
寡黙な彼女だけれども、そういう最低な人間でないことくらい、七年の付き合いの中で知っている。最低な人間だったら、言葉を選んだ丁重な手紙を書いたりしない。
頭ではちゃんとわかっていたのに、口からは暴言しか出てこない。長きに渡る鬱憤を、こんな場所に来てくれた唯一の女性にぶつけた僕こそ最低だ。
「その薄気味悪い顔を見るのはうんざりだっ!!」
罵るだけに留まらず、僕は彼女が置いていった本を掴み、勢いよく投げつけた。僕の豹変ぶりに呆然としていたレイラは、咄嗟に庇うこともできず、硬い表紙の本は鈍い音を立てて彼女に当たった。
すると、今までまともに目が合わなかったレイラと、はっきり視線が交わる。澄み渡った空のような色だった。
彼女は痛いと文句を言う事も、怒る事も無かった。本を朗読する時のような声で、こう言った。
「…まだ完治していないのに、無理に動かしてはだめですよ」
皆が気持ち悪がって、かくいう僕自身でさえ見たくないと思った、酷い火傷痕の残る手にレイラは触れてきた。デートの折には恐る恐るだったくせに、今回に限っては一切の躊躇なく。
驚愕のあまり言葉を失った僕に代わり、レイラは喋り続けた。
「ウォルター様に好かれたいと思って、ここへ来ている訳じゃありません。というより、好かれたいと思ったことはないですね。あなた様がソフィア様に恋慕しておられるのは存じておりますから」
「!?」
「『阿呆なのが長所』と評価する相手に、好かれようとする方がおかしな話かと」
「な、なぜそれを…!?」
こんなに喋る彼女も、彼女の本音を知るのも、何もかもが初めてだった。
「私の顔についてはコメントしかねますが、他人の不幸を喜ぶような人間と思われるのは心外です」
「……じゃあどうして」
「…恥ずかしながら友人と呼べるのは、ウォルター様しかいないんですよ」
「………」
ゆ…友人?そんな馬鹿な…
僕はますます彼女がわからなくなってきた。彼女の話が本当なら、全部承知の上で僕と会っていたことになる。怒っていてあの態度なら分かる。だが目の前にいる彼女の様子を見るに、これっぽっちも怒っていない。それどころか、僕を友人だと思っていると告白してきた。いったいどういう神経をしているんだ?自分で言うのもなんだが、こんな屑野郎と友人もやりたくないと思うのが普通じゃないのか?僕の何がレイラに友人と認めてもらえたのか皆目見当がつかない。
「友人が負傷したと聞けば、心配して見舞うのが当然でしょう。不幸見たさに雪をかき分けて何度も来る阿呆はいません」
彼女の言っていることは尤もなのだが、納得がいかない。
「友人の見舞いも鬱陶しいようでしたら、もう来ませんから」
僕が言葉を紡げずにいると、彼女は席を立って行ってしまった。
レイラが来なくなる…寒々しさだけがのこる部屋を想像したら、僕は耐えられないと思った。走れるほどの体力はまだ戻っていなかったため、急いでメイドを呼び、伝言を託した。非常に慌てていたとはいえ、謝罪の言葉の一つもなく、ただ『また五日後に』と書いたことを後悔したのだった。
彼女が帰った日の晩のこと。
眠ろうとしたら、不意にレイラがこちらを見つめて触れてきた光景が瞼の裏に蘇り、涙が溢れた。
レイラの手は冷えていた。僕のいる部屋は暖めてられているのに、雪を掻き分けて来た彼女を暖めるには至っていなかったのだ。後になってメイドから聞いたが、深雪の日は途中から徒歩で来ていたらしく、そこまでして僕に会いに来てくれたことを知り、嗚咽が止まらなかった。
友情という形ではあったけれども、僕を大切に想ってくれる人が、ちゃんといた。それも、こんなにすぐ近くに。ずっと求めていたものは、七年も前から手に入れていたのに。
本性を知っても、姿が醜くなっても、貴族としての立場が無いに等しくなっても、変わらないでいてくれたレイラ。彼女にとっては当たり前のことだったかもしれないが、僕からすればその"当然"は何よりも価値があり、絶望の底から救い上げてくれたのだ。
それから彼女が来ない五日間が、本当に長く感じられた。それに不安でもあった。暴言に加えて暴力まで振るった相手に、また会いに来るのかと。
しかし僕の不安は杞憂に終わり、彼女はぼんやりとしたいつもの面持ちでやって来た。どんな試練を乗り越えたら、ここまで強くなれるのだろうか。
とにかく謝罪しなければと思い、冷え切った彼女を急いで部屋に通してから、ひたすら謝った。それなのにレイラは、気に病まなくていいだの、一番辛いのは僕だからだの、拍子抜けするくらいケロッとしていた。
「先日の件もそうですが、以前からの失礼な言動もお詫びしたく…」
「ああ、それで思い出したんですが、あの赤い大きな宝石がついたネックレスはお返しした方が良いですか?差し上げたいご令嬢がいらっしゃったのでしょう?いつまでも私が持っているのは忍びないので」
「……本当にすみません。今更謝って済むことではありませんが…」
レイラはどんな気持ちで、手紙を綴り、あのネックレスを着けていたのだろうか。考えただけで罪悪感に押し潰されそうになる。
「責めているように聞こえたのでしたら謝ります。すでに申し上げた通り、ウォルター様を男性としてお慕いしている訳ではありませんから。友人の恋が成就すれば、それに越した事はないですしね」
「……そうですか。では、ネックレスは返していただけますか?」
「はい。もちろんです」
それにしたって、あっさりし過ぎではないか?友人だと思っているなら、こんなものなのだろうか?いや、何か違う気がする。でもレイラがあまりに普通な感じで返してくるので、僕の感覚も狂っていく。
「改めてプレゼントしますから。今度こそ、きちんと君に宛てた物を」
「え?私に贈っている場合ですか。ソフィア嬢の気を引かなくて大丈夫なんですか」
僕は途方に暮れた。
これは前途多難すぎる。
「………色々と物申したいことはありますが、ソフィア嬢なら皇太子殿下と相思相愛の仲ですよ」
「こういう時、気の利いた言葉をかけられなくて申し訳ありません」
「婚約者である君が、そんな言葉をかける必要はないです。むしろ怒るところですよ…」
見かけはいたって普通の令嬢なのに、中身は全然普通じゃない。無論、悪い意味ではないが、未知の生物と遭遇した気分だった。
変わった婚約者だけど、僕はもう彼女を手放す気はさらさらない。
「…レイラ嬢」
「はい」
「……こんな僕ですが、まだ…婚約者でいてもいいと……思ってくれますか?」
「はい。この婚約について、私は口出しできる立場にはございません」
「そうではなく……いや、今はひとまずそれでもいいか…」
「??」
地に落ちた僕の評価を上げるのは、時間がかかりそうだ。でもいつか、友人ではなく生涯の伴侶として認めてもらえるよう努力するのは、まったく苦に思わなかった。むしろ楽しみだった。
レイラに振り向いてもらおうと頑張るのは苦ではなかったが、彼女はだいぶ手強かった。何せ他の令嬢には通用した方法が、レイラには全然通じないのだ。
欲しいものを尋ねれば「カワウソ」と返ってきた。まさか生物を希望されるとは思わなかった。しかもカワウソって…犬とか猫なら辛うじてわからなくもないが…いや、やっぱりちょっとわからないな。結局、本物は手に入れられなかったので職人に依頼し、大きめの人形を作ってもらった。職人にも怪訝そうな顔をされたが、僕が一番謎に思っている。完成した人形を渡したら、彼女は目を輝かせた後、へらっと笑った。よほど気に入ったのか、見たことのない種類の笑顔を披露してくれて僕は満足だった。
好物を訊いたのは、彼女に食べさせてあげたかったからだ。そう計画していたのに、返ってきた答えは「揚げた芋」。そんな料理の付け合わせを好物だと言われるとは予想しておらず、僕の計画は立案もままならずに終わった。
大抵ぼんやりしているレイラだが、それとなく問い掛けたところ「完結しなかった物語の続きを考えるので忙しい」と教えてくれた。物書きになりたいのだろうかと思ったが、そんな壮大な話ではありませんときっぱり言われてしまった。彼女、大人しい割に言う時は結構言うのだ。何にせよ本好きのようなので、それゆえ朗読も上手なのかと褒めたら「特技は歯磨き」だと…僕は特技の定義がわからなくなった。
だんだん僕も遠慮が無くなってきて、終いには彼女の異性好みを直球で聞いてしまった。覚悟はしていたが、レイラの返事はやはりびっくり仰天の内容だった。「少々、品の無いお話になりますが…」という前置きから嫌な予感がした。とても具体的に話してくれたが、その内容は放屁についてだった。仮にも婚約者相手に、その話題を選んだ度胸がすごい。どこまでも僕は異性として見られていない証拠なのか。それとも気を許してくれていると良い方向に捉えるべきなのか。
今でも時折、生まれ変われたらと思うことはある。レイラと出会ってからの七年間を取り戻したいからだ。身体に残る火傷痕はもういい。これが無ければ、僕の気持ちに変化は生じなかったに違いないから。悔やまれるのは、もっとはやくレイラの謎めいた思考を探れば良かったという事だ。こんなに興味が尽きない日々は初めてだった。
手応えが感じられない日々は続いたものの、レイラの方も僕に歩み寄ろうとしているのがわかると、飛び上がりたくなるほど嬉しかった。以前から僕の話を聞くには聞いていたが、乗ってくることをしなかったのに、今は違う。素直すぎるくらいに自分のことを語り、僕のことも知ろうと懸命になっているのがわかる。彼女の切り返しに怯まないようにするのが今後の課題だ。
レイラが素直な気持ちをさらけ出すのに釣られて、いつしか僕も自分が味わってきた辛酸をつい彼女にこぼしていた。カジノ場で叩いていた軽口ではなく、淡々と呟くように。聞いていて少しも楽しくない、重たい話だ。話す側は心が軽くなるかもしれないが、聞かされる側は堪ったものではないだろう。長々と続く愚痴めいた話を、レイラは無言の相槌とともに最後まで耳を傾けてくれた。声を詰まらせる彼女の面持ち、慰めの言葉はそれで充分だった。
やり直せるならばと考えることはあれど、この人生に幕を下ろしたいとはもう思わない。それは他の誰でもない、君のおかげだと伝えたところ、レイラはやっぱりぼんやりとしていた。この顔は、あまりよくわかってないな…
「君の魅力を知らないまま死んでいたら、悔やんでも悔やみきれなかった、という意味です」
「詳しく仰ってください」
魅力という単語が腑に落ちない様子だった。
レイラは確かに華々しい令嬢とは言い難い。彼女より美しい令嬢は大勢いる。だが、僕のことを「ロイス家のウォルター」ではなく「単なる友人のウォルター」と見てくれる人はレイラだけ。だから僕にとっては、かけがえのない人なのだ。
「だいぶストレートに言ったつもりなんですが……君を好きになれて幸せだと、伝えればわかりますか?」
「ファ!?」
変な声を出した直後、レイラは見たことのない表情になった。瞳を真ん丸にし、徐々に頰が赤らんでいく。飛び退いて後ずさりそうな勢いだったので、僕は彼女の手を掴んで引き止める。
「残りの人生をかけて、誠意を示すと誓います。この言葉に偽りがないと感じたら、その時は僕のことを友人以上に想ってはもらえませんか?レイラ」
君に不実だった七年間を取り戻すには、生涯かけて証明するしかないと思った。もし君に心を向けてもらえるなら、それでも足りないくらいだ。
彼女の青い瞳は忙しなく揺れていたが、逸らされることはなかった。そして、小さな声で「はい」と返事があったのだった。どうして感謝を伝える言葉はたかが五文字で終わってしまうのだろう。それしきでは到底足りないというのに。けれども言わずにはいられない。「ありがとう」と。
僕の婚約者には、まだまだ謎めいた思考、知らない表情は多いけれども、それらを知る楽しみがあるのは、とてもとても幸せなことだ。