終焉
ローデリヒがライマーを伴って中庭に駆けつけると、何人もの衛兵が辺りを駆け回っていた。
二人の衛兵が周囲を警戒して立つ足元に、地面に膝をついた小柄な体と、その前に横たわる人影があった。
横になって動かない人物の正体に、ローデリヒは血の気が引いた。
「ハインツ!! なにがあった!?」
「父上……! 曲者が現れて……エーミールが僕を庇って」
少年はそれだけを言葉にするのが精一杯だった。
ハインツの肩を掴みそれを押しのけ、ローデリヒはエミーリオの傍らに膝をつく。
真っ青な顔で口の端から血を流し、胸元を真っ赤に染めたエミーリオは既に虫の息だった。
「——エーミール! エーミール、しっかりしろ!」
ローデリヒはエミーリオの首を支え、必死に呼びかける。
エミーリオは苦しげな呼吸を繰り返すばかりで、反応を示さない。
ローデリヒは顔を歪めた。
辺りではハインツの声に駆けつけた衛兵による捜索が続いているが、どこに隠れたのかいまだ暗殺者発見の声が上がらない。
「もっと人を増やせ。必ず探し出すんだ!」
「……ローデリヒ、様……」
指示を出すローデリヒの下で、小さく声がした。
見下ろすと、エミーリオの目が薄く開いていた。
ローデリヒは一瞬安堵を覚え、その頬に手を添えた。
「しっかりしろ、エーミール。暗殺者はすぐに見つけ出してやる」
「陛下……、どうか、探して、は、いけま、せん」
「――何を言う!?」
「ハインツ様はご無事です、から、捜索は、不要、です」
「ハインツが無事でも、おまえがこの様ではないか!!」
エミーリオに傷を負わせた、ローデリヒにとってこれ以上になく憎むべき暗殺者の捜索を止めろと言う。到底聞き入れられない頼みを口にするエミーリオに、ローデリヒは激昂した。
エミーリオは息も絶え絶えに繰り返す。
「どうか、探しては、いけません」
エミーリオは暗殺者の正体を明らかにすることを望まなかった。
仮面で顔を隠し剣を手にした男が現れた時、エミーリオは咄嗟にハインツを背後に庇った。暗殺者から王太子を守らなければと。
しかし、その切っ先が迷いなく自分に向かってくるのを見た瞬間、エミーリオは暗殺者の正体を悟った。
暗殺者は最初からエミーリオを狙っていたのかもしれない。あるいは、ハインツでもエミーリオでもどちらでもよかったのかもしれない。暗殺者の背後の人間がローデリヒかエミーリオのどちらかに復讐することができれば。
エミーリオは迫り来る暗殺者を憐れに思ってしまった。
絵画にしろ音楽にしろ、芸術活動を続けていくにはパトロンがいないと難しい。
彼についたパトロンは社交界への顔利きも金銭力もこれ以上にないほど強力な存在だ。それ以上のパトロンなど望むべくもないが、彼ほどの技量があればそれなりのパトロンは他に見つけられただろう。それでも、パトロンに使い勝手のよい駒扱いをされても彼がこんな役目を引き受けた理由は。彼にとってパトロンは二人とない主であり、そして。
エミーリオとて、どこかで違っていたらどんな人生を送っていたかわからない。あの日ある夜、もしローデリヒの前で歌っていなかったら。
いなかったら。
考えられない。意識が朦朧として思考が霞む。
「エーミール!」
目蓋が落ちようとするエミーリオに、ローデリヒは必死に呼びかける。
かろうじて目を開いているエミーリオは、己を抱きしめる人の背後に、唇を噛みしめて立つライマーの姿を見た。彼になにか言わなければいけないことがあった気がするが、思い出せない。
「エーミール!!」
己の名を呼び続けるローデリヒの顔を見上げ、終焉を目前にしながらエミーリオは喜びを感じていた。
愛し愛され、愛する者の腕の中で逝けるなら、なんと幸福な人生だったろうか。
「あなた、の、腕、の中で、逝くことができるなら、ぼ……僕は、幸せ、です」
「——死ぬな! 駄目だ逝くな……俺を置いて逝くなど許さない、離れないと……二度と俺から離れないと、いつか誓ったではないか!!」
ローデリヒは顔を寄せ叫ぶが、エミーリオは耳から入ってくる音の意味を理解できなくなっていた。
ただ、悲壮な響きが、眠りに就こうとするエミーリオの意識を懸命に揺さぶる。
なにか言わなければ。彼に伝えておかなければ。
「……歌を」
エミーリオは消え入りそうな声で囁いた。
「どこ、にいて、も、あなたに、歌を」
なにを言っているか自覚のないまま、唇を動かす。
ローデリヒはエミーリオの口元に耳を寄せ、必死だった。
「——いつだ!? いつおまえの歌が聴ける!? エーミール!!」
「ローデリヒ様へ、歌を、捧げ……」
視界がぼやける。ローデリヒの顔も、その背後の青空も見えなくなる。
痛みも意識も遠ざかる。
エミーリオは自分の体が空に舞い上がるように軽くなるのを感じた。
ハインツは生涯、汚れるのも厭わず亡骸に縋りついて離そうとしない父の姿を忘れることはできなかった。
皇帝の相談役の死亡直後に、血に濡れた凶器を持った暗殺者が捕まった。
その正体が皇后が連れてきた歌手だと判明した時、宮殿内に動揺が走った。前皇后の時の紛擾の二の舞はご免だと言う空気も広がった。
取り調べの結果、誰の指示でもなく、ただ相談役が自分を拒絶したことに腹が立ったのだと歌手は言い張ったが、歌手一人の罪とするには皇帝の気が収まらず、本来は王太子を狙ったものを虚偽の供述をしている可能性もあるとして徹底的に調査をさせた。その結果、第二王子派の大臣が黒幕とされ、当該の大臣の処分と歌手の処刑により暗殺劇は幕を閉じた。真の黒幕はそのままに。
その後、最初から冷え切っていた皇帝と皇后の仲は完全に途切れた。再婚を進言した相談役がいなくなったことで、皇帝は后をまったく顧みることがなくなり、やがて后が何人も愛人を抱えるようになっても関与することはなかった。
年月が経ち、王太子が成人してしばらくすると、時期尚早と言われつつも帝位を譲り、皇帝は隠居した。ただ、自身の時に苦労をした経験から、新皇帝が権力を掌握することには尽力した。
新皇帝は芸術活動を推奨し、画家や音楽家をよく支援した。対して隠居後の先帝は相変わらず芸術に関心を持たず、特に歌は聴こうとしなかった。彼はよく自室で静かに本を読んで過ごしていたが、その傍らには必ず、彼に尽くした相談役の青年の肖像画があった。
そしてさらに時は経ち、先帝は病に倒れた。
長く床に伏している先帝の寝室に、ある朝、涼やかな歌が流れ込んできた。窓の外、寝室へ向かって伸びている一本の枝に、季節外れの小鳥が留まっていた。
小鳥は歌った。空を飛ぶ楽しさを語るように。病に伏す先帝の心を慰めるように。または愛を囁くように。爽やかな朝の日差しの中で、穏やかに歌っていた。
先帝が小鳥の歌声を愛でるのを見て、長年彼に仕えている書記官が捕まえて篭に入れましょうかと進言すると、先帝はそのままでいいと仰せになった。
小鳥は、次の日も、その次の日も、枝先に留まり、先帝に歌いかけた。
その日の朝、小鳥の声は聞こえなかった。
書記官が先帝の寝室に入ると、先帝は窓際に置かれた長椅子で、窓へ向かって手を伸ばすようにして亡くなっていた。
目を閉じ、軽く首を傾けたその顔は、とても穏やかなものだったという。




