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木漏れ日の下で

 次の日、音楽ホールに集まった楽団は妙な空気に包まれていた。


 エミーリオが顔に傷を負っている。ギュンターはホールに姿を見せない。二人の間になにかが起こったことは明白だった。


 ギュンターは純粋に楽団に加わるために現れたわけではない。当初からわかっていたのに、起こるべくして起きたことに団員達は戸惑っていた。エミーリオは平生のように振る舞っているから尚更に。


 そんな中、楽団長は悲壮感を顔に浮かべてエミーリオの顔を覗き込んだ。

「おお、エーミール。なんということだ。美しい顔が台無しじゃないか」

「……傷はいずれ治ります。それより、今日は歌を控えさせていただいてもよろしいですか。口を開けられなくて」

「もちろんだ。怪我の治りが悪くなっては困るからね」

 顔に触れそうで触れない位置で両手を広げる楽団長に、エミーリオは意識して笑顔を見せる。


 そこへ、誰かがホールの入り口に顔を出した。


 一瞬、室内に緊張が走ったが、それはその場にいる誰もが思い浮かべた男よりも小さな影だった。

「邪魔していいかな?」

 遠慮がちに顔を覗かせた王太子を、楽団長が素早く迎えに出る。


「ようこそ、ハインツ殿下。稽古をご覧になるのですか? 我々としては完成されたものをご覧に入れたいのですが」

「少し暇ができただけなんだ。ちょっと歌を聴かせてもらえたらと思ったのだけど。無理かな」

「歌ですか。今すぐ準備いたしましょう」


「……ねえ、エーミールはどこ?」

 椅子から立ち上がった歌唱隊の顔ぶれを見て、ハインツは首を傾げる。


「こちらにおります」

 エミーリオは壁際の椅子から立ち上がり、ハインツの前へ進み出た。


「——その顔! なにがあったの? 痛そうだよ」

 ハインツはエミーリオを目の前にして傷に気がついて驚きを見せる。


「不注意でぶつけてしまったのです」

「その口じゃ歌えないよね」

「ええ。僕は今日の稽古は控える予定でしたが……ハインツ様が歌をご所望とあらば」

「無理はしないで。いつでもかまわないんだ。僕は今までエーミールの歌を聴いたことがないから、時間ができて聴いてみたいと思い立っただけだから」


「ハインツ様はエーミールの歌をご所望でしたか。それでは、このままお聞かせしてもご要望にはかないませんかな」

 苦笑を浮かべる楽団長と立ち並ぶ歌唱隊に、ハインツは小さく慌てる。


「機会があれば、我々が上演する際に是非お越しください」

「そうするよ。稽古の邪魔をしてごめん」

「団長。ハインツ様をお送りしてます。今日は歌えませんから」

「ああ、ではまたな、エーミール」

「ええ、また」

 楽団長に会釈して、エミーリオはハインツに続いて音楽ホールを後にした。


 通路で二人きりになると、ハインツはエミーリオの腕を軽く引っ張った。


「エーミール、エーミール。ねえ、このまま庭でも散策に行こうよ」

「時間はよろしいのですか」

「もうしばらく平気じゃないかな。先生が腰を痛めて到着までに時間がかかるという話だから」

「腰は大変ですね」

「あの先生、いつも張り切りすぎなんだ。年を考えてもう少し落ち着けばいいのにと思っていたところにこれだよ」

「なるほど。では、先生の快癒をお祈りしながら、しばしのんびりしましょうか」


 二人は外へ面している通路からそのまま空の下へ出た。

 建物からは離れないようにしながら、木陰の差す小径を歩く。


「……昔、こうやって一緒に歩いた?」

 ハインツは隣のエミーリオを見上げる。


「覚えていらっしゃるのですか」

「少しだけ。……母上だった頃のエーミールだね」

「面白いことをおっしゃいますね。僕がハインツ様のお母上だったなんて」

「でも事実だよ。確かにエーミールは母上だったんた。僕は母上と歩いたとしか覚えていないから」


「ハインツ様の記憶を乱してしまい、申し訳ありません」

「そういう意味で言っているんじゃないよ。違うとわかっていても、母上に優しくされていたと思えるのは嬉しいんだ」

 ハインツは母の記憶ばかりを嬉しそうに語る。


 エミーリオはふと、罪人となってからのアルマだけでなく、父であるローデリヒもハインツと触れ合いがないことに気がついた。


 ローデリヒはハインツをまったく顧みないわけではなく、王太子の教育に足る人材を集めて周囲を固めさせ、父帝としての務めは十二分に果たしている。ハインツも皇帝と王子の関係に疑問を持ったことはない。けれど、エミーリオはそれを寂しいことと捉えてしまった。


「僕でよろしければ、またこうしてお供させていただきますよ」

「父上がお許しくださるかな? エーミールも、僕といるより父上のお側の方が嬉しいでしょ?」

 慰めようとしたのに、逆にからかうようなことを言われ、エミーリオは頬に朱を走らせた。


「どこでそういうことを覚えてらしたんですか」

「僕だってそれぐらいわかるよ」

 ハインツの笑顔は無邪気なものだった。


 思えば、エミーリオは今のハインツぐらいの歳の頃には貴族や商人の家に出入りしていた。


 急に愛しさがこみ上げ、エミーリオはハインツを背中から抱き締めた。

「悪いことを覚えるのは母は感心しません」

「ふふ。ごめんなさい、お母様」

 かりそめの母子ごっこに二人は興じる。


 エミーリオはハインツを腕に抱いたまま空を見上げる。

 この地方にしては珍しく雲が少なく、明るい日差しが木々の葉や小径を照らしている。清々しい空だった。


「少し歌いましょうか」

「無理はしなくていいよ」

「あまり口を開かなければ大丈夫です」

 そうしてエミーリオは歌い始めた。


 ハインツは初めて聴くエミーリオの歌声に耳を傾ける。

 今日の天気を音に変えたような澄んだ声が、そよ風に乗って遠くまで流れる。


 その歌声は、執務室のローデリヒの耳にも届いた。


「エーミールの歌声が聴こえるな」

「……確かに声が。外にいるのでしょうか」

「音楽ホールではないのか。何故外に。……しかし、やはりいい声だ」

「窓を開けましょうか?」

「ああ」

 屋内外を隔てるガラスをライマーが取り払えば、歌声はより鮮明になった。

 ローデリヒは書類に落としていた目を閉じ、しばし耳を傾ける。


 不意に歌声が途切れた。


 次の瞬間、ハインツの悲鳴が聞こえた。

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