扉のない篭
寝室にいたローデリヒは、下がらせたはずのライマーがエミーリオを連れて訪れたことも驚いたし、守るように付き添われたエミーリオの憔悴した様子に目を見張った。
「何かあったのか?」
「不注意で顔を怪我したそうです」
即答したライマーに、エミーリオは俯いたまま肩を揺らした。
「酷いのか?」
「強めに打ったようで口の端が切れていますが、二、三日で治るでしょう」
「見せてみろ、エーミール」
ローデリヒが手を伸ばし、エミーリオを呼ぶ。
エミーリオはライマーの顔を見た。
ライマーはそれ以上を自分の口から説明しようとはせず、黙ってエミーリオの背を押す。
エミーリオはおずおずとローデリヒの前に進み出た。
「痛むか?」
ローデリヒは椅子に腰かけたまま下から顔を覗き込む。
時間が経ち、エミーリオの片頬はさらに腫れ上がっていた。唇の端は軽く拭っただけのまま、相変わらず血が滲んでいた。
顔へ伸びてきた手に、エミーリオは体を震わせる。
怯える様子は痛みを怖れるためとローデリヒは誤解した。
「可哀想にな、エーミール。ライマー、医師の手配を」
「かしこまりました」
ローデリヒはエミーリオの傷を気遣っても、それによって見た目を厭う気配はない。
エミーリオは茫然として突っ立っていたが、急に膝から崩れ落ちた。
「エーミール!? 大丈夫か!」
慌てて抱き起こそうとするローデリヒに、エミーリオは顔を歪めて縋りついた。
「——ああ、ローデリヒ様……ローデリヒ様……!」
膝に顔を埋めて泣き叫ぶ。
初めて見るエミーリオの取り乱した姿にローデリヒは狼狽したが、震える肩に静かに手を添えた。
途端に、手の下で体が跳ね上がる。
数瞬声が止んだが、大きく体を震わせて再び溢れ出した声は、悲痛な響きを増していた。
ローデリヒはエミーリオが落ち着くまで、その薄い肩を撫で続けた。
呼吸も闇に溶ける静寂の中、ベッドに横になったローデリヒは、幼な子を守るようにエミーリオを抱きしめていた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
「……ローデリヒ様……」
胸元で小さな声がした。
ローデリヒが腕の力を抜くと、エミーリオは自分を包む広い胸にすり寄った。
「落ち着いたか」
「……はい。取り乱してしまい申し訳ありません」
促すように後頭部を撫でられ、エミーリオはゆっくりとローデリヒの顔を見上げた。
暗闇に視界を覆われ彼の顔が見えないことに安堵を覚える。逆もまた然りだからだ。たとえ今ここが光が溢れる空間だとしてもローデリヒはまっすぐに見つめ返してくれると既に知ってはいても、長年の思い込みはそう簡単にひっくり返るものではない。
「それほど痛い思いをしたんだろう。辛かったな」
「お気遣いありがとうございます。傷は、大して痛くはありません」
「痛くないような傷には見えなかったが」
「いえ、本当に……痛みは大したことは」
痛いことも、辛いことも、終わるまで心を閉ざしてしまえばなにも感じない。
エミーリオにとって恐ろしいことはただ一つ、ローデリヒに疎んじられることだけ。
「おまえがそう言うなら、そうなのだろう」
長い指先が絹を愛でるように髪を梳く。
声の響きや指の動きから、闇のベール越しにもローデリヒの表情が想像つく。
エミーリオはローデリヒの優しさに口元を緩めながらも、同時に、この暖かな腕まで強引に導いたライマーの顔を思い浮かべ、胸の奥でくすぶるものがある。
エミーリオの外見へのこだわりはエミーリオのものであって、ローデリヒは異なっていた。ライマーの考えが正しかった。愛する人への理解が劣っていたという理由で誰かに悔しさを覚える日が来るとは思ってもみなかった。
それはそれとして、彼がピアノ室であの状況に居合わせることになったのは、おそらく、また苦言のためだったのだろう。しかしどんな理由であれ、もし彼が来なければもっと酷い事態に陥っていた可能性が高い。次に顔を合わせた時には、悔しさを一旦捨て、礼を述べなければ。
「……ローデリヒ様……」
エミーリオはローデリヒの胸に顔を伏せた。
ローデリヒは髪を撫で続けながら囁く。
「エーミール。理由は聞かん。だが、おまえが泣くような理由が俺の見ていない処で起こるのなら、おまえを俺の側に置いてどこへもやらず、傷つかないように四六時中見張ってやろうかという欲求に駆られる。黄金と宝石で取り巻いた篭をあつらえ、そこへ閉じ込めたおまえに、おまえを傷つける何者も近づかないようにと」
「ローデリヒ様の望まれるままに」
「だが俺は、どこへ行っても必ず俺の許へ戻ってくるおまえを愛している。あれはもう……八年前のことか。おまえは戻って来た。離れていた間もずっと俺を求めていたと言った。その言葉がどれほど嬉しかったか……。今の俺はわざとおまえを自由に飛び立たせ、毎晩必ず戻ってくるおまえの姿におまえの愛を感じ、喜びを覚えるのだ」
「僕の乗る風は、絶えずローデリヒ様の許へ」
エミーリオが手を伸ばすと、ローデリヒはそれを掴み、自分の頬へ当てた。
そうしてただ触れ合っていると、やがて、エミーリオの瞼が重くなった。
ローデリヒは気配でそれに気づく。
「眠いか」
「……はい……」
「ゆっくり寝ろ。また明日も、おまえが俺の許へ戻ってくるのを待っている」
指先を包むぬくもりに心地よさを覚えながら、エミーリオは目を閉じた。




