64.抱擁
目が醒めたとき、まず飛び込んできたのは憔悴しきったエリューシアの顔だった。
「月香」
無防備なほどの安堵を見せて、彼は月香と視線の高さを合わせた。
「気分はどうだ? 解毒は完璧だから問題ないと思うが、起きられそうか?」
「……たぶん」
シーツの上で体勢を変えて、両手をついてゆっくり起き上がる。眩暈などはない。ただ少し、だるいだけだ。
見たことのない部屋だ。やたら広いし、調度品も立派だ。カーテンは細めに開けられており、室内の明るさを適度に調節していた。
「何か食べられそうか?」
「いえ……あの、水があれば」
月香の背中をうまく枕にもたせかけて、エリューシアはすぐに水の入ったコップを差し出してくれた。礼を言って、一口啜る。適度に冷たくて、ぼんやりしていた意識もだんだんはっきりしてきた。
昨夜の、記憶も。
「殿下、あのあとどうなったんですか?」
国王の盃を飲み干したあとのことが、混乱している。まさかあのあとどちらかが月香と同じ目に遭ったとは考えにくいが、どういう展開を見たのか。
「とりあえず公式発表では、何者かが父上に毒を飲ませようと企てたのを、叔父上が感知し、巫女姫であるお前に指示して阻止するため、こういう事になったと言ってある。――あの時、こう伝えたかったんだろう?」
月香は頷いた。胸がとにかく熱くて痛くて、話そうとする度涙が出るほど苦しかったけれど、そういう筋書きですべてをまとめてほしいと思っていた。正確に伝わっていたこと、そして、それをしっかり受け止めてくれたことに、彼女は微笑んだ。
「よかった……」
「よくない」
思わず呟いたのを、エリューシアが鋭く遮った。驚いて顔を上げると、彼の緑の目が厳しい光をたたえていた。
「何一つ、よくない」
「殿下……?」
とんでもない問題が持ち上がったのか。どうすればいいのか。
月香がそう尋ねるよりも、エリューシアが動く方が早かった。
「で、っ……!」
「心配した」
頬と鼻先と、肩と胸と腕と。
自覚できるところすべてに、硬くて温かい感触がある。
「ちょ、殿下!?」
「私も、祖母も、アステルも、琴音も、レナードも。みんな心配してた」
背中が苦しい。少し、痛い。
締め付けられている。彼の両腕に。
「なんであんな無茶するんだよ……!」
とてもとても強く、月香を抱きすくめる力が信じられないくらい。
囁くエリューシアの声は、消え入りそうだ。
「毒が致死量じゃないなんて保証はどこにもなかったし、たまたまアンジュレインが王宮内にいたから処置が間に合ったが、少しでも条件が違えばどうなっていたか」
普段と違う彼の声で、恐ろしい仮定が紡がれる。
もし、毒が大量にあの酒の中に入っていたら。もし、アンジュがいなければ。
もし――。
「月香……?」
エリューシアの腕から、僅かに力が抜ける。しかしすぐに、しっかりと月香の身体を支え直した。
震えが、伝わったからだろう。
さっきは感じなかったはずの眩暈が、寒気を引き連れて押し寄せてきた。
目を開けていられない。鮮明に感じられるようになった温もりと人の感触に、月香は必死で縋った。
苦しかった。喉が、胸が、痛かった。息を吸うと、まるで炎を流し込まれているようだった。目も眩んで、少しずつ暗くなって、考える事も、徐々にできなくなって。
「月香、大丈夫か?」
背中に、熱を感じた。
何度も、位置を変えて。
「すまない。今はもう、考えなくていい。落ち着け」
撫でてくれている。エリューシアの手が。
あやすように。
背中を、肩を。髪を。
眩暈が、消える。ひどい寒さも、なくなる。
温かくて。
目を、開ける。自分の手がしっかりとエリューシアの服を掴んでいたのに気づいて、あわてて放す。
「無事でよかった」
ゆっくりと、エリューシアが離れた。顔を見られるのが恥ずかしくて、月香は急いで俯いた。
寝起きだ。それにあんなに苦しい思いをしたから、きっとやつれている。そうでなくても、こんな状況でどんな表情をすればいいのかわからない。
わかっているのは。
「殿下」
「ん?」
それでも、これだけは言わなければならないということ。
「……ごめんなさい。ご心配をおかけしました」
そろそろと、顔を上げる。
この言葉は、喩え今の自分がどんなにひどい顔であっても、しっかり彼を見て伝えなければならない。
「ありがとうございます、殿下」
エリューシアは、微笑んだ。
ただ、優しく。
だから月香は、逃げなかった。
彼の翠の眼差しから。伸ばされる手から。
再びの、深い抱擁からも。




