65.母
いずれはこのような状況へ行き着くだろうと、シディアは予想していた。
アンジュレイン皇子は、シディアの目から見ればずさんなほど前身を隠す工夫を凝らしていなかった。当初は、こんな計画など持っていなかったのかもしれない。しかしそれならば、こんな企みなど最初から実行に移さない方がよかったのだ。
「兄様?」
本を読んでいたミュージアが、彼を呼んだ。もともと勉強が好きな妹は、皇太后の庇護下に入ってからは礼儀作法はもちろんのこと、学問を身につけることも許されていた。このままそれらの知識教養が有益と見なされれば、エンディミオンでそれなりの生活ができるようになるかもしれない。
「ああ、どうした?」
「考え事をなさっておいでのようでしたから。どうなさったんですの?」
言葉遣いにも、首をかしげただけの仕草にも、どこか華やかさを感じる。これが『洗練』というものなのかもしれない。皇太后の選んだ礼法の教師は、相当腕がいいようだ。もちろん、ミュージア自身の努力のたまものでもある。
「いや、別に。これからのことを少し考えていただけだ」
「皇太后様が、きっとよくしてくださいますわ。一族のみんなも、皇太后様のお力添えで自由になれたんですもの」
ミュージアは無邪気にいうが、彼らとシディアの立場は違うのだ。皇太后にとってミグシャ族は何の政治的な要素を持たない存在だったし、ミュージアはシディアのための取引材料だった。シディアは、ザークレイデス皇国の影の一部分を知る貴重な情報源。皇太后にとって同族達の救済は、シディアを動かし意のままにするための前金でしかなかっただろう。
改めて、ミュージアを見る。美しく髪を結い、こざっぱりとしているが上等なドレスを身につけてすんなり背筋を伸ばす姿は、兄の欲目を抜きにしても十分人目を惹きつける。何よりも、笑顔が幸福で輝いている。今まで一度も手にできなかったものを、ここへ来て初めて与えられたのだから当然だ。
だがそれは、いつまで続くのだろう。
アンジュの素性は、明らかになってしまった。しかも、国王とその弟に対して働きかけていた裏工作のことも、すべて知られてしまったという。今彼がどうしているかはわからないが、まさか大手を振って王宮内をうろつくようなことが許されているわけがない。
陰謀のすべてを引き出されたあと、シディアにとって致命的なことも彼の口から暴露されてしまう。それは恐らく、早晩。
「兄様、本当にどうなさったの? 怖いお顔……」
自分一人で身を隠すのは容易い。しかし、ミュージアは。何も知らない、あどけないこの娘を、平穏で煌びやかな幸せの中から、また引きずり下ろさなければならないのか。
こんこん、と。
シディアの憂悶を、のどかな軽い音が断ち切った。
「はい?」
ミュージアが立ち上がり、扉を開けに行く。軽い驚きの声を上げたあと、シディアを振り返る。
「兄様、アンジュレイン様がいらっしゃいましたわ」
シディアは、驚いて立ち上がった。
だがミュージアについて部屋に入ってきたのは、間違いなく黒い髪のザークレイデス皇子だ。
「妹君のことは、心配いりません」
挨拶も前置きも一切無しで、アンジュは言った。
「彼女が無関係であり、むしろ被害者であることは皇太后殿下もよくご存知です。苛烈で厳しい方ですが、非道なことをするお人柄ではありませんから」
不思議そうな顔をしているミュージアを振り返って、アンジュは微笑んだ。
「だからここへ残していっても、悪いようにはならないでしょう。でも私やあなたは違う。あなたが望むなら、一緒に行きましょう」
「どこへ?」
問いには答えず、アンジュは手を伸ばした。シディアの額に、触れる。正確には、未だに嵌められたままの粗末な木の輪に。
「もっと早く、外してあげればよかったですね」
巫女姫清子の力を宿し、彼女自身かもっと上位の力を持つものでなければ外せないはずの輪は。
アンジュの手で、無造作にシディアの頭から外れていった。
「どういうことだ?」
「巫女姫と同等――いえ、それ以上の力があるものを私が持っている。それだけのことですよ」
茫然としている彼の手を取って、アンジュは部屋の扉の前へ誘った。
「母が私にくれました。これを使って逃げることもできただろうに、そうしなかった。なぜかはわかりませんが、やはり許せない記憶があったのかもしれない」
取っ手の下には、鍵穴がある。そこへアンジュは、一本の鍵を差し込んだ。この部屋のものではない。鍵は、部屋の机の引き出しに入れていたはずだ。
回すことなど叶わないはずなのに、鍵は容易に動いた。
そして。
「どうしますか? シディア」
ゆっくりと開いた扉の向こうは、見慣れた王宮の廊下ではなかった。
「これは……!」
目を見開き、シディアは言葉を失った。信じられなかった。これが錯覚でも夢でもないとしたら、なぜこんな光景があるのだろう。
鬱蒼とした黒い森、黄昏の空。それらを従えた、小さな教会。鐘楼をもつ質実な建築様式は、エンディミオンのものではない。
「かつてのルーベウス領、ザークレイデスに近い辺境の地です。今のところ、逃亡先に相応しい安全な場所は、ここだけでしょう」
すでにアンジュは、扉の外へ一歩踏み出していた。ごく当たり前のように、自分の家の庭にでも出るように。
「残るのなら、それも構いません。その鍵は差し上げます。もう私にも母にも、不必要ですから」
シディアは、視線を鍵穴に落とす。長い紐につけられた鍵がまだ残っていた。真鍮のような色で、紫色の宝石が一つ嵌まった不可思議な形をしている。
「どうしますか?」
アンジュは、今や完全に向こう側へ出てしまっていた。こちらに身体を向けシディアを見ているが、その瞳にあるのは乾いたあきらめだ。
何も、求めていないのだ。期待して、いないのだ。
シディアは、後ろを振り返った。ミュージアがいる。緊張に前身を強ばらせて、自分と同じ色の眼差しで彼を見返している。
美しく結った髪、優雅な立ち振る舞い、上質の衣装。
視線を、廻らせる。森と空と、陰鬱な教会を従えた青年が、佇んでいる。
アンジュが、俯いた。踵を返す。遠ざかっていく。ゆっくりと。
シディアは。
「兄さ――!」
妹の叫びは、中途で途切れた。背後を見やると、そこには森の影が鬱蒼と広がるだけだった。
「……どうして……」
シディアを中途半端に振り向いた姿勢で、アンジュは茫然としている。青い瞳が、激しく揺らいでいた。
「誘いをかけておいて、何を言っている?」
乱れた青灰色の髪を乱暴に背中へ払い、シディアは溜息をついて歩き出す。すれ違いざま、アンジュの腕を取ってそのまま引きずって行く。
「来てくれるはずがないと思って……」
「なら、なぜ一緒に逃げるかなどと訊いた?」
アンジュは言葉に詰まる。そのまま進んでいると、教会の入り口へと辿り着いた。
少し力を込めて押すと、容易に開いた。がらんとした建物の中は、無人でひやりと肌寒い。
「ここは?」
「……昔は、この辺りにも小さな村があったのですが、干ばつなどが重なって無人になりました。この教会だけが、その名残です」
アンジュは、そっとシディアの手を外した。そして、静かに奥へと進んでいく。自分の足で。
「母を匿っています。ルーベウスで死にたいと、いつも願っていたから」
教壇の向こうに、それと言われなければ気づかないほど小さく細い扉があった。開いた先には、やはり細い通路がある。建物の造りから考えて、生活空間と繋がっているのか。
「病気という噂は本当だったのか」
「ええ。身体もですが、心に受けた打撃が大きすぎたのです。私を産む前からずっと、母は正気を失っていた」
扉を閉めてしまうと、通路の中は真っ暗になった。辛うじて、向こう側から差し込む微かな光だけが頼りだ。
「幼い頃は母の譫言の意味がよくわからなかったけれど、歴史を調べたり、当時を覚えている老人達の話を集めたりしてみた結果、朧気ながらも何が起きたのかを知ることができました。ルーベウスの王子達が異世界の巫女姫と共に世界の境界を越えた瞬間を、母は目の当たりにしていたらしい」
大陸中で語り継がれている、最も滑稽な事件。以前、アンジュに対して揶揄したことをシディアは思い出す。
どんな気持ちで、彼は聞いていただろう。
「あの鍵は、巫女姫のものです。世界を越えるためには、あの鍵を使うしかない。王子二人を連れて行くとき、巫女姫は鍵を置いていった。ただ忘れたのか、意図的だったのかは不明です。母はその鍵を手にして――ザークレイデス皇帝に捕らえられた」
光が、近づく。そこへ飛び込む瞬間、シディアは目を眇めた。
すぐに、視界は明るさに馴染む。小さな部屋だった。テーブルと、椅子が二脚。台所も丸見えで、同じ空間に寝台が一つ置いてある。
初老の女が、横たわっていた。灰色にくすんだ髪は艶がなく、皺の刻まれた顔には疲労と衰えしか見て取れない。
アンジュは寝台に近づいて傍らに膝を折った。
「ただいま戻りました。母上」
女は、身じろぎすらしなかった。アンジュは軽く掛布を直し、そのまますぐに立ち上がった。
「二階にも、横になるくらいの部屋はあります。不便ですが、寝るときは一緒にそこを使ってください」
言いながら、アンジュはテーブルのすぐ横にある窮屈な螺旋階段を登っていく。
シディアにも母親にも、一瞥すらくれないままで。




