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56.神であっても

 これでいい、はずだった。

 正しいことをしていると、今も自信を持っていえる。それは自分だけでなく、やはり同じような立場にいる彼にも当てはまることだ。彼の場合、それを証明しているのは皮肉にも『敵』だったが。

 少し、頭が痛かった。アンジュはこめかみを押さえ、癒しの力を注ぐ。足は自然に、いつもの休息所へ向かっていた。

 この王宮はきらびやかでいながらよそよそしくてあまり好きにはなれないが、あの小さな日当たりのいい部屋だけは別だった。人で溢れる王宮の中にあって、いつもひっそりしているからかもしれない。

 あの場所を知っている者すら、そもそも少ない可能性もあった。それならそれでありがたい。静かに物思いに耽りたいときに、騒々しい他人の話し声や気配は鬱陶しい。

 そういえば彼女も、賑やかなのはあまり好きではないのだと言っていた。

 月香。

 彼の好む静寂を、安らいだ表情で分けあってくれた女性。

 知らず知らずのうちにひそめていた眉を、扉に手をかけたときに自覚した。

 正しい、はずだ。自分が間違っているとしたら、これまでの出来事のすべてが正当化されることになる。

 父。

 母。

 そして、彼が生まれる前の醜悪極まりない事件。

 正しい、に、決まっている。

 間違っているなどと、言わせない。そんなことは許さない。

 たとえそれが、神だとしても。

 扉を、勢いよく押し開ける。その瞬間視界を満たしたのは午後の真っ白で豊かな光の奔流と。

 その流れを密やかに遮る、細い後ろ姿。

 月香。

 背筋をぴんと伸ばし、少し俯いているようだ。うなだれている、のではない。その手の中に、開かれた小さな本があった。

 よかった。

 そう思い、そんな自分の心に戸惑った。

 ここで二人、お茶を飲んだのはずいぶん前のことだ。焼き菓子と静寂をただ、分け合って。

 どんな顔をしていただろう、彼女は。

 黒い髪に黒い瞳。彼は、黒髪がずっと嫌いだった。不愉快な記憶にしか結びつかなかったから。

 でも。

 陽の光が、さらさらと流れ落ちる。艶やかに黒い彼女の髪の上を。

 目を灼くことすらあるきらめきは、ぬばたまを照り返しているだけでなんと鮮やかに、それでいて穏やかに変わるのだろう。

 眩さが、落ちる。

 華奢な肩の上に。そして。

「アンジュさん?」

 月香は、本を手にしたまま振り返った。

 咄嗟に何と言えばいいかわからず、アンジュは彼女から視線を逃がした。

「ごめんなさい。ここ、使いますか?」

「え?」

「休憩に来たんじゃないんですか?」

 気を遣われたのだと、ようやく悟る。

「いいえ、いいんです。何となく来てみただけですから」

 彼女の邪魔はしたくなかった。だからそう答えたのに、月香が俯くから立ち去ることができなくなる。

「何かあったんですか?」

 だからつい、尋ねていた。

 月香は再び顔を上げたが、そのせいで浮かない表情が露わになって彼は息を詰める。

「……何でもないんです」

 笑おうとして失敗した顔で、月香は虚勢を張る。

「大丈夫、ちょっと疲れていただけで。すみません」

 浮かび上がる言葉が、次々と泡のように消えていく。

 唇を引き結ぶ。月香は、わかっていない。わかろうともしないのか。

 こんな風に言われてしまったら、もうなにも口にできない。気遣う思いも、労りたい気持ちも。

「あなたは、そうやってため込むんですね」

 ようやく外へ出せたのは、こんなことだけ。

 既視感を覚える。いつだったか、同じようなことを彼女に言った気がする。

「何にこだわっているのか誰にも話さないで、ただ我慢する方が得意なんでしょうね」

 ずけずけとした物言いだと、自覚していないわけではなかった。けれど、やんわりとした遠回しの言い方は、今はできそうになかった。

「耐えることが常に美徳だとは限らない。誰かに救いを求めることも、時には必要なんです。自分のためにも、周りの人のためにも」

「……私は……そんな」

「勇気がいりますけれど。人に頼ることは」

 そこでアンジュは、しゃべりすぎた自分を後悔した。

 月香の顔が、歪んだから。

 泣く、と直感したから。

 でもそれは、幸いなことに的中しなかった。

「私……」

 月香は、今までずっと開いたままだった本を、静かに閉じた。覚束ない動作でそれをテーブルに置き、指先が手持ちぶさたに表紙の上を彷徨う。

「……苦手、なんです」

 ぽつりと、彼女は呟いた。

「弱音や愚痴を聞かせて、嫌われるんじゃないかって……。呆れられるんじゃないかって、いつも思うから」

 アンジュは静かに、彼女の向かいの椅子に腰を下ろす。いっそう間近で見えるようになる。

 月香の顔が。

 唇の、動きが。

「他の人は当たり前にできていることを、私ができないと言ったら、責められるんじゃないかって。努力してないのに何甘えてるんだ、って」

 それが怖い――のだと。

 小さな声が、震えた。

 アンジュは、そっと手を伸ばしていた。月香の指に触れる寸前で、はっと我に返る。彼女の指には少しだけ遠い、本の背表紙の手前で彼の手はぱたりと動きを止める。

「誰も、責めたりしません」

 けれど、言葉を届けることに躊躇いはなかった。

「みんな、同じです。努力するのも、それでも届かないことがあるのも。誰かができないことは、他の人がやればいい。人は万能ではない。神ではないのだから、当たり前なんです」

 きっと神すら万能ではない。彼はそう思っている。

 だったら人が完璧を極められないことが、何の罪だというのだろう。

「月香は、怖がりすぎです。少なくとも私は責めなかった。だったら、他にもいるはずです。月香の怖さを理解してくれる人が。もちろんあなたを責める人もいるでしょうが、あなたを認めて受け入れてくれる人がいるのなら、立ち向かえるとは思えませんか?」

 閉じられた本の上で、月香の指は位置を変えなかった。しかしもう、頼りなげに何かを辿ろうともしていなかった。

「ありがとう、アンジュさん」

 頭を下げた彼女の声も、アンジュの知る歯切れのいいものだった。

「本当に、ありがとうございます……」

 やがて本を攫って、彼女はゆっくり立ち上がる。

「やっぱり、神官さんってすごいですね。話を聞くのが上手なんですね」

 もう一度「ありがとう」と言って、彼女は部屋を出ていった。

 彼女が完全に遠ざかっていったであろう時間をおいて、アンジュも席を立つ。

 神官だから。

 彼女にとっては、そう、だったのか。

 彼の言葉は、想いは、そう響いたのか。

 自問自答する。いったい自分はどんなつもりで、彼女にあんなことを言ったのだろう。

 しかし廊下を進む内に顔見知りの貴族に声をかけられて、気まぐれな問い自体をそのまま忘れてしまった。

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