55.悪意の定義
エンディミオン王国の王宮、皇太后のための離れ。
その居間の中程に立っている小柄な少女の存在を、シディアは咄嗟に信じることができなかった。
「ミュージア……」
「兄様」
か細い声の、記憶とまったく同じ響きが耳から心へと落ちるにつれて、ようやくこれが空しい己の願望ではないことを彼は信じた。
「ミュージア!」
今にも倒れそうな少女を、駆け寄って抱きしめる。細い。こんなに痩せていただろうか。けれど目の前にちらつき頬を優しく撫でる長い髪の色は、彼とまったく同じ青灰色。
ミグシャ族の証。
「兄様、私……」
「何も言わなくていい。いいんだ。無事でよかった」
ミュージアの声が辛そうで、思わず遮った。彼女がどこに囚われていたか、彼は知っている。皇帝の後宮。忌まわしき肉欲の檻。彼女に対してあの醜悪な生き物が、虜囚以外の立場を強要しようとしたとしても不思議はない。
いや、実際にそうだったのかもしれない。
腕の中で、ミュージアの身体は小刻みに震えている。
ただの人質だと、そう言ったはずだった。
それ以外の役割を強要したりはしない、と。
――もし、それを違えられていたとしたら。
「感動の対面のところ悪いんだけれど」
穏やかに口を挟んできたのは、華乃子皇太后だった。
シディアは妹の肩をしっかりと抱いたまま、老獪な権力者を睨みつける。
「これでこちらは約束を果たした。ああ、他のミグシャ族についても心配はいらない。いろいろ話し合った結果、隣国に全員移住させるということで納得してくれたからね」
『話し合い』の結果どこで何がどう動いたのかは、シディアには興味がない。だから何も言わずに、妹を見た。ミュージアは微笑んで、皇太后とシディアとの間に交互に視線を移動させた。
彼女は、どうやら皇太后を信用しているらしい。
「……何を要求する?」
もともと善意での行為ではない。借りというなら、こちらの方が山ほどある。こうしてミュージアを連れてきている以上、シディアへの返済請求が今ここで成されるのは確実だった。それも、たっぷりと利子をつけて。
だがそれも、予想の内だ。もうザークレイデス皇国に従う理由はない。
皇太后は、自ら三人分のお茶を用意した。ついその手の動きを注視してしまうシディアとは対照的に、ミュージアは皇太后の招きに素直に応じ、隣の椅子に座った。そしてシディアにも腰掛けるように促す。
どことなく、疲れているような顔をしていた。憶えている彼女は、いつも屈託なく活発だったのに。
「知りたいのは、皇国の目的と、何をあんたに命じたかということ」
皇太后は、静かに言った。
「留守中に、シャンデリアが落ちるとかいうとんでもない事件があったらしい。しかも孫息子の調査では、明らかに誰かがそう仕組んだ形跡があるという話」
ミュージアは恐ろしげに小さく声を上げ、シディアは目の前に置かれたカップにじっと視線を注いだ。
「おかしな報告もあるの。怪しい人影が、落下の直後逃げていくのを追いかけた者がいて、その者は相手とちょっとした格闘もしたというのに、そんな奴がどこから忍び込んでどうやって逃走したのか誰にもわからないらしい。衛兵を呼んで、追跡させたという報告もあるのにね」
未だに額に巻き付く、木の輪が急に意識された。嵌められた者に悪意や害意があれば感知して、強く締め付けるという道具。
『人の悪意を見抜き浄化する』巫女姫、清子の力の加護があるという。
自分が最初に聞かされた話では、その発動条件は『王宮の敷地から出る』ことだったはずなのだが。
気のせいか、皇太后は木の輪を凝視しているように思えた。
悪意に反応するか否か。
この、自分の。
「……妹と、積もる話もあるでしょう」
やがて皇太后は、あっさりと引いた。
「案内させるから、戻るといい。ああ、彼女と一緒に、新しい部屋を支度させたから。間にドアがあるから行き来しやすい。その方がいいだろう?」
「ありがとうございます、華乃子様」
礼を言ったのはミュージアで、シディアは唇を引き結んだまま立ち上がる。
つい木の輪に触れたくなるのを、我慢した。
「荷物はすでに運ばせたからね」
その言葉を背中で流して、彼は廊下へ出る。待ち構えていた衛兵のあとについて、ミュージアを支えながら歩く。
なんとか、今は乗り切った。
木の輪に手を伸ばす。動く気配はない。ようやく肩から力が抜けた。
大陸を平定し、未だこの国のすべてを動かしているといっても過言ではない女傑とは、正直あまり長い時間渡り合う自信はなかった。
ぎりぎりの差ではあったが、今日の面会より前にこの輪の真の力を教えてもらっていてよかった。
悪意に反応する魔法の道具。
ふと、唇の端が歪んだ。
悪意。
いったいそれは、何を以てして定められるのか。




