54.お茶の約束
気丈でしっかり者で、滅多に感情を露わにしない強い娘だと思っていた。
しかしそれは平常時の一面に過ぎなかったことを、月香の涙が何よりも雄弁に物語っていた。
いつもと変わらない様子でエリューシアの書類整理を手伝っている月香は、昨日の脆さを微塵も感じさせない。冷静でてきぱきとした、いつもの彼女だった。
けれど今のエリューシアは、一切の感情が浮かばない彼女の顔が仮面となって、今も何かを覆い隠しているように思えてならない。
そんな風な見方をしていると、月香が気を張り詰めているのも何となく伝わってくる。
彼女の仕事の進め方は能率的だが、一切手を止めずに処理をしている。つまり、考えるのと手を動かすのを同時に進めているということだ。言葉にして表すのは簡単だが、実際にやるのは大変だし、集中力も必要とされる。
疲れるのでは、ないか。
エリューシアは切りのいいところで仕事を一旦止めて、黙々と整理作業をする月香の机の傍らへ移動した。
「何か?」
にこりともしないで、彼女はすぐに顔を上げる。無愛想というのではないが、これ以上ないくらいの無表情。
そういえば、彼女の笑顔を見たことは一度もなかった。
「お前にとって」
つい、訊いてみたくなったのは。
「私は――私だけではなく、ここで関わる者達は、どんな存在なんだ?」
知りたくなったから。
彼女の仮面の、向こう側を。
月香は軽く目を見開いた。けれどそれだけで、仮面はやはり外れない。
「どんな、とは」
「親しくなりたいとか、そんな風に考えることはないのか?」
仮面に、微細な変化が現れる。エリューシアの望んだものではなく、あからさまな疑念によってだったが。
「職場には、仕事をしに来るものですから……。私、今までそういうのが当たり前だと思って仕事をしていました」
「お前の世界では、当たり前なのか?」
「少なくとも、私が以前働いていたところとか……アルバイトも含めても、職場というのはそういうところでした」
月香の世界は、ずいぶん無味乾燥らしい。祖母や清子の世界でもあるわけだが、彼女達もそんな世界でそれを当たり前と思って生きてきた時期があったのだろうか。
「辛くはないのか?」
「私は別に。あ、でも、私みたいなのが一般的ってことでもなくて、職場で友達を作ったり結婚することもありますし。人それぞれだと思います」
そういうものなのだろうか。
そもそも、自分は【ショクバ】という概念自体がよくわからないのだということに思い至る。彼女はエンディミオンの王宮と、自分が仕事をする場所をそう認識しているようだが、エリューシアにとって王宮は生活の場でもあり、職務はただの日常だ。彼女とは、受け止め方が異なって当たり前なのだろう。
しかし。
「ここの居心地が悪いなら、率直に言ってもらっても構わないんだぞ?」
「え?」
「お前の仕事の出来がどうこうではなく、毎日ここで過ごすのが辛いのなら、どこか落ち着くところで別の仕事をしてもらうようにする。辛いことを無理に抑え込んでほしくはない。そもそも……」
そう、そもそもの始まりからして、彼女を無視していた。
「私の秘書官という役目も、祖母が命じたものだからな。月香の意向は聞いていなかったのだろう?」
「まあ、確かに……」
祖母は強引だからもしやと思ったが、本当にそうだったらしい。
苦笑して、エリューシアは身を屈めた。月香と視線が近くなる。
「仕えてくれる者を守るのが、主の役目。だが辛いことや不快なことを教えてもらえなければ、さすがにどうにもできない」
月香は、みるみるうちに赤くなった。昨日エリューシアの前で泣いてしまったことを、恥ずかしがっているのだろうか。そんな必要はないのに。
彼女に辛い思いをさせた、自分の責任だ。
「……つらい、のではないです」
頬にもとの白さがほんの少し戻る頃、彼女は小さく口を開いた。
「それは、いろいろな人がいますから、多少はいろいろあります。でもそういうのをいちいち気にしていたら、何もできませんから。総合的に考えると、別に辛いとか苦しいとかではないんです」
無理に感情を抑え込んだり、堪えたりしている様子ではなかった。エリューシアは無言で続きを促す。
「秘書官だって、確かにまあ、今思い出したら一方的かなとは思いますけど、無理そうだったらその時点で断ることもできました。社長が横にいましたし。それでも引き受けたのは、できないこともないかなと思ったからです。自分で決めたことです」
「本当に?」
「はい」
頷く動作は、きっぱりしていた。
「だったら、これからもこの役目でいいのか?」
「はい。大丈夫です」
あまりにはっきり肯定するから、それ以上エリューシアは何も言えなくなる。
立ち上がると、彼女を見下ろす体勢になる。物怖じしない、強い眼差しだ。それが真実のものなのか、やはり彼には判断できない。
月香が、わからないから。
「そうだな……それならもう何も言わない。ただ」
ただ、これだけは。
「お前も巫女姫なのだから、今の立場や役目がどうあれ本来この世界の柵の中には囚われないはずだ。だったら、もっと自由に考えてもいいはずだ」
これだけは、確かだ。
「月香」
「はい」
「まずは私達と友人にならないか?」
「……は?」
エリューシアは、自分の一言がもたらした思いがけない変化に喜んだ。
月香は口をぽかんと開けて、非常に間抜けな顔をしていた。
仮面が、消え失せて。
「遠慮しているだろう? 必要なこと以外は話もしないし、近づいても来ない。琴音は気楽に接してくれているのに」
「え、でも……そりゃ、琴音ちゃんは」
「アステルの学友だが、私やレナードにも気安いぞ。まあ急には難しいというなら、少しずつでもいい。そうだな……早速明日、一緒にお茶の時間に行こう」
「ちょ、お茶の時間って、一番忙しい頃じゃないですか!」
叫ぶ彼女はもう完全に素顔だと、エリューシアは確信していた。
自然に、微笑んでしまう。
なぜだかわからないが、嬉しくて。
「それまでに仕事はめどをつけておくようにするから。約束したぞ」
「勝手に決めないでください! 明日の仕事量は、明日にならないとわかりません!」
「じゃあ、命令」
「友達になろうとかいった口で命令しますか!?」
ぽんぽんと軽妙に言い返してくれる月香は、実に表情が豊かだ。
結局今日は笑顔は見られなかったけれど、エリューシアはとりあえず満足した。