37.ダンスは踊れない。
月香は夕食の支度に取りかかる。
「いてて……」
エリューシアのせいで変な角度に捻ったらしい足首が、ずきずき痛んだ。それでも、今日の終業時にマネージャーが不思議な力で治してくれたので、だいぶましになってはいる。マネージャー曰く、明日には問題なく動かせるそうだ。
しかし明日のことを考えると、いっそ怪我をしたままでもいいのではと思ってしまう。
「ダンスとかまじ無茶ぶりだし」
溜息が出る。そしてつい、米をとぐ手が疎かになる。
エリューシアの理屈はわかる。彼の秘書官である以上、こういう役目も仕事の一環となるのも理解できる。できるが、それとこれとは別問題だ。
「公式パートナーだったら、絶対悪目立ちするし」
エリューシアは第一王子、そのエスパシアにして異世界の巫女姫という肩書きが着いているのだから、出席者からいやでも注目を浴びるに違いない。月香自身に対してではなく、王子のエスパシアへの興味からだ。
重い気分の反動からか、豚肉の生姜焼きに豆腐の味噌汁、生野菜サラダとスタミナと栄養バランスの整ったおいしいご飯ができあがる。デザートもついて、いつもよりちょっと豪華だ。
「うん、おいしい」
いつもよりおいしくできあがった。市販の生姜焼きのたれを使わず、自分で生姜をすり下ろして味付けしたせいだろうか。
単純なもので、それだけのことでちょっぴりテンションは上向き修正された。
社交ダンスと同じなのかどうか不明だったが、概要だけはつかんでおこうと思い、月香は食事の後かたづけとシャワーをすませると、パソコンの前に座った。
と、そのちょうどいいタイミングで、スマホにメールが届く。琴音からだった。
『月香さん、こんばんは! 今日王女様から聞いたんですけど、パーティがあるんですって! 私も出席できることになりました。なんか、パートナーがいるらしいということで、王女様がアンジュさんにお願いしてくれるって言ってくれました。楽しみです!』
語尾には動くデコメのスマイルマークがついていた。
返信モードに切り替え、文章を打つ間に、妙に目が引きつけられる部分があった。
『アンジュさんにお願いしてくれるって』
つまり琴音のエスパシアは、アンジュということか。
アンジュは優しいし、神殿側から遣わされた巫女姫の補佐役でもある。パーティーで必要な心得の有無は不明だが、彼が一緒なら琴音も不安はないだろう。
何も問題があるはずはない。
適当に返信を打って、月香はパソコンに向かう。社交ダンスのサイトや動画を眺めてはみたが、どうも集中できない。
「疲れてるのかな」
つぶやいて、月香はパソコンの電源を落とした。時計を見るとまだ十時半にもなっていなかったが、たまに早寝をするのも身体にとってはいいことだ。
執心の準備と明日の支度を整えて、ベッドに入る。明日は通常業務は免除されている分、パーティ作法の特訓がみっしり詰まっている。
だから早く寝なければと思うのに、いっこうに眠気がやってこない。
スターサファイヤが、頭の中にちらついて。
琴音のエスパシアは、アンジュ。
何も問題はない。ないはず、だ。
月香はぎゅっと目を閉じて、暗示のためには効果がないとされる日本語ではなく、英語で羊を数え始めた。
――ちょうどその頃。
「なんなのだその一昔前の少女漫画のようなパターンは」
「お約束ってのは、常に普遍的だからこそ繰り返されてきたんだぜ?」
「ふむ、つまり名付けて、『恋愛の黄金律作戦』というわけか」
「怒られるぞそれ。元ネタ知ってる人どれだけいるかわからんけど」
という会話が、有限会社ウィヅ企画で展開されていたとかなんとか。
名曲です。