35.創造神の御名は
レマがよちよちとどこかへ行こうとするのを、レナードはすかさず抱き上げて止めた。レマはしかし暴れるでもなく、背の高い美丈夫の腕の中でご機嫌な様子だった。
「しかし、なんでこんな子供がついてくるんだ?」
至極もっともな疑問を提示したのはソファーに座っていたエリューシアで、琴音は少し離れたテーブルに王女と並んで勉強していたが、それを聞いてノートから顔を上げてにっこり答えた。
「レマちゃんは、皆さんと一緒に遊びたいんですよ」
「……そうか」
エリューシアはすぐに顔を背けた。だが琴音は、その直前のほんの一瞬、彼の顔に浮かんだ微妙な表情を見逃さなかった。
――また、答えをしくじってしまった。
人と話をしている時、よくこんな顔をされる。何と言っていいのか戸惑っているような、困っているような。
昔はその意味がわからなかったけれど、今は理解している。相手の求めるのとまったく見当違いのことを口にして、戸惑わせてしまったからなのだと。
つまんないよね、と面と向かっていわれたのは、それでもあの時が初めてだったはずだ。
高校に入って、初めて恋といえるような感情を経験した。その人を見るとどきどきして、一日中その人のことを考えるのが楽しくて、何もできなくなった。それが楽しいだけではなくなり、少しずつ時間が経つにつれて切なくなり、苦しくなった。
苦しすぎて我慢できなくなって、例えば雑誌の占いコーナーを見てみたり、恋愛アドバイス関連の本を買ってみたり、インターネットでその手のことを検索してみたり、いろいろしてみた。情報の山ができて、ためになるような話がたくさんあったような気はしたけれど、結局何も問題は解決しなかった。
そして、結果は。
――君、自分ってものがないよね。何にもできないし。つまんないよ。――
何にもできない。
その一言は大好きだったはずの人の声を鮮やかに留めたまま、今も琴音の胸に深く突き刺さっている。
「ねえた?」
舌っ足らずな声は、すぐ間近から聞こえた。
「わ、レマちゃん」
「ねえた、ないちぇゆの?」
レナードにだっこされたまま、レマはいつの間にか琴音の隣にいた。その椅子に座っていたはずのアステルは、これまた琴音が気づかないうちに兄の下まで移動している。
「あ、あわわ」
いつぞやの大失態のショックは、まだ消えていない。琴音は狼狽えたが、レナードの表情はとても静かでまったく揺らぎも見せなかった。気にしていないのか、あるいは表に出さないように気遣ってくれているのか。
どちらにせよありがたい。彼の様子も、この状況も。
「ねえた、ないちゃらめ」
「うん、大丈夫だよ。泣いてないよ」
琴音は、ぷくぷくした赤子の頬をつんつんつついた。
「ありがとう。レマちゃんは優しい子ね」
「あい。レマ、いいこ」
きゃっきゃとはしゃぐ赤子。琴音もつられて笑い出す。
「本当に可愛い子ですわね」
アステルが、兄を連れて近くへやってきた。人見知りしないレマは麗しい王女に向かって両腕を伸ばし、彼女も抵抗なくそれに応えレナードから赤子を受け取った。
「社長さんの弟さんらしいです。この間はお父さんとお母さんに会いに行っていなかったんですけど、今日は帰ってきてたから一緒に来ました」
「社長?」
眉を上げたのは、エリューシア。
「うちの祖母殿と清子様の上役でもあるんだよな」
「そうなります……ね」
「だよな」
エリューシアは、そこで黙り込んでしまう。レナードは心配そうに彼を見つめ、アステルはレマをだっこしたままにやにやし始める。
「王子様、どうしたんですか?」
「ああ、いや」
エリューシアは生返事をしたが、すぐに顔を上げた。
「私は直接会ったことはないが、お二人の話を総合するに、少年なんだよな? その『シャチョー』ってのは」
「はい。私も一回ちらっと見ただけでしたけど、同じ年くらいの男の子でした」
初めて社長に会ったのは、給料日の時だった。マネージャーとお茶してたら、ふらりと彼が現れたのだ。
『いつも弟の面倒見てくれてありがとうな』
社長と紹介されて琴音は驚いたが、彼があまりに気さくなことにももっと驚いた。クラスの男子と雰囲気があまり違わなかった。
髪が銀色であることと、瞳の美しい紫色をのぞけば。
加えて、絶世の美少年だった。無表情でいればきっと神々しくて近くに寄ることすらできないだろうと思うのに、彼はにこにこと気楽に笑っていたから、畏れにも似たそんな気持ちは湧かなかった。それでいて、美貌の力強さは損なわれていないのだからすごい。
「名前は、サナさんっていうんだそうです」
「サナ?」
「はい」
エリューシアの眉間に、深い皺が刻まれた。
「そして、その子供が、レマ?」
「はい」
「……サナ、レマ。レマ、サナ……」
「どうした、エリューシア?」
ぶつぶつ言い始めた従兄弟が心配なのか、レナードはとうとう立ち上がって彼の側まで歩み寄り、肩に手を置いた。アステルのにやにやがさらに不気味さを増した。
お兄様、今妹の妄想の餌食にされていますよ。
琴音はよほど忠告してあげようかと迷ったが、実行に移すよりもエリューシアの口からその言葉が零れる方が早かった。
「……レーマサーナ」
琴音は、首をかしげた。どこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。
どこで、だったか。
「まさかな」
琴音が答えを思い出す前に、エリューシアは踵を返す。影のように寄り添う従兄弟を従えて、そのまま部屋を出ていった。
「変なお兄様。どうなさったのかしら」
二人がいなくなった途端すまし顔に戻ったアステルは、仏頂面になった赤子をあやしている。琴音はしばらく考えたあと、一か八かで訊いてみることにした。
「王女様、レーマサーナってなんですか?」
アステルは、きょとんと目を見開いた。
「あら、琴音様はご存じなかったんですの?」
赤子はますます顔をしかめる。泣き出すのではないだろうか。心配になった琴音が手を伸ばすのと、王女が答えをくれたのはほぼ同時だった。
「この世界を創りたもうた神がレーマサーナ。平和を司る尊い御方の御名ですわ」
そうして琴音は、思い出した。
初めてこの世界へ来た時、気が遠くなりそうな階段を全力で制覇した直後に辿り着いた山頂には、その名の神を象った像が建っていたことを。