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172.ここから始まる

 今までけっこうな年月を生きてきたが、異性から告白された経験はまったくなかった。むしろ月香は、そういうことを敬遠し、毛嫌いしてきたから。

 しかもエリューシアとアンジュという、傾向は違うがどちらも美形だ。性格も悪くない。そんな人達がどうして自分などにと正直思う。というか、『人生捨てるにはまだ早いですよ』と本気で言いそうになった。

「はぁ……」

 久しぶりに帰ってきた自分の部屋で、コンビニのお総菜と自分で作ったシチューの夕食をとりながら、月香は溜息をついた。

 月香の気持ちが大事だ、とアザゼルは言っていた。確かに長い目で見ればそれが最善なのだと、月香も思う。

 問題は、月香の気持ちがどうなのかが自分でわからない、ということだ。

 二人とも、好きか嫌いかと訊かれたら「嫌いではない」。でも、「好きと言えるほど切実でもない」。だったら両方の申し出を断るのが正解なのだろうか。

 わからない。

 それに、この先もあそこで仕事を続けるとしたら、振った相手と毎日顔を合わせるのは気まずくないだろうか。二人とも子供じみた公私混同はしないだろうから仕事には影響が出ないとしても、人の気持ちとは仕事や理屈と別なところで作用するのだと、月香はもう知っている。

 だから、どうしたらいいのかわからないのだ。

「ごちそうさま」

 味気ない食事を終え、食器を洗う。風呂に入って寝支度をし、まだ眠気を感じなかったのでテレビを付けてみる。

 大した番組はやっていない。

 BGM替わりに付けっぱなしにして、本棚から小説を出してくる。しばらくページを眺めているが、頭に入ってこなかった。

 このところ毎日の生活の方がよほど波瀾万丈だったものだから、架空の物語では刺激が足りなくなってしまったのか。

 本当に大変だった。リストラされて、すぐに見つけた再就職先がめちゃくちゃで、マニュアルもなにも存在せず、それどころかいつの間にか魔王を倒すとか仮想敵国がどうたらとか国王暗殺未遂だとか、異世界転生物というジャンルでだいたいやるような展開ばかりが繰り広げられた。

 そして本当に、月香は魔王を倒した――らしい。感慨も何もない。何しろ、気絶してしまったのだし。

 覚えているのは、魔王に重傷を負わされて倒れ伏す、見知った人達。

 思わず勢いよく本を閉じる。頭を強く振って、幻想を追い払う。

 あんなことはもう、ごめんだ。もちろん、自分があんなことになるのも。

 部屋の隅に放り出していた仕事用の鞄から、A4クリアファイルを取り出す。正社員の契約書。少し前までほしいと思っていた待遇と環境と、条件。

 でもそれは、本当に月香にとって最善の選択なのだろうか。簡単にはやめられなくなる。やめたとしても、次を見つけるのが難しいだろう。まして正社員での雇用なんて、最近ではプロのミュージシャンになってミリオンヒットを飛ばすよりも難関と言われているのだ。

 どうすればいいのだろう。これもやはり、わからない。

「あーあ」

 とうとう書類も本も放り出して、月香はベッドに転がった。わからないことばかりだ。頭が疲れてしかたがない。

 横になっていると、急にうとうとと眠くなってくる。帰宅してすぐ掃除などもして疲れたし、そろそろ寝てしまおうか。

 テレビを消そうとリモコンに手を伸ばした月香は、そこで動きを止めた。お笑い芸人のコメントが、書き文字と一緒に目に飛び込んでくる。

「世間で絶賛されたって、結局自分が納得できなきゃ間違った選択をしたってことなんだよ」

 バラエティかと思ったら、いつの間にかちょっと真面目系の内容に変わっていたようだ。その芸能人の反省をドキュメント形式にまとめた再現ドラマのワンシーンだったらしいが、月香はそのままテレビの電源をオフにする。

 自分が納得できなければ。

 間違った選択をしたということ。

 アザゼルも、似たようなことを言っていた。

 同じ、なのだろうか。恋愛も、仕事も。

 ――人生も。

 ゆっくりとベッドから降りて、契約書を手に取る。

 ヴィヅで働くこと。あそこでの日々。それは月香にとって、どんなものだったか。

 出会った人々。出来事。いろいろなことがあって、そして、今に至る。

 今から始まるこの先は。

 契約書の内容を読む。何度も何度も、確認する。

 長い時間をかけて、月香は自分の心を探った。



 休みは一日だけ。たっぷり休養を取った朝、月香はマンションの扉を開けて外に出た。

 鍵を使えば一瞬で事務所だ。でも今日は、歩いて行きたかった。いい天気だし、少し考え事をしたい気分だった。

 鞄の中にはいつもの仕事道具と、署名捺印した契約書が入っている。提出したら、アザゼルはどんな反応をするだろう。まああのマネージャーのことだから、いつもと変わらず斜め上を行くリアクションがあるのだろうが。

 久しぶりに利用する最寄り駅で、切符を買う。通勤客と学生で混雑している光景も新鮮だ。たまには電車通勤もいいかもしれない。

 少し前まで、月香もこの中にいた。ラッシュの電車は苦痛だったし、早起きもいやだった。仕事は給料のためにするもので、それ以上でも以下でもなかった。やりがいなんていう言葉は、安い給料で従業員を働かせるための企業側の態のいい口実だとしか思えなかった。

 いや、今でもそれはあまり変わっていない。

 ただ、そういう事実と月香の人生は、必ずしもイコールではないのだと気づいただけだ。

 命の危険もあるけれど、ヴィヅでの日々は鮮やかだった。自分にできることがあるのだと実感できるのは、純粋に喜びだった。

 もっと自分に何ができるかを試してみたい、と思うほどに。

 たかだか魔王を倒しただけだ。これからあの世界では、きっといろいろなことが起きるだろう。それに自分がどう向かっていけるのか、考えるだけでやる気が出る。

 楽しい。

 目的の駅に着く。人混みをうまくすり抜けてホームに降り、外に出る。

 着信有無を確認しようとバッグから取り出したスマホに、琴音からのメールが入っていた。簡単な挨拶を前置きにして、絵文字に彩られた言葉が続く。

『私、バイト続けることにしました。あの世界の人達が好きだし、いろいろなことを勉強できて、すごく楽しかった。毎日何があるんだろうって、わくわくします』

 わくわく。

 とても楽しい響きだ。

 返信してからスマホをしまい、月香は顔を上げる。

 今日は、いったい何があるだろう。

 とりあえず、通常業務を進めることになるはずだ。だいぶ効率よく回るようになってきたが、改善点はこれからも出てくるだろう。臨機応変に対応していかなければ。

 そんなことを考えていると、エリューシアの顔が思い浮かんだ。

 彼は直属の上司だ。一日の中で何度も関わることになる。

 告白された相手と。

 彼だけではない。アンジュとだって会わないわけにはいかないだろう。

 唇を引き結んだのは、一瞬だけ。

 月香は、勢いよく顔を上げる。

「きっと、大丈夫」

 これだって、毎日起きる出来事の一つだ。だったら、何とかなる。

 何とか、できる。自分なら。

 事務所のあるビルが見えてくる。外から入るのは久しぶりだ。

 すべて、ここに入ってから始まった。

 そして、これからも。

 月香は足を止めビルのてっぺんまで視線を走らせた。太陽が眩しくて、目を眇める。

 大きく深呼吸してから、月香は元気よくビルに飛び込んでいった。

ここまでおつきあいくださり、ありがとうございました。二年ほどかかりましたが、こんなに長く連載したのは初めてでした。アクセス数、感想など、とても励みになりました。

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