1話 殿下、全然興味なさそうで助かります!
「勘違いするなよ。俺はお前に興味などない」
アルディン王子殿下の氷のように冷たい声が、広い玉座の間に響いた。
その正面に立っている僕は、ぽかんとまばたきをする。
玉座の間に響く沈黙。侍従がごくりと唾を飲む音まで聞こえる。普通の令嬢なら、きっとここで泣き出すところだろう。
けれど僕は、胸の奥でひっそりとガッツポーズをしていた。
(よし……!これで、変に好かれたりしない!)
「それは……光栄です、殿下。どうかお気遣いなく」
にっこりと笑ってそう答えた瞬間、殿下の眉がわずかに動いた。なんだか一瞬だけ動揺したような、そんな表情。
(あれ?今の、なんか変だったかな?)
妙な沈黙が流れたまま、僕と殿下は向かい合う。
こうして、僕の「形だけの婚約生活」は幕を開けた――。
……さて。なんで僕が、こんなところに立たされてるかっていうと。
遡ること三日前。
その日、僕――ルイス・ノルドは、辺境のぼろ屋敷で昼寝を満喫していた。
かつては立派な貴族の館だったが、今では壁の漆喰も剥がれ、天井からは陽の光が細い筋になって差し込む。
それでも、静かで穏やかな昼下がりは、僕にとって至福の時間だった。
夢の中で焼きたてのパイにかぶりつこうとした、その瞬間――
「ルイス!起きろ!とんでもないことになったぞ!」
どごん、とドアが開く音で、夢は見事に吹き飛んだ。
目を開けると、父が息を切らせて突っ立っている。
……パイが消えた。僕の幸せが。
「……父上。せめてノックくらいしてくれませんか」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃない!王家からお達しだ!お前が、王子殿下の婚約者に選ばれた!」
「…………はい?」
寝ぼけていた頭が、一気に覚める。けれど、理解は追いつかない。
僕の家――ノルド家は、没落貴族の中でも底辺をさまよっている。王族との婚約なんて、そんな話が来るはずがない。
「どうやらな、あのアルディン王子殿下が、どの婚約者とも上手くいかなくて困っておられるらしい。上から順に破談になり……ついに、男爵以下の家まで魔力適性検査が回ってきたんだと!」
「は、はぁ……」
父の顔は、満開の花のように輝いていた。
「見ろ、この封蝋を!本物の王家印章だ!我がノルド家が再び表舞台に立つ日が来たぞ!」
……いや、そんなこと急に言われても。
(……僕、まだ寝ぼけてるのかな。パイ食べてる夢のほうがよほど現実味あったんだけど)
だいたい王族の婚約者って、四六時中気を張って、背筋をぴしっと伸ばして、優雅に紅茶を飲んで、刺繍とかしてるイメージだ。想像しただけで、胃が痛くなる。
僕、寝るのと食べるのが好きなだけの、限りなく庶民寄りな男爵家の息子なんですけど……。
気品とか優雅さとか、どの引き出しを探しても出てこないタイプだ。
――だから正直、無理。絶対に無理。
「父上、たぶん僕、そういう華やかな場所に行ったら三日で倒れますよ」
僕の言葉を聞いた父は、机をばんっと叩いた。
「ルイス!王家からの正式な通達だぞ!こんな光栄なこと、ノルド家始まって以来だ!」
「いや、光栄っていうか……僕には荷が重いというか……」
僕がぼそぼそ言うのも聞かず、父はさらに身を乗り出す。
「聞け!城ではな、朝はふわっふわの焼きたてパンに蜂蜜バター、昼は肉料理が何種類も出るらしいぞ!」
「……ふわっふわ?肉料理が何種類も?」
「夜は王家の晩餐だ!肉料理に魚料理に、豪華な料理がずらりと並ぶ!それにデザートは日替わりで――」
「デザート!?日替わり!?そ、そんな天国が……!?」
気づけば、父よりも僕の方が前のめりになっていた。
「お、おう……そうだ。だから頑張れ、ルイス!これはノルド家再興の大チャンスなんだ!」
父は感極まっているけれど、僕の頭の中はすでに王家の食卓でいっぱいになっている。
焼きたてパンに蜂蜜、肉料理、そして日替わりデザート……。
「……まぁ、どうせ僕もすぐに婚約破棄されるんだろうし、その前にお城のごはん食べ放題なら、悪くないかも……」
「何か言ったか?」
「いえっ、全力で頑張らせていただきます!」
こうして僕――ルイス・ノルドは、胃袋の下心を胸に、人生最大の面倒ごとに巻き込まれることになったのだった。
――というわけで、僕は今、アルディン殿下の前に立たされている。
形式的な謁見のあと、何やら書類を確認している殿下は、僕のことなどほとんど見ようともしなかった。
最初に放たれた「勘違いするなよ。俺はお前に興味などない」という言葉の通り、彼の態度は徹底して冷ややかだ。必要最低限のやりとり以外、僕という存在そのものを空気のように扱っている。
……本当にありがたい。できれば、このまま何も言われないことを祈る。
だって――どうやらこのあと、王家主催の昼食会があるらしいのだ。
昼食。王宮の昼食。ふわふわのパンに、香り高いスープ、肉料理がずらりと並ぶ夢のような食卓……。
形だけの婚約者だろうとなんだろうと、それを食べられる立場にいるなんて奇跡だ。
とにかく、今は怒らせないようにしよう。婚約破棄されるのは構わないけど――昼食を食べる前に追い出されるのは絶対に困る。
「……おい」
「へっ!?な、何でしょう?」
思考が夢のような食卓の妄想でいっぱいになっていた僕は、殿下の低い声に肩を跳ねさせた。
アルディン殿下は、机に視線を落としたまま、冷たい声音で言う。
「……さっきから、妙ににやけているな」
「えっ!?あっ、す、すみません!あの、ちょっとその、考えごとを……」
ゆっくりと顔を上げた殿下の視線が、氷のように突き刺さる。その青く冷たい瞳がわずかに細められた。
「……お前、緊張していないのか?」
「え?してますよ!」
反射的に答えたけど、たぶん声が軽すぎた。殿下の眉がぴくりと動く。
「……そうは見えないな。普通なら、初対面の王族の前となれば、息をするのも忘れるはずだ」
「えっ……?息、止めたら倒れちゃいますよ?」
殿下の目が、さらに冷えた気がした。張りつめた沈黙が落ちる。
やばい。完全に間違えたっぽい。
「い、いや、その……!緊張してます!でも、お昼のことが気になっちゃって……!」
「……昼のこと?」
「はい! 王宮の食事ってすごいって聞いて……!ふわふわのパンとか、肉料理がずらっと並ぶとか……」
(うわ、言っちゃった。完全に言わなくていいこと言った!)
殿下は一瞬まばたきをしたあと、呆れたようにため息をついた。
「……お前は、ここに何をしに来たかわかっているのか?」
「え、えっと……昼食を、食べに……?」
「……」
「あ!ち、違います!婚約です!婚約の為に来ました!」
静まり返る部屋。空気が痛い。誰か助けて。
殿下はしばらく無言で氷のようなまなざしを僕に向けたあと、低く言った。
「……好きにしろ。ただし、食卓で恥を晒すな」
「はいっ!控えめに食べます!」
「……控えめに、食べる……?」
(やばい、また変なこと言った気がする)
殿下と視線がぶつかり、すぐ逸らす。
……たぶん、さっきより距離が広がった。
殿下は無言で視線を戻し、書類に目を落とす。その仕草がどう見ても「もう話しかけるな」と言っている気がして――
僕は、こっそり小さく拳を握った。
(よし……!昼食会、確定!)
殿下の冷たい沈黙と、僕の密かな達成感が、妙に静かな空気の中に並んでいた。
――ああ、お昼ご飯、楽しみだな。




