第十話 秤の王
春のはじまりだった。
雪解けの川が光を孕み、王都の塔の影を揺らしている。
それはまるで、長い眠りから目を覚ました針が、世界の目盛りを測り直しているかのようだった。
〈均衡評議会〉――。
凡庸法の改定を経て、王国全土に新たな秩序が敷かれた。
名目上は「権力と民意の中立的仲裁機関」。
だが実際には、王権と貴族議会の争いを封じ込めるための緩衝地帯であり、
その初代評議員として、私――ルーク・無姓――の名が挙げられていた。
私は承諾の印を押さず、三日間、王都の北塔に籠った。
針が止まりかけていた。
均すことと、従うことの境界を見失いかけていた。
三日目の夜。
扉の向こうで、アリアの声がした。
「入っても?」
「どうぞ」
扉が軋む。
灯りを避けるように入ってきた彼女は、
もう監察官の制服を着ていなかった。
代わりに、白い外套。
胸元に刺繍された紋章は、――針ではなく、円。
「評議会から、正式な辞令が出ました」
「君が?」
「はい。
監察官ではなく、“記録官”として。
――あなたの隣に立つ職です」
その言葉に、ようやく息をついた。
彼女の声はいつも通り静かだったが、その奥に小さな炎があった。
それはもう義務ではなく、選択の光だ。
翌日。
王の間。
白石の階段を登ると、そこに王がいた。
年を重ね、目の奥に疲労と静寂を宿している。
かつて私が初めてこの部屋で対峙したときよりも、
ずっと人間の顔をしていた。
「ルーク。お前の凡庸は、私の想像よりも広がったようだ」
「凡庸は、広がるためにあります。
誰かの形に留まった時点で、均衡ではなくなる」
王は頷き、ゆっくりと立ち上がった。
手にしていた秤を机に置く。
古い黄金の秤。
王家に代々伝わる象徴だ。
「――この秤を、預けよう」
「……陛下?」
「均衡とは、支配でも放棄でもない。
国を動かす“第三の手”が要る。
その手を、お前に託す」
私は一歩も動けなかった。
王の手が、秤をこちらへ滑らせる。
金属の響きが部屋の空気を裂き、
その音が、長い鎖を断ち切るように響いた。
アリアが傍で筆を走らせる。
その余白に、細い文字が並んでいく。
――“凡庸、国を支える手となる”。
――“秤、王より離る”。
――“揺らぎ、許可される”。
彼女が顔を上げた。
灰の瞳が真っ直ぐに私を見ていた。
「これで、“均衡”は誰の所有物でもなくなりましたね」
「いや。
これからは、全員のものになる。
それが本当の凡庸だ」
私は秤を受け取り、両の手で支えた。
重さはない。
けれど、世界の全てがその皿の上に乗っているようだった。
その日の夕刻。
評議会の広間で、私は秤を卓上に置いた。
貴族も、商人も、兵士も、民代表も――
皆が息を呑む。
「今日から、この秤は誰の手にも属さない。
均衡は、見守る者と動かす者、双方にある。
――この国は、“揺れてよい国”になる」
沈黙。
次いで、小さな拍手。
それは一人、また一人と増え、
やがて、広間を包む波のようになった。
夜。
城の中庭。
灯籠の光が水面に揺れ、風が針葉樹の間を通り抜ける。
アリアが隣に立ち、星を見上げた。
「ルーク。
あなたが言った“針の祈り”。
あれは、結局何を願っていたのですか?」
私は少し考えてから、言葉を選んだ。
「……“揺れても戻れる国”を願っていたんだ。
人も、法も、心も。
均衡とは、戻る力のことだから」
アリアは小さく笑い、手帳を閉じた。
その最後の頁に、淡く光る文字が浮かんでいる。
――“凡庸、祈りに至る”。
夜空を横切る風が、秤の鎖を鳴らした。
小さな音だったが、確かに響いた。
あの井戸の仮水のように、
すべての始まりを告げる音だった。
私は空を見上げ、
王国の針が、ようやく正しい揺れを取り戻したことを知った。
第十話・終 ――第一部完結




