第八話 成長した鬼龍寺鉄馬は村を出る
『はいはーい。テツマ―、まだ仕事は終わらないのー?』
「終わらないよ。今日も夕方まで、だ」
『ちぇー……』
よく晴れた真っ青な空の下、アルフォニカの明るい声が響いた。
どこかつまらないような、けれど少し楽しそうな、そんな明るい声。彼女は麦が植えられた畑の脇で、いつものようにふよふよと空中に浮いたまま、器用に体育座りしている姿は、俺にしか見えていないからという油断があるんだろうけど、それでもある種の不気味さがある。
……まあ、俺のそんな反応も楽しんでいるんだろうけど。
『魔法を使えばパパっと簡単なのにさー』
「それだと体を鍛えられないだろ」
そう言って鎌で刈った稲を籠に入れ、それを背中に背負って立ち上がった。
稲である。米である。
ここ数年でどこからか普及したこの種は大陸の一部に広まり、こうやって農家で栽培されるまでになっていた。
俺みたいに前世の記憶を持っている人物が持ち込んだのか、それとも全く別の方向から仕入れたのか。
テッド達が王都に戻ったあの夜から、八年の時間が過ぎた。
その間に世界は大きく変わ……る事もなく、精々が農家に米やジャガイモのような新しい品種が普及した程度。平和なものである。
額に浮いた汗を服の袖で拭い、濡れた前髪を軽く掻き上げた。
「また伸びたな……」
『切ってあげようか?』
「……遠慮しとく」
以前そう言って、俺の前髪をパッツンと均一に切り落としたことを俺は一生忘れない。
お陰で親父や同年代の村の連中から滅茶苦茶笑われたのは、軽いトラウマである。
「これを運んだら、次は乾燥させないとな」
『任せてー。お姉さん、役に立っちゃうよ?』
「ああ、頼むよ」
視線をアルフォニカから外すと、一緒の村に住んでいる近所の人達も刈った稲を地面に触れないために作った乾燥台の上に広げているところだった。
なんというか――この『お米』を広めた人物は、凄いのか凄くないのかよく分からないというのが俺の感想だ。
なにせ、記憶の中にある『前世の世界』と全く違うこの世界に新しい食べ物を普及させたというのに、その食べ方や育て方をあまり広めていないのだ。
この村には俺が居たから比較的……と言っていいかは分からないが、なんとか稲を栽培できる環境を整える事が出来た。
と言っても、今まで村で育てていた麦は水はけの良い乾田を利用していたので、そのまま田んぼを使う事が出来たのだけど。
本当なら、稲は湿田――水はけが悪い田んぼの方が質の良い米が取れるはずだ。
けれどそれを用意するには八年と言う時間は短すぎて、結局今の状態に落ち着いている。
まあ、米が普及したばかりの今なら、どの村で米を作っても質はそんなに変わらない。品種改良なんてもってのほかで、誰かが持ち込んだコメをそのまま利用するだけだ。
あとは、十年か二十年もして米の栽培が一般化したら、そこから村々、土地の状況によって品種改良がなされていくことだろう。
そしてなにより、俺が農業にそこまで詳しくない。
米の育成が一般化していない今こそが稼ぎ時なのかもしれないが、それを生かせないのがちょっとだけ悔しいとも思えていた。
「それじゃあ、家に帰るか」
『そうね』
うちにある田んぼは二つだけ。それでも、一人で作業すると全部の稲を一回で運べない。
何回かに分けて作業を行うのは、すでに日課になっていた。
稲と言っても、まだ干していないので瑞々しく、何より重い。
田んぼからは家が見える距離だけど、それでも少し息が乱れてしまう。
そんな俺を、アルフォニカはいつものように『貧弱だなー』とか『運動不足だよ』とかからかってくる。
いつからだろうか。見上げていたアルフォニカを見下ろせるようになったのは。
この八年で俺の身長はずっと伸びて、昔は首が痛くなるくらい見上げていたアルフォニカも、今では少し首を傾けて見下ろせるほど。
本人はそれを気にしているようで、時々思い出したように宙に浮いてはお姉さん風を吹かせている。
そういう仕草は、外見相応に可愛らしいと思う。ただ、八年前から変わらず、纏っている服は装飾過多なのだが……。
『魔法使いなのに体なんか鍛えちゃってさー』
「いいだろ、別に。体を鍛えていたら、病気にもなりづらいし」
『……そうだね』
そうこう話しているうちに、家に戻る。
家の庭には特に物は置かれておらず、あるのは稲を干す乾燥台のみ。家の中はまた違ってきたないのだけど、今はまあその事はどうでもいい。
刈ったばかりの稲を乾燥台に広げて干し、乾燥させる。この時にアルフォニカに風を起こしてもらって米を乾燥させると、いい感じに水分を残した状態でもみが出来上がるのだ。
それを田んぼにある全部の稲にして、籾摺りを行えば玄米となるのである。
流石に、ここから白米の作り方までは知らないし、他の村々でも同様。
白米への精米は王都の方で、一括で行われているそうだ。
俺たち農家は大きく実った籾を大きな街へもっていき、売るだけである。
まあよくできた商売だと思う。
稲は田舎の村々で栽培されているのに、白米は王都に行かなければ手に入らない。
そこに希少性が生まれ、値段が跳ね上がるのだから。
そんな事を考えながら家と畑を往復し、一つ分の田んぼにある稲の全部を干し終わる。
うちの畑は二つで、残りは後日だ。一日で全部するには、手が足りない。
村には他にも畑があって、沢山の畑を持っている人も居る。
この辺りは先祖からの土地という事で、譲ってもらうには金が必要だった――それに、独りで生活する分には、畑二つでも多すぎるくらいだ。
「少し休憩」
『魔法の訓練は?』
「今日はヤメ」
『昨日も、その前もじゃない』
疲れて乾燥台の傍へ座ると、アルフォニカが不満の声を上げた。
しょうがないじゃないか。畑仕事は疲れるのだ。本当に。
「親父は、これを毎日やってたんだよなあ」
『お父様の時は麦が多かったでしょう?』
「稲も麦も変わらないさ。どっちもキツイ」
『ふふ――もっと早くに、そう気づけていればよかったのにね』
ふん、と。
鼻を鳴らして凝った首をコキコキと鳴らした。気持ちいい。
『やめなさいよ。首が折れてしまいそうで怖いから』
「気持ちいいのに……アルフォニカも鳴らしてみろよ」
『やーよ』
視線の先で、太陽が沈んでいく。
一日があっという間に終わって、明日がまたやってくる。
そしたらまた、朝から夕方までずっと畑仕事だ。
……それを大変だと思うし、キツイと思う。
失礼な話だが、そこに何の楽しみを抱けばいいのか、俺には分からない。
根本的に、農家に向いていない――のではなく、農家に興味が無い。
農業を営んでいる人からすると、とても失礼な物言いだろう。それでも、俺はそう思う。
俺は――俺は、と。
「米が出来たら、村を出るよ」
『うん』
アルフォニカは短い言葉で同意してくれた。
彼女の言うとおりだ。
もっと早く、農作業はキツイと、大変だと、気付けばよかった。
そうすればもっと、俺は親の手伝いをしただろう。したかもしれない。
……一緒の時間を、過ごしたと思う。
全部、『もしも』だ。
イフの話だ。
絶対じゃない。確定じゃない。
それでも――と思ってしまうのは、また俺が自分の今までの行いに公開を抱いているからだ。
テッド達が居なくなった時と同じ。
もっと『やるべきこと』をやっていたらという、後悔。
「なあ、アルフォニカ」
『なあに、テツマ?』
「……なんでもない」
『そう』
アルフォニカはふよふよと宙に浮いたまま、魔法を使って稲を乾燥させてくれている。
稲が乾燥したら籾と分け、それを町に運んで金を得る。
その金で、旅に出よう。
……この家には、もうお金が必要ない。
親父も母さんも、去年死んだから。
あっさりと。母さんは体調を崩して。親父は母さんの死を知ることなく、籾を売りに行った帰りに山賊に襲われて。
本当に、あっさりとした最後。
田舎ではよくあることだというのは、慰めにもならない。
悲しくないと言えば嘘になる。悲しいとも。一年が経った今でも、胸が締め付けられる。
せめて一緒の時にとか、お互いがお互いの死を気付かないままというのも、とか。
思うことはたくさんある。
……子供の頃は気付かなかった。
この世界は記憶の中にある異世界よりもずっと過酷で、けれど俺はそんな世界で生きているのだと。
だから、俺は旅に出る。
親父が残した畑で最後に米を作ったのは、今まで親父の仕事から目を背けていたバカ息子なりの親孝行のつもりだ。
もっと早くしておけばよかったと、さっそく後悔しているけど。
「……アルフォニカ」
『なあに?』
「俺はいつか、後悔しない日が来るのかな?」
『ふふ――生き物は全部、後悔する日々でしょうよ。それから解放されるのは、死んだ後』
「……少しは慰めてくれよ、自称姉さん」
『自称じゃないわよ!? いつも一緒だったじゃない、弟よ!』
誰が弟だ、と笑う。
「じゃあ、死んだ後に少しでも後悔しないで済むように……したいな」
『大丈夫。どんな道を歩んでも、きっと最後は救われるわ』
だといいけど。
親孝行も何もできなかった後悔が、胸を締め付ける。
いつまでも続くとは思っていなかったけど、こんなに突然の終わりだとは想像もしていなかった。
世に生きる子供と言うのは、きっとそのほとんどが同じ気持ちだろう。
朝、母親が朝食の用意をしてくれて、朝食が済んだら父親が仕事に出かけていく。
それがいつまでも続くと思っている。
俺も、一年前まではそう思っていた。
『今日の分は終わったわよ、テツマ』
「そうか。んじゃ、飯にして寝るか」
『うん』
他にすることもない。
それが田舎の生活だ。
日が昇れば畑仕事をして、日が落ちれば夕食を済ませてさっさと寝る。
特に俺は近所の皆と親交があるわけでもなく、親父たちが死んだときに面倒を見てもらったくらい。
その恩を忘れたわけじゃないので、村を出る時は何か残せないか、くらいには考えている。
……田舎での生活。
子供時代の終わり。
もうすぐ十六歳という時に、俺は村を出た。