119:失いたくない
警鐘は止まらなかった。
都市全域へ響き渡る重い鐘の音が、人々の神経を削っていく。
兵士が走る。
冒険者が武器を掴む。
避難誘導の怒号。
泣き叫ぶ子供。
馬車。
血。
焦げた石畳。
都市はまだ死霊災害の傷を抱えたままだった。
そこへ更なる異変。
空気が重い。
空そのものが圧迫されている。
レインは立ち止まったまま、遠くを見ていた。
見えている。
普通の人間には分からない。
でも今のレインには感じ取れる。
巨大な魔力。
黒。
深い闇。
底がない。
その中心にいる“何か”。
「……近づいてる」
声が震える。
セレナはすぐ隣へ立った。
「落ち着きなさい」
「無理です」
「分かってる」
彼女は短く答える。
その視線は都市外壁へ向いていた。
S級冒険者の勘も警鐘を鳴らしている。
これは危険だ。
今までとは違う。
数の問題ではない。
質。
存在そのもの。
「ギルドへ行くわよ」
「……はい」
二人は走る。
石畳を踏み締めながら。
途中。
人々の目が向く。
レイン。
都市を救った少年。
死霊軍団を止めた存在。
そして。
化け物かもしれない人間。
視線が痛い。
怖い。
呼吸が乱れる。
でも。
セレナが隣を走っている。
それだけでまだ立てた。
ギルド本部。
すでに戦場だった。
怒号。
報告。
地図。
血塗れの斥候。
ギルドマスターが怒鳴る。
「外壁北東!」
「第七防衛線崩壊!」
「魔物じゃねぇ!」
「未知種だ!」
空気が凍る。
レインが一歩前へ出た。
「……座標を見せてください」
ギルドマスターが振り返る。
レインを見た。
一瞬迷う。
でももうこの都市は知っている。
この少年が異常な鑑定能力を持つことを。
「来い!」
巨大地図。
都市周辺。
山脈。
街道。
ダンジョン位置。
そこへ黒い印が刻まれている。
レインが触れた瞬間。
視界が変わった。
頭へ流れ込む。
魔力。
死。
座標。
歪み。
空間。
大量の情報。
「っ……!」
鼻血。
膝が揺れる。
セレナが肩を支えた。
「レイン」
「……大丈夫です」
全然大丈夫じゃない。
頭が割れそうだ。
でも見えた。
「……門じゃない」
「何?」
「ダンジョンでもない」
「空間そのものを食ってる」
ギルド内が静まる。
レインは震えながら言葉を続けた。
「都市へ向かってるのは」
「生物じゃない」
「災害です」
空気が凍る。
その瞬間。
轟音。
建物が揺れた。
遠くで悲鳴。
「北東外壁!」
「崩壊!!」
全員が動く。
セレナが大剣を掴んだ。
「行くわよ」
「……はい」
都市北東。
そこは地獄だった。
壁が消えている。
崩れたのではない。
消失。
空間ごと削り取られている。
兵士たちが呆然としていた。
その向こう。
黒い霧。
巨大。
ゆっくり進んでくる。
形が安定しない。
獣。
人。
竜。
骸骨。
全部混ざっている。
そして中心。
一つの目。
巨大な黒い瞳。
それが都市を見ていた。
「……なんだよ」
冒険者が呟く。
「なんなんだあれ……」
恐怖。
人間が理解できないものを見た時の顔。
レインも同じだった。
怖い。
本能が叫ぶ。
逃げろ。
関わるな。
死ぬ。
セレナが前へ出る。
大剣を構える。
炎の魔力が爆発する。
「総員、後退!」
彼女の声が戦場を貫いた。
「近づくな!」
「空間侵食型だ!」
冒険者たちが下がる。
その瞬間。
黒い霧から腕が伸びた。
巨大。
異形。
人の形をしているのに指が多すぎる。
空間を掴む。
そして。
壁が消えた。
触れた場所ごと。
兵士ごと。
悲鳴すら残らない。
「っ!!」
レインの身体が震える。
吐き気。
恐怖。
無理だ。
勝てる相手じゃない。
セレナが踏み込む。
「下がってなさい!」
炎が爆発する。
超大型大剣が黒い腕を斬る。
轟音。
空気が裂ける。
S級冒険者。
人類最高峰。
一撃で山を割る火力。
黒い腕が吹き飛ぶ。
歓声。
でも。
次の瞬間。
再生。
黒い霧から無限に腕が生える。
セレナの目が険しくなる。
「……厄介ね」
レインの鑑定が暴走する。
情報。
構造。
弱点。
流れ込む。
「……核」
レインが呟く。
「中心に核があります」
「位置は!?」
「……深い」
「空間の奥」
「普通じゃ届かない」
セレナは歯を食いしばる。
その瞬間。
黒い霧が広がった。
都市へ。
人々へ。
全部飲み込もうとしている。
レインの身体が凍る。
まただ。
また守れない。
また死ぬ。
また失う。
その瞬間。
セレナが振り返った。
「レイン」
名前を呼ばれる。
真っ直ぐな目。
「できる?」
レインの喉が震える。
「……分からない」
「そう」
セレナは笑った。
戦場なのに。
優しく。
「なら一緒にやる」
その言葉。
レインの胸が痛くなる。
失いたくない。
初めて強く思った。
この人を。
死なせたくない。
セレナは強い。
最強だ。
でも。
死ぬ時は死ぬ。
彼女自身が何度も見てきた。
仲間。
弟子。
大切な人。
全部失ってきた。
だから。
レインは怖かった。
本当に。
怖かった。
「……セレナさん」
「何」
「死なないでください」
一瞬。
セレナの目が止まる。
驚いた顔。
ほんの少しだけ。
それから。
困ったように笑った。
「それ」
「かなり難しいお願い」
「……お願いします」
レインは震えていた。
情けないくらい。
怖くて。
泣きそうで。
それでも。
言わなきゃいけないと思った。
「……失いたくない」
静寂。
周囲の轟音が遠くなる。
セレナはレインを見ていた。
長い時間。
いや。
本当は数秒。
でも永遠みたいだった。
やがて彼女は息を吐く。
「反則ね」
「え……」
「そんな顔で言われたら」
「死ににくくなる」
彼女はレインの頭を軽く叩く。
乱暴じゃない。
優しい。
「約束はできない」
「でも」
大剣を握る。
炎が燃え上がる。
「帰る努力はする」
その背中。
強い。
綺麗だった。
レインは胸が苦しくなる。
怖い。
失いたくない。
その感情が。
初めて。
自分の中で明確な形になった。
黒い霧が咆哮する。
都市が震える。
戦場が始まる。
セレナが踏み込んだ。
炎が空を裂く。
レインも前へ出る。
怖い。
吐きそう。
足が震える。
それでも。
今だけは逃げられなかった。
失いたくないから。




