1:死にかけの冒険者
雨だった。
都市国家レグナードの外壁を叩く雨は冷たく、春先だというのに空気は冬みたいに重い。
冒険者ギルドの裏口。
石畳に膝をついた青年が、一人。
肩で息をしていた。
「……っ、は……」
細い。
冒険者というには、あまりにも頼りない身体だった。
濡れた黒髪。
血の気の薄い顔。
安物の革鎧。
刃こぼれした剣。
年齢は二十歳ほど。
だが、その姿に“若き冒険者の希望”みたいなものはない。
あるのは、疲労と、恐怖だけだった。
青年――レインは、震える手で剣を地面に置いた。
指が、止まらない。
震えている。
血が付いていた。
魔物の血だ。
雨で流れているのに、感触だけが残っていた。
「ぅ……」
胃がひっくり返る。
次の瞬間。
「おぇっ……!」
吐いた。
胃液しか出ない。
今日は初めて、単独依頼を受けた。
城壁外周の巡回。
最低ランク向け。
新人でもできる簡単な仕事。
そのはずだった。
だが運が悪かった。
ゴブリンがいた。
一匹だけではない。
三匹。
新人なら死ぬ数だ。
実際、レインは死にかけた。
怖かった。
本当に。
剣を握る手が動かなかった。
逃げたかった。
泣きそうだった。
それでも。
逃げなかった。
ただ、それだけで生き残った。
「……向いて、ない」
ぽつりと漏れる。
雨音に消えるくらい、小さな声。
「俺なんか……」
そこで、背後から声がした。
「なら、辞めるか?」
低い女の声だった。
レインの肩が跳ねる。
振り返る。
そこにいたのは、一人の女だった。
長身。
黒いロングコート。
濡れた銀髪。
背中に背負った大剣。
脚が長い。
腰も、胸も大きい。
だが何より目を引くのは、“空気”だった。
強い。
立っているだけで分かる。
この女は、自分とは違う。
何人も殺して、
何度も死にかけて、
それでも生き残ってきた人間の目だった。
女は酒瓶を片手に、レインを見下ろしていた。
「……」
レインは言葉が出ない。
知らない。
だが知っている。
この女を。
S級冒険者。
セリナ。
都市国家レグナードでも、最前線級の冒険者だった。
「吐くくらいなら、向いてねぇよ」
セリナは淡々と言った。
責めるような口調ではない。
ただ事実を並べるみたいに。
レインは俯いた。
何も言い返せない。
悔しい。
でも、本当にその通りだった。
怖かった。
今も怖い。
もう城壁の外なんか行きたくない。
なのに。
「……でも」
セリナが言う。
「逃げなかったな」
レインが顔を上げる。
セリナは酒を一口飲んで、雨空を見た。
「普通の新人はな、腰抜かして死ぬ」
「……」
「アンタ、生き残ったじゃねぇか」
レインの喉が詰まる。
褒められたことなんて、ほとんどなかった。
弱い。
使えない。
気持ち悪い。
喋れない。
そんな言葉ばかりだった。
だから。
どう返せばいいか分からない。
「……運が、良かっただけです」
「違う」
即答だった。
セリナは真っ直ぐレインを見る。
「怖くても逃げなかった」
「それは才能より大事だ」
レインの胸が少しだけ熱くなる。
でも同時に、苦しくなる。
この人は強い。
自分なんかと違う。
同じ場所に立てる人間じゃない。
「……俺、弱いんで」
「知ってる」
「……」
「ビックリするくらい弱い」
レインは少し傷ついた。
だがセリナは笑わない。
本当にそう思っているだけだ。
「でも」
セリナは壁に寄りかかる。
「死にそうな顔してるヤツは嫌いじゃねぇ」
そう言って、酒瓶を差し出した。
「飲むか?」
「……酒、飲めません」
「そうか」
セリナは一人で飲んだ。
沈黙。
雨音だけが響く。
不思議と、居心地は悪くなかった。
「名前」
「……え?」
「アンタの」
「あ……レイン、です」
「そうか。レインか」
セリナは短く息を吐いた。
「私はセリナ」
「……知ってます」
「だろうな」
少しだけ。
本当に少しだけ。
セリナが笑った。
その瞬間。
レインは思った。
綺麗だ、と。
雨の中なのに。
疲れた顔をしているのに。
不器用に酒を飲んでいるだけなのに。
どうしようもなく。
綺麗だった。
その時、レインはまだ知らない。
この女が、
自分の人生を変えることを。
そして。
“隣に立ちたい”と願うほど、
大切になることを。




