12. 巻き戻り五十二回目。PM7:31
巻き戻り五十二回目。午後七時三十一分。
犯行時刻だ。蝶子は小椋事務所の中に入ってく。備吾は階段の上からその様子を見つめていた。殺してもダメ。説得してもダメ。周りに働きかけてもダメ。
完全にお手上げだった。ぐしゃりと前髪をつかむ。もう巻き戻りはごめんだが、万策尽きたとはこのことだった。そして、また次の朝が来る。
ぼんやりとまどろんでいると、後ろからコツコツと足音が聞こえて来る。
これは夢だ。何度も見た過去の夢。忘れたくても忘れられない呪いのような夢だ。
「なんだ。また来たのかい」
あの女の声だ。聞きたくもないのに、何度も蘇ってくる。
「人間のように生きたいなんて、変わった吸血鬼だ」
廃墟には長い椅子が並び、祭壇の上の崩れた屋根からは夜空が見えた。
部屋のドアが開かれる。
「備吾。もう昼だぞ。昼飯、食べろー」
布団の中から仁良の声が聞こえたので、ゆっくりと起き上がる。寝過ごしたようだ。
だが、どうせ同じ――
寝巻のまま、リビングへと向かう。すると、スンと空気の匂いを嗅ぐ。
「この匂い……」
「お前、寝すぎだぞ。丸一日、寝ていたんじゃないか?」
仁良の言葉に耳を疑う。丸一日寝ていたわけがない。巻き戻る前は、たしか丸一日原稿を書いていたはずだ。
一気に目が覚めた備吾はテーブルに駆け寄る。クロワッサンではなく、フライパンに牛肉を焼いたものが用意されていた。新聞も広げると、日付が次の日の五月二十一日になっている。
「だが、どうして」
いつの間にか巻き戻りが解けている。備吾の意識では、何十回と重ねた巻き戻りと変わらず手ごたえがなかったというのに。
「ああ。それか? 実は猪山さんからもらったんだ」
「猪山蝶子から?」
「今朝、訪ねてきてさ。実は猪山さんがストーカーに狙われているっていうのは、嘘だったらしい。上京してきて上手くいかなくて、構って欲しかったって。だから、仕事でもいいから誰か側にいて欲しかったらしい。可愛い嘘だよな。これからは、普通に友達を探すって」
ははっと笑う仁良だが、蝶子の本性は全く可愛くない。とはいえ、蝶子は反省して謝りに来たのだ。だから、巻き戻りも解消した。
何をもって蝶子が心を入れ替えたかは、巻き戻りすぎてよく分からない。だが、奇跡が起きたと思うことにしよう。
「あッ!」
備吾は踵を返して、部屋に駆け込む。すぐにパソコンの電源を押した。起動した画面に目を滑らせる。
「ない。メモも、き、記憶も……」
何回目の巻き戻りかは忘れたが、メモをしたはずだ。もちろん、記憶など頭の片隅にもない。ガクッと首をうなだらせる備吾。せっかくいいアイディアが降って下りたはずなのに、完全に消えてしまった。
「どうした、備吾」
「いーや」
フラフラとふらつきながら、ダイニングに戻る。
「あー……」
ドカッと椅子に座り込んだ。背もたれにもたれて、ブラブラと腕を揺らす。
「大丈夫か。体調悪くても食えよ」
「いい、もがッ」
無理やり口に肉を突っ込まれた。匂いが一気に鼻に上ってくる。
「こ˝、こ˝れは」
「猪山さんからもらったニンニクをたっぷり入れたんだ。青森の実家がニンニク農家らしい」
「よ、よりによって」
ニンニクは食べられないわけではないが、好んで食べるわけがない。何とか咀嚼して飲み込んだが、仁良はさらに残酷なことを言う。
「段ボールにいっぱいもらったから、まだまだあるぞ。これから一か月は毎日ニンニク料理だ!」
「う、嘘だろ……」
あれだけ進んで欲しかった時間。だが、一刻も早く時が戻ることを願ったのは言うまでもない。
外は良い天気で、雑居ビルの前では犬の散歩が行われていた。
羽化せし乙女編 完




