13. やけに風が強い日
この日は、やけに風が強い日だった。店を出た途端に、持っていたレシートを風に飛ばされそうになる。思わず声が出しながら掴んだ。
「おっと、大事な経費が。危ないところだった」
根津晃彦は黒ぶち眼鏡の中心を押さえた。一度、息をついて財布にレシートをしまう。たった今ファミリーレストランで、ある作家との打ち合わせが終わったところだ。
根津は出版社に勤める編集者である。作家との打ち合わせがあることは特に珍しくはないが、一日に続けて予定していることは根津には珍しいことだった。
それもこれも、後の作家が無理やり予定をねじ込んできたせいだ。
「はあ」
通行人に聞こえるほどのため息をつき、スマートフォンを胸ポケットから出す。
午後二時三十五分と時間を確かめた。場所はここから十分ほど歩く。待ち合わせの三時には間に合いそうだ。
あの作家は待たせると面倒だ。それほどねちっこくはないが、何か難癖をつけられるだろう。そうでなくても、自分が呼んだはずの打ち合わせなのに面倒そうに対応されることが想像できる。
いや、あのルーズな男のことだ。まかり間違っても、根津が彼より遅く待ち合わせの場所に着くということはないだろう。
大股で歩き、目的の場所には八分ほどでたどり着いた。駅から一筋わき道に入った場所にある喫茶店だ。喫茶ムーンライトと青い看板の横にある古めかしい木製の扉を開けた。そう広くない空間にカウンター席とボックス席が並んでいる。すぐに店員の女性が話しかけてきた。
「根津さん、いらっしゃいませ」
「沖田さん、こんにちは」
シンプルに白いシャツに黒いタイトスカートを履いた店員の沖田とはよく話す仲だ。作家から指定がなければ、打ち合わせにこの店を利用していたからすっかり常連客である。
「やあ、根津くん。また来たね」
そう言って肩を軽く叩くのは、この店のマスターだ。白い髪をオールバックにしたほうれい線が深く刻まれた喫茶店の雰囲気にあっている人だった。
このときは特に会話をすることもなく、空いているボックス席のドアが見える位置に座った。コーヒーを頼むのは、待ち合わせ相手が来てからにして鞄から手帳を出す。
何年も使っている皮の手帳は、所々傷が出来ていて年季が入っている。今月のページを開いて、終わった打ち合わせの予定に赤ペンで横線を引いた。その下には五島と打ち合わせ三時からと書かれている。
根津は五島という苗字を見ただけで、眉を寄せた。
これから会う五島咲夜という作家は、作家の中でも飛びぬけて曲者だ。五島というのはペンネームで、なぜか担当編集者であるはずの根津が本名の下の名前しか知らない。おかしいと思うが、それでまかり通っているからさらにおかしいと常々根津は思っていた。
そのとき、喫茶ムーンライトのドアが開く。
「備吾さん、こちらです」
手を上げて、入って来た若い男を呼ぶ。
マッシュルームカットの彼は、いつものようにデニムに無地のロングTシャツを着ていた。外は風が強いというのに、髪が乱れている様子は全くない。相変わらず目の下に隈が濃く出来ていた。
「よく眠れていますか?」
近くに来た備吾に根津が尋ねる。
「ああ。最近はぐっすり寝ていたな」
寝ていると言う割には座るなり、大きな口を開けてあくびをした。
本当は寝ていないだろうが、編集者に素直に寝ていないという作家は少ないだろう。少しでも仕事が欲しいはずだ。
特に備吾はまだ新人だ。刊行した本はまだ三冊。
しかも、新人賞などの賞を取ったわけではなく、突然出版社に現れ、編集長のごり押しで根津が担当になったのだ。世間の知名度はないも等しい。
ただ書く作品は刊行に価するものであり、何かの弾みで話題になればヒットする可能性もある。そうでもなくても、一度担当になったからには、半端な仕事を根津はするつもりはなかった。
「何か飲みますか。ここは初めてですよね。この店はかなり豆にこだわっていますよ」
「ブレンド」
備吾は根津が渡そうとしたメニューも見ず、適当な注文をする。
もちろん、この店のムーンライトブレンドは毎月マスターが調合しているおすすめのコーヒーだ。しかし、豊富なメニューがあるのだから、目を通すことだけでもして欲しかった。
そうは思ったが、メニューを持つ手を引っ込める。
コーヒーに興味がないだけで、自分の趣味を押し付けてはいけない。根津は自分も同じものを沖田に注文して、備吾に向き直る。
「では、次の作品のことを話しましょうか」
「ああ。といっても、具体的なことは決まっていない。主人公がヒューという男だということ以外はな」
備吾の打ち合わせは毎回こうだ。
原稿があるわけでもなく、企画書があるわけでもない。ただひたすら誰が主人公でどんなエピソードがあるか聞かされる。
前の三冊もそうだった。こいつの話を本にしたいと淡々と話を聞かされた。最初は伝記のようなものだったものを、問答を重ねて小説という形にしていく。
根津は主人公ヒューとメモ帳に書きつける。どっかり背もたれに腕を広げて座る備吾に質問を投げかけた。
「そのヒューという人は、どこに住んでいるんですか」
「イギリスだ。あいつは六人兄弟の末の子で、家計を助けるために靴磨きをしていた。はじめて会ったのは、靴を磨いてもらったときだ。十もいかない頃だっただろう」
備吾はまるで実際に出会ったように語る。それほど、物語に没頭しているということだろう。こういう作家が一人ぐらいいてもいい。
「転機があったのは十三のときだ。ヒューを養子にしたいと遠い親戚から話があった」
根津は頷きながら、メモを取る。
備吾は話した内容を全て覚えているようだが、根津がメモをしている。メモをまとめて、あとでメールするようにしていた。執筆の一助くらいにはなっているはずだ。
「他の登場人物は兄弟だけでしょうか。今後の展開次第では親友や幼なじみなどいたら話が盛り上がるとは思いますが」
備吾が語った主人公をまとめあげるだけでは、面白い物語にはならない。アイディアを足して小説へと昇華させるのだ。
すると、備吾は眉を寄せる。
「……あいつは孤独だったがな。おいおい、考えよう」
備吾は根津が物語に介入することを嫌う。彼の中で登場人物が生きているからだろう。そこには一生分の物語があるから、動かしづらいのだ。
ただ、眉を寄せるだけで、頷くようになったのだから作家としては成長しているのだろう。以前は頑として譲らず、案をいくつも出して何とか納得させたのだ。普通は逆であるはずだが、それほどの魅力が原案にあったのも否めない。
「それで」
「失礼いたします」
店員の沖田がコーヒーを二つトレイで運んできた。




