蛇足、または世界の形。
※注意:本話は本編終了後の後日談です。
リリアの物語そのものは、前話の「お腹、空いちゃったわね」で完結しています。
そのため、今回は彼女自身の物語というよりも、「その後、世界はどうなったのか」という蛇足になります。
パンを捏ねるリリアの姿のまま余韻を大切にしたい方は、ここでページを閉じていただいても大丈夫です。
それでも少しだけ、神々の手を離れた後の世界を覗いてみたい方へ。(人*´∀`)。*゜+<ありがとうございます♪
◆第六章:人間の世界、神々の場所
中央神殿の地下深く、日の当たらない大書庫の片隅で、乾いた紙の擦れる音だけが響いていた。
若い神官見習いは、埃に塗れた古い羊皮紙の束をめくりながら、小さく眉をひそめた。
それは数年前の制度改革よりさらに前、かつて『神殿の黄金期』と呼ばれていた時代の、ある聖女の活動日誌だった。
「……司書長、これを見てください」
呼びかけられた老人の司書は、老眼鏡の奥の目を細め、若い神官の手元を覗き込んだ。
そこには、淡々とした筆致で、およそ一人の人間がこなせる量とは思えない数字が羅列されていた。
『睡眠二時間。東部巡回、七村。治療四百二十七人。孤児院訪問、物資搬入。疫病区域封鎖。移動距離百二十キロ』
見習いは、乾いた喉を鳴らして次のページをめくる。
『睡眠一時間三十分。吐土二回。治療継続』
さらに次のページ。
『吐土。意識消失。目覚めたる後、治療継続』
その凄惨な記録は、何年にもわたって、ただの一日も途切れることなく地獄のように続いていた。
「これ……本当に、一人の人間がやっていたのですか?」
「ああ」
老司書は静かに頷いた。
「昔の聖女様だ」
「こんなの、異常ですよ」
若い神官は、生々しい吐血の文字に顔をしかめ、憤りすら孕んだ声で言った。
「どうして、周りの大人は誰も止めなかったんですか?」
老司書は、書庫の暗がりに視線を彷徨わせ、少し長い沈黙のあと、ぽつりと答えた。
「当時は、誰も異常だと思わなかったんだよ。聖女とは、そういうものだと、国中の全員が信じ切っていた。……いや、信じたがっていたのだな」
悪意は誰にもなかった。
民衆も、貴族も、神殿も、ただその圧倒的な利便性と慈愛に甘え、一人の少女の命が擦り切れていく音に耳を塞いでいただけだった。
「今は、各地に治癒院が三十七ヶ所ある」
老司書は、静かに話を続けた。
「地方への巡回制度も整い、孤児院は行政が適切に管理している。あの頃に比べれば、ずっと良い時代になった」
「なら……」
若い神官は見習いらしい素直な目で言った。
「今のこの良い時代は、その聖女様が身を削って遺してくれた、おかげですね」
すると、老司書は、毅然と首を振った。
「違う。それを『あの人一人のおかげ』にしてしまったら、私たちはまた、次の聖女に同じことを繰り返す。」
「……あれは、一人の人間にすべてを背負わせていた、ただの歴史だ」
若い神官は言葉を失い、もう一度、手元の黒ずんだ日誌を見つめた。
そこには、世界を救った英雄の栄光などない。
ただ、夜を徹して爪を噛み、泣きながら、それでも義務のためにペンを握り続けた、一人の少女の孤独な呼吸だけが染み付いていた。
「その聖女様は……」
神官見習いは、静かにページを閉じた。
「その後、どうなったのですか?」
「知らん」
老司書は、棚に古い書物を戻しながら、淡々と答えた。
「誰も探していないし、どこへ行ったかも分からない。伝説にもなっていないし、もちろん神にもなっていない。ただ、消えたのだよ」
探す必要も、もうなかった。
世界は彼女を失ってもなお、無関心に、しかし確実に、人間が人間として回す制度へと適応して進み始めている。
書庫の高窓から、一日の終わりを告げる、遠い夕暮れの鐘の音が聞こえてきた。
若い神官は、その誰の名前も残されていない分厚い記録帳を、深い棚の奥へと静かに収めた。
それは、もう誰のものでもない、ただの記録だった。
(了)
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。(*人´ω`*)
本編を書き終えた時点では、正直なところ、私はリリアのその後にあまり興味がありませんでした。
というより「ようやく放っておいてあげられる」という感覚の方が近かった気がします。
だから本編は、パンを作り始めるところで終わっています。
一方で、この後日談で書きたかったのは、リリアではなく世界の方でした。
人はどうしても、「偉大な誰かが世界を変えた」という物語が好きです。
けれど本当に目指すべきなのは、「偉大な誰かがいなくても回る世界」なのではないか。
そんなことを考えながら書きました。
ちなみに作者の脳内では、リリアが宿屋でパンを捏ねたり皿を洗ったりしている間、王都ではとんでもない騒ぎになっていたと思います。
突然いなくなった元聖女。
責任問題で右往左往する神殿。
慌てる貴族。
頭を抱える官僚。
そして、
「俺がやる」
「いや僕がやる」
と文句を言いながら後始末をしている魔王と勇者。
たぶんあの二人は、リリアが知らないところで散々苦労しています。
ですが、それもまた彼ら自身の人生です。
少なくとも今度は、リリアが全部背負う必要はありません。
彼女がようやく手に入れたのは、世界を救う使命ではなく、お腹が空いたらご飯を作る権利だったのですから。
改めまして、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。(人*´∀`)。*゜+




