「神々の手を離れた地で」──聖女リリアの法廷
最初は、「勇者と魔王に取り合われる聖女」という、よくある(?)スパダリ三角関係を書こうと思っていました。
……本当に思っていました。
勇者が「君を守る!」と言い、魔王が「俺の元に来い!」と言い、聖女がその間で揺れ動く。
そんな感じになる予定だったのです。
……だったのですが。
書いているうちに、「待てよ。この聖女、そもそも休ませた方がよくない?」という当然すぎる疑問が生まれました。
結果として、本作は恋愛物というより、『世界中から「頑張れ」と言われ続けた人が、「もう嫌だ」と言う話』になりました。
作者自身、どこで道を踏み外したのかよく分かっていません。(人ー_ー;)<少しでも楽しんでいただければ幸いです。
◆オープニング:出廷前夜──
螺旋階段、あるいは鎖を踏み破る音
リリアは、自分の足の感覚すら覚えていなかった。
彼女に着せた漆黒の花嫁衣装。
幾重にも重ねられたレースの裾が、一段上がるごとに脚に絡みつき、その重さで前へ進む力を奪っていく。
柔らかなシルクのはずなのに、まるで鉄の鎖のようだった。
誰かに飾られるためだけに作られた服は、誰かから逃げるためには、最初から作られていない。
足元では、履き慣れない漆黒のヒールが、大理石の階段を踏むたびに硬く乾いた音を立てた。
──コツン。
──コツン。
その音が、頭の奥に届くたびに、リリアの中で何かが小さく跳ねた。
なぜだか分からない。
ただ、その硬い音を聞くたびに、喉の奥がぎゅっと締まり、足が竦む。
──コン。
──コン。
階段を上がるたびに繰り返されるその音に、いつの間にか別の声が重なっていく。
「_ 裏▇者 _」
「▒▒罪を▒▒▒」
「……だめ……」
「……力……無▒に」
「……▒失▒……汚▇……」
頭の中で、誰かが何かを糾弾している。
輪郭のぼやけた、誰の声だったかも判然としないノイズ。
ただ、規則的に、容赦なく、その音は鳴り続ける。
リリアは思わず片手で自分のこめかみを押さえた。
今はそれを思い出している時間はない。
なのに、ヒールが大理石を叩く音に合わせて、その声はどんどん大きくなっていく。
最上階に近づくほど、空気が変わった。
焦げた匂い、金属が軋む音、そして遠く重く響く、何かが激しく打ち合う気配。
二人が、今、殺し合っている。
その実感がリリアの背筋を凍らせた瞬間、足首がもつれた。
レースの裾を踏み、ヒールの先が階段の縁に引っかかる。
膝から崩れるように倒れ込みながら、リリアは咄嗟に階段の手すりに縋りついた。
(──遅い)
ヒールが、裾が、この衣装のすべてが、彼女を遅くしている。
リリアは唇を噛んだ。迷っている時間すら、惜しかった。
膝をついたまま、彼女は手を伸ばし、ヒールを脱ぎ、階段の角に叩きつけた。
裸足の指先が、冷たい大理石に直接触れた。
痛いほど冷たい。
けれど、その感覚だけが、今の自分が確かにここにいることを教えてくれた。
リリアはドレスの裾を両手で思い切り引いた。
何重にも重なった繊細なレースが、悲鳴のような音を立てて千切れていく。
誰かに着せられた美しさが、ボロボロと階段に散らばっていく。
レースが裂けた瞬間。
あの日、王都で着せられた、最初の衣装の重さを、なぜか思い出した。
頭の中のノイズが、初めて一拍だけ止まった。
まるで、何かの鎖が切れたように。
身体が、急に軽くなる。
頭の中の声は、まだ完全には鳴り止んではいなかった。
けれど、もう構わなかった。
リリアはボロボロになった衣装の裾を握り、再び階段を駆け上がり始めた。
一段。
また一段。
息が切れる。
喉が焼ける。
けれど、もう足は止まらなかった。
最上階の扉の隙間から、月光と共に、何かが弾け散る音と、咬み合う剣の悲鳴が漏れ聞こえてくる。
リリアは、その光に向かって、ただ走った。
◇第一章:残響の玉座──
冒頭陳述、あるいは自己への求刑
天を衝く魔王城の最上階、天空の間。
直径三十メートルほどの大理石の床だけが広がるその場所は、ひび割れた白い石目を噛むように夜風が吹き荒れていた。
何者の介入も否定する空間で激突する、漆黒の大剣と白銀の聖剣。
金属同士が咬み合う瞬間、火花が散るたびに夜の闇が白く灼かれ、大理石の床に新しい亀裂が走る。
二人の男は何十合も打ち合い続けていた。
「どけ、カイン……! 僕は、リリアをあんたの呪縛から解放する!」
血混じりの唾を吐き捨てた、『勇者:エイル』の聖剣が、悲痛な叫びと共に一閃する。
その細い身体からは想像もつかないほどの闘気が爆発した。
「リリアは世界を救った聖女だ! みんなが彼女に救われた! だから今度は、彼女が誰かに救われていいんだ! お前は守ると言いながら、リリアから選ぶ権利を奪った……お前の檻が黄金だろうと鉄だろうと関係ない! リリア自身が決める、聖女としての未来を返せ!」
勇者の糾弾は、彼自身の信じる純粋な正義の中でだけ正しかった。
リリアが『聖女』という椅子に座り、正しく輝くことこそが彼女の至上の幸福なのだと、エイルは一点の疑いもなく信じ込んでいる。
だが、『魔王:カイン』は、その必殺の一撃を重厚な漆黒の大剣で冷酷に受け止めた。
「浅いな、勇者。お前は綺麗に着飾った聖女の姿しか見ていない。……その席にあいつを縛り付け、休む間もなく世界を救わせ、民衆の欲望の贄にしたのはお前たちだ」
火花がカインの顔を照らし出す。
すべてを見透かすような冷徹な黒眸。
その整った顔立ちには苦悩の影が刻まれていた。
「村中があいつを『役立たずの出来損ない』と呼んでいた頃を、お前は知らない。あいつがどれだけ孤独に泣いていたかも。ようやく居場所を見つけた後ですら、ただ隣にいただけで罪人のように囁かれ、ただ笑い合っただけで疑われたことも」
カインの手首が微かに返る。
それだけでエイルの聖剣が弾かれ、床に深い亀裂が走った。
「あいつには俺が必要だ。俺だけが、あいつのすべてを知っている。あいつ自身ですら、自分を守れないのだから。俺以外に、あいつを救える者などいない!」
カインの身から立ち上る漆黒の魔力が、彼の背後でまるで巨大な太陽のように揺らめいた。
その漆黒は、世界への怒りであると同時に、リリアを喪うことへの狂おしいほどの恐怖──歪んだ保護欲の裏返しだった。
「御託を……! 過去にどれだけお前が近くにいたとしても、今あいつを檻に閉じ込め、苦しめているのはお前だ、魔王――!!」
エイルの絶叫と共に、白銀の聖剣が太陽のごとき眩い光を放つ。
少年の全霊をかけた闘気が天へと駆け昇る巨大な光の柱となった。
「黙れ、勇者! お前たちの言う『未来』が、あいつに新たな枷を嵌めるだけだということに、なぜ気づかない!」
カインが吼え返す。
漆黒の大剣から噴き出した憎悪の魔力が、夜空を埋め尽くすほどの黒炎となって燃え盛る。
エイルの身体を光の粒子が纏い始め、カインの心臓めがけて、全霊を込めた神速の突きを放つ構えをとる。
それはあまりの速さに、光の軌跡すら後からついてくるほどの一撃。
対するカインの背からも、夜そのものを引きちぎって編み上げたような巨大な闇の翼が奔出する。
大剣を頭上に掲げ、圧倒的な闇で全てを押し潰そうと、絶対的な虚無の力を収束させていく。
「違う! リリアを守り、正しく導くのは僕だ……!」
互いの意地と人生をかけた最大の一撃が、まさに交差しようとしたその瞬間。
扉のすぐ向こう側、リリアの耳に二人の男の絶叫が同時に飛び込んできた。
その声を聞きながら、リリアは最上階の重い扉に両手を掛けた。
──ああ、そうか。
二人の声は、こんなにも近くで激しく響いているのに。
──そこに、自分の声だけが、どこにもなかった。
リリアは扉を強く押し開いた。
◇
「二人とも、そこまでにして――!!」
戦場を空間ごと引き裂くように、眩いばかりの純白の閃光が割り込んだ。
光の残滓の向こうに現れたのは、白銀の髪を酷く乱し、獣のように肩で息をするリリアだった。
凄まじい衝撃波がカインとエイルを左右に弾き飛ばす。
堪らず二人はほぼ同時に膝をついた。
脱走してきたリリアが、自らの残った聖力のすべてをむき出しに放出して、二人の間に身を投じたのだ。
両の瞳の縁は真っ赤に腫れ上がり、視線は定まらずに泳いでいる。
「リリア!? なぜここに……! 危険だ、下がってくれ!」
エイルが叫び、すぐに彼女の前に身体を滑り込ませようとする。
「リリア……お前は昔から、そうやって無茶ばかりする。黙って、また俺の後ろに隠れていろ」
カインが苦しげに目を細め、漆黒の障壁をリリアの周りに展開しようとする。
(──二人とも、すぐに私を庇おうとする……)
その痛々しいほどの反射を見て、リリアの胸の奥から、どす黒い嗚咽がせり上がった。
分かっている。
二人とも、本当に、命をかけるほど自分を心配してくれている。
それくらい分かっている。
──それなのに。それなのに、なぜ、反吐が出るほど息が苦しいのだろう。
二人は、いつものように凛々しく立ち上がり、自分たちを諭し、叱咤する『強い聖女』の姿を予期して動きを止めていた。
「なんで……っ!」
けれど、そこに立っていたのは、偶像のヒロインなどでは決してなかった。
掠れた、子供のような声だった。
「なんでなのよ……っ! 私、ちゃんとやったじゃない……! 頑張ったじゃない……っ! 痛いのも、怖いのも我慢して、みんなのために……みんなのために祈ったのに……!」
二人の男が、息を呑む。
リリアの言葉は繋がっていなかった。
誰への怒りなのかも、何が言いたいのかも、ぐちゃぐちゃだった。
「私が……私がもっと強ければよかったんでしょう!? 私がもっと優しくて、もっと我慢できて……もっと、役に立てれば、誰も怒らなかったのに……っ! なんで、みんな私を責めるのよ……!」
魔王と勇者の激しい魔力と闘気の残滓が、彼女の絶叫に圧されるように、急速に霧散していく。
リリアは頭を激しく振りながら、自分の胸元を掻きむしった。
「もう嫌だったの……! 頑張りたくなんかなかった……っ! 誰も、誰もありがとうって言ってくれないのに……! 怖い、怖いよ……カインも、エイルも、みんな私のことばっかり見て、何、何を期待してるのよ……! 私にどうしろって言うのよ……!!」
リリアは、その場に激しく泣き崩れた。
大理石の床に両手を乱暴につき、子供のように地面を叩きながら声を上げて哭く。
引きちぎったドレスの裾が、自らの涙と鼻水、大理石の塵で泥のように汚れていく。
髪は顔に張り付き、化粧は無惨に落ち、嗚咽のせいで過呼吸気味に胸を波打たせる。
今まで世界が彼女に求めてきた微笑みも慈悲も、ここにはひとかけらもない。
それはただの、あまりにも見苦しく、あまりにも生々しい、一人の少女の精神の崩壊だった。
カインも、エイルも、指一本動かせなかった。
彼女が何を言っているのか、正確には分からなかった。
けれど、その支離滅裂な叫びの痛々しさが、彼らの胸を容赦なく抉る。
自分たちが命がけで守ろうとしていたものは、とっくに破綻していたのだと、その姿だけが物語っていた。
「ねえ、カイン……っ。ねえ、エイル……」
泣きじゃくり、過呼吸でひっくひっくり返りながら、リリアは涙と泥で汚れた顔を上げ、二人を順番に見つめた。
「私は……私は、どうしたらよかったの……? 誰の言うことを聞けば、許してもらえるの……?」
正解のない、あまりにも幼い問い。
その刃は、どんな聖剣よりも深く、二人の胸の核心を細かく切り刻む。
二人は何も答えられない。
やがて、リリアは自分の手の甲で、皮膚が赤くなるほど手荒に涙と鼻水を拭った。
足元はガクガクと震え、ドレスの泥は痛々しく、お世辞にも『気高い聖女』とは言えなかった。
それでも彼女は、他人を全力で拒絶するように振り払い、自分の力だけで、泥臭く、不格好に立ち上がった。
「……もう、祈りたくない」
そこにあったのは、決意を秘めた革命宣言ではない。
「やだ……。もうやだ……。何もしたくない……。どこにも、連れて行かないで……っ!」
ただの、限界を迎えた子供の拒絶だった。
呆然と立ち尽くしていたカインが、痛ましさに耐えかねたようにリリアへ一歩、足を動かした。
エイルもまた、その細い手を彼女へ伸ばそうと歩み寄る。
二人の影が、月光に引き延ばされてリリアの足元へ伸びた瞬間。
「来ないでっ!!」
それは喉を引きちぎるような悲鳴だった。
リリアは、まるで迫り来る怪物を前にしたかのように、身体を激しく引き攣らせて後退りした。
その瞳には、親しい者を拒む色ではなく、純粋な生物的恐怖だけが貼り付いていた。
リリアの震える指が、首元の聖女のメダルを掴む。
「嫌……っ」
その声は泣き声に近かった。
「もう嫌……。分かんない……」
指先に力が入る。鎖が首筋に食い込み、白い肌に赤い線が浮かんだ。
「お願いだから……」
縋るような掠れた声。けれど、その後に続いたのは、世界のすべてを切り離す拒絶だった。
「もう、私のこと、放っておいて……っ。誰も……」
燦然と輝いていた王家の紋章が、彼女の手の中でただの重い金属片になる。
「誰も……私に関わらないで……っ!!」
まとわりつくすべてを振り払い、拒絶するように。リリアはメダルを床へ叩きつけた。
甲高い金属音。
王家の紋章は大理石を激しく跳ね、何度も転がり、やがて天空の間の縁から雲海の下へ消えていった。
◇第二章:回想──
記憶の断片、あるいは開廷前夜の沈黙
それは、カインが激昂の中で叫んだいくつかの断片であり、エイルが血の混じった息で紡いだいくつかの残響だった。
リリアの脳裏で、あるいは世界の記憶の底で、錆びついた記録のように、いくつかの光景だけが音もなく再生される。
誰も、その意味を説明しない。
ただ、そこに厳然と存在する、傷の輪郭だけが並んでいる。
彼女は、何かを宣言したわけではない。
ただ苦しくて、ただ息ができなくて、縋り付くすべてを振り払っただけだ。
◇
──硬く規則的な木槌の音が、燦然たる王都の、その最深部にある法廷に鳴り響く。
コン、コン、コン、と。
壇上から見下ろす裁判官の目は冷酷で、傍聴席を埋め尽くす民衆の目は、飢えた獣のようにぎらついていた。
彼らは一様に、被告席の少女を指差し、口々に何かを叫んでいる。
──神の器としての義務を放棄した、大罪人。
──私利私欲のために世界を危機に晒した、偽善者。
怒号、罵声、あるいは、呪詛。
昨日まで彼女を聖女と呼んで崇めていたはずの同じ口が、今は彼女を役立たずと呼んで弾劾している。
リリアはただ、きらびやかな法衣を着せられたまま、そこに立っていた。
投獄──手首にかけられようとする、冷たい鎖。
その直後、法廷の窓を突き破って、すべてを焼き尽くす、魔王の業火が吹き荒れた。
◇
──村人は涙を流し、彼女の手を握りしめて帰っていった。
「ありがとう、リリアちゃん、本当にありがとう」、と。
その背中が見えなくなった瞬間、八歳のリリアは教会の裏手へ走り、井戸の縁にすがりついた。
ごぼり。
激しい嘔吐が彼女を襲った。
喉の奥から溢れ出たのは、血でも胃液でもなく、どろりとした、酷く生臭い黒い泥だった。
それは瞬く間に彼女の服を汚し、白銀の髪に絡みつき、地面を汚していく。
さっきまで感謝していた大人たちが、遠巻きにそれを見て、顔をしかめていた。
幼なじみのカインは何も言わなかった。
ただ、黙って冷たい井戸水を桶に汲んだ。
魔族との混血である、少年の小さな手は、その冷水よりもさらに冷たく、熱を持っていなかった。
カインは無言のまま、リリアの泥まみれの身体を、皮膚が赤くなるまで不器用にしごき洗う。
カインの手も、すぐに真っ黒に汚れていった。
二人は、何も喋らない。
ただ、井戸の水だけが、黒く濁って溢れ続けていた。
◇
──真っ二つにへし折れた、白銀の聖剣が荒野に突き刺さっていた。
その傍らで、全身から血を流し、指先を痙攣させている勇者エイルがいた。
世界を救う義務、英雄としての資格、そのすべてに押し潰され、呼吸の仕方も忘れたように震える少年の胸元に、リリアの手がそっと触れた。
「……勇者って、辛いのね」
その瞬間、エイルは獣のような声を上げて泣いた。
傷が塞がったわけではない。
それなのに、エイルは泣いていた。
世界を救う勇者が、ただの子供のように泣いていた。
リリアの肩が、わずかに沈む。
何かが、彼女の中へ流れ込んでいく。
◇
──いつも、リリアは震えていた。
怒っているのか。
怯えているのか。
泣いているのか。
その場にいた誰も、それが何なのか知らなかった。
◇第三章:地獄の残照──
あるいは、付着の沈殿
雨が降っていた。
市場の灰色の空から落ちてくる水滴は、初めから魚の生臭さと馬糞の匂いを含んでいるように濁っていた。
勝手口の軒下に立つリリアの灰色の外套は、すでに雨水を吸ってずっしりと重かった。
水分は布地を伝って内側へ染み込み、肌着を濡らし、体温を容赦なく奪っていく。
右のポケットが重いのか、それとも濡れた布地全体が重いのか、もう分からなかった。
歩くたびに、片減りした不格好な靴底が泥水を撥ね上げ、外套の裾を赤茶色に汚していく。
その泥の斑点は、大鍋の油染みの上を無差別に塗り潰していった。
「おい、ボーッとしてんじゃないよ! 濡れる前に塩樽を中へ入れな!」
老婆の怒声が、雨の音の向こうから降ってくる。
ザリ、と泥を噛む靴底の音が、右の耳の奥だけで鈍く響いた。
数日前に塩水で白くふやけた人差し指の肉刺は、今では完全に破れ、硬く黄色い皮膚の塊となって指先に張り付いていた。
リリアは身を屈め、濡れた木樽の側面に両手をあてがった。
手のひらの皮膚が、ざらざらとした木肌と摩擦する。
爪の隙間には、昨日のジャガイモの土と、今日の魚の鱗が混ざり合った、黒くて硬い線がどうしても消えないまま固まっていた。
抱え上げた木樽の質量が、湿った冷気とともに彼女の胸元へのしかかる。
その重みで、右の肩の関節がピキリと小さく鳴った。
冷たい雨水が首筋を伝い、背中へ流れ落ちる。
樽を運ぶ。
次の樽を運ぶ。
また次の樽を運ぶ。
◆第四章:夜の底で ── 善意の弾劾、あるいは偽証の証明
夕方の厨房は蒸し暑かった。
大鍋の湯気が白く立ち上り、皿を洗う冷水が足元を濡らし、誰かが注文した焼きたてのパンの匂いが絶えず鼻腔を掠めていく。
リリアは、最後の一枚の皿を棚に戻した。
指先は冷水でふやけ、一日中立ち尽くしていた両足は、感覚が麻痺するほど重く強張っている。
「ご苦労さん」
背後から、店主の老婆がぶっきらぼうに木椀を差し出した。
豆と、小さく刻んだ野菜をクズ肉と煮込んだだけの、ごく薄いスープだった。
「今日のまかないだよ。冷めちまう前に食べちまいな」
リリアは小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
両手で受け取った木椀は、じんわりと温かかった。
その熱が手のひらに伝わっただけで、胃の奥がきゅうと、雑巾を絞るように痛んだ。
リリアは厨房の隅の小さな丸椅子に腰掛け、木のスプーンを握った。
スープを掬い、口に含む。
だが、飲み込んだ瞬間に、猛烈な吐き気が喉をせり上がってきた。
空腹でちぎれそうな胃が、その栄養を、異物として激しく拒絶する。
リリアは口元を押さえ、震えながら、それ以上スプーンを動かすことができなかった。
湯気だけが、冷めていくスープの表面で静かに消えていった。
──夜の寄宿舎は、厨房よりもずっと冷えていた。
薄い毛布を頭から被り、横向きに身を丸めても、寒さと痛みが消えることはない。
暗闇のなか、シーツの擦れる音だけが室内に微かに響く。
胃が鳴った。
リリアは毛布を頭まで引き上げた。
また鳴った。
耳を塞いだ。
まだ鳴った。
小さな呻きは、冷たい毛布のなかに吸い込まれて消えた。
リリアは一晩中、暗闇のなかで、浅い呼吸を繰り返していた。
◇
翌朝の市場は、早くから活気に満ちていた。
リリアは酒場の店主に言われ、食材の買い出しのために人混みのなかを歩いていた。
朝の冷たい空気が、寝不足の頭をちくちくと刺す。
その時、すぐ横の露店から、強烈な匂いが漂ってきた。
じゅうじゅうと音を立てて焼かれる肉。油の爆ぜる音。
買い出しに来たどこかの父親が、その焼きたての肉の塊を、隣にいる小さな子供の口へと放り込んでいた。
子供が、熱そうにハフハフと息を吐きながら、嬉しそうにそれを咀嚼する。
その瞬間、胃がねじ切れるように痙攣した。
視界が揺れた。
焼ける肉。
滴る脂。
香辛料の匂い。
噛みしめる音。
笑う子供。
リリアの喉が勝手に鳴った。
唾液が溢れる。
胃が痛い。
痛い。
痛い。
「……全部」
声が漏れた。
「全部、滅びてしまえばいいのに」
「おいおい」
不意に声が降ってきた。
リリアはびくりと肩を震わせた。
肉屋の店主だった。
大男は串を返しながら苦笑する。
「そんな顔で世界を恨むなよ」
聞かれていた。
「腹減ってるんだろ」
そう言って店主は焼き上がった串を一本差し出した。
「食え」
「え……」
「いいから」
リリアは震える手で串を受け取る。
断る理由が見つからなかった。
肉は熱かった。
指先に脂が滲む。
胃が激しく反応する。
──それなのに。食べ方が分からなかった。
口を開けばいい。
ただそれだけなのに。
何をどう動かせば「咀嚼」して「嚥下」できるのか、その一連の構造が脳から完全に脱落していた。
胃だけが飢えている。
身体だけが欲しがっている。
どうしても、肉に噛みつけない。
「ありがとうございます」
それだけ言って頭を下げた。
店主は首を傾げた。
「そういや聞いたか」
リリアの足が止まる。
「第二の聖女様が現れたって話だ。これでまた、病人も怪我人も助かるな。王都じゃ大騒ぎらしいぞ」
店主は嬉しそうに笑った。
リリアは何も答えなかった。
串を握ったまま、逃げるように歩き出す。
肉の匂いだけが手の中から立ち上っていた。
◇
市場の喧騒を外れ、荷運び用の荷車が雑然と並ぶ裏手の薄暗い一角に、それはいた。
ゴミ溜めの傍ら、赤黒い血を流し、息を喘がせている獣のような姿。
人間の仕掛けた罠で、大きく肉を抉られている──魔族だった。
気づいた時には、リリアは泥濡れの地面に膝をついていた。
思考よりも早く、両手が魔族の傷口へと伸びる。
──他人の傷を見れば、癒やさなければならない。
それだけが、彼女が世界に存在することを許される唯一の手段だった。
リリアの手のひらが、魔族の傷口を覆う。
だが。
何も起きなかった。
いつもなら溢れ出るはずの、白銀の光が、どこからも湧き上がってこない。
「なんで……?」
リリアの指先が小刻みに震え出す。
手のひらから、ただ冷たい血が伝わってくるだけだ。
光らない。
塞がらない。
「なんで治らないの?……なんで!?」
半狂乱になったリリアは、何度も自分の手を押し当てた。
──治らなければ、自分には価値がない。
ただの役立たずの肉塊になってしまう。
魔族を助けたいのではない。
自分が『聖女』でなくなることが、ただ恐怖だった。
「嘘、嘘、お願い、治って、治りなさいよ……!」
涙と脂汗が混ざり合い、リリアの顔を汚していく。
発動しない力を求めて叫びながら、彼女はあたりに落ちていた汚れた布を掴み、近くの井戸から汲んだ水を浴びせ、必死に傷口を縛り上げた。
傷口から溢れる黒い血が、リリアの両手を、爪の間を、再び真っ黒に汚していく。
「ガ、アッ……!」
死にかけの魔族が、突如として拒絶反応を示し、リリアの手首に噛みついた。
鋭い牙が皮膚を裂く。
だが、死に体ゆえに腕がちぎれるほどの力はない。
肉に牙が食い込む痛みが走る。
それでもリリアは手を引かなかった。
ただ、狂ったように止血の手を動かし続けた。
やがて、荒い呼吸のまま、かろうじて出血が止まる。
魔族は濁った目でリリアを睨みつけ、這いつくばりながら、よろよろと立ち上がった。
そして、リリアが呆然と地面に落としていた、脂まみれの焼き串をひったくるように奪い取った。
魔族は肉の塊を荒々しく口にねじ込み、咀嚼し、喉を鳴らして飲み込んでいく。
そしてリリアを一瞥もせず、路地の闇の向こうへと消え去った。
魔族の姿が見えなくなっても、リリアは動かなかった。
助けた。
──だが治せなかった。
◆第五章:脳内法廷の解体──
あるいは、人間の輪郭
──ドクン、と。
リリアの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
胸の奥に空いていた『役割の穴』が、焼けた鉄を押し付けられたように猛烈に疼き始める。
(私より、優秀な聖女……)
胸の奥から、どろりとした黒い感情が急速に競り上がってきた。
新しい聖女への激しい嫉妬。
「私のあの二十年間は何だったの?」
「私の方がもっと血を吐いて祈っていたのに」
という、醜い、見返りを求める心の叫び。
手が小刻みに震え、呼吸が浅くなる。
煤けた茶色のスカートを、指先が白くなるほど強く握りしめた。
「おい、リリア。何をしている」
背後からかかった低い声に、リリアはびくりと肩を震わせた。
いつの間にかカインが、食堂の影から彼女を見下ろしていた。
「なんでもないわ、カイン。私はただ……」
「嘘をつくな。お前は今、王都の新しい聖女の噂を聞いて、嫉妬に狂っている」
「嫌……! そんなこと……!」
「お前、それを認めるのが怖いんだろう」
「私は……私は、みんなを助けたくて……!」
「だから、それと、認められたかったのと、何が違う」
リリアは唇を噛んだ。答えられなかった。
「違わないはずだ」
カインの声が、わずかに低くなる。
「お前、本当に馬鹿だな」
「……っ」
「褒められたかった」
「認められたかった」
「助けたかった」
「お前はその三つを、どうしてずっと別物だと思ってきた」
「やめて……」
「やめない」
カインはリリアの前にしゃがみ込み、その顎を強引に上向かせた。
冬の湖のような黒眸が、至近距離で彼女の翡翠の瞳を射抜く。
「俺は昔から、お前のそれが理解できなかった」
「……」
「どうしてお前だけ、人間じゃないことになっている」
「それは……」
「認められたくて何が悪い。ちやほやされたくて何が悪い。お前はそれで、実際に数万の人間を救い落としたんだろうが」
「違う、違う……!」
「違わない」
「もしそれが本当なら、私のあの二十年間は何だったのよ……!」
「お前のその二十年間を、無意味にしようとしてるのは俺じゃない。お前自身だ」
「──違う」
彼女はカインの手を猛烈な力で振り払い、弾かれたように立ち上がった。
「そんな都合のいい話があるわけないじゃない……!!」
「お前にとっては、都合が悪い話の方が安心なんだろう」
カインは静かにそう言った。
怒りではなく、ただ呆れたような、それでいて痛みを抑え込むような声で。
「眠れなくて、爪を噛みながら泣いていたあの夜は、全部ただの勘違いだったって言うの!? あの法廷で罵倒されたあの痛みは、何のためにあったのよ!?」
吐き気がした。
喉の奥が焼ける。
聞きたくない。
聞きたくない。
それだけだった。
「……」
「私が自分を嫌い続けて、必死で聖女でいようとしたあの時間は、全部無意味だったことになるじゃない!!」
カインは、それには答えなかった。
ただ、もう一度、手を伸ばした。
「俺は、最初からその汚いお前を、美しいと思ってここにいる」
リリアは、その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
一番見たくなかった、自分の内なる法廷がずっと被告席に据えていた『最悪の罪状』を、カインの言葉によって、歪みのない事実として確定させられた気がした。
彼女は「聖女」という役割を失うことよりも、自分を裁くことで辛うじて形を保っていた「聖女失格の罪人」という最悪のアイデンティティを、カインの正論によって奪われることが、耐え難く恐ろしかった。
それすら失えば、自分は本当に、何者でもなくなってしまう。
「私は汚れているのよ! 私は偽物で、最低の化け物で、だからここに閉じこもって、自分を罰し続けなきゃいけないの! それを取り上げないで! お願いだから、私をただの『まともな人間』にしないで……!!」
食堂の扉が開き、金髪を乱したエイルが飛び込んできた。
「リリア……! 君は、何も悪くないんだ! 僕が誰にもそんなこと言わせないから!」
エイルは必死に彼女の肩を抱きしめようとするが、リリアはその温かい手すら、激しく拒絶して突き飛ばした。
「触らないで! エイル、あなたのお金で生活するのも、もう嫌! カインの魔力で守られるのも嫌! 優しくしないで! 私を、これ以上『何も悪くない人間』みたいに扱わないでよ!!」
胸を掻きむしり、息を荒くしながら、リリアは二人を激しい憎悪の目で見つめた。
(─私は、世界に必要な魔王と勇者を浪費している)
けれど、二人とも、彼女を救えなかった。
どれほど完璧な理屈を並べられても、彼女の頭の中の法廷は、その防衛本能ゆえに、さらに強固にその門を閉ざしたのだ。
「私は……私は絶対に、私を許さない……! あの法廷の人間たちと同じように、私が私を、死ぬまで裁き続けてあげるわ……!」
そう言い残し、リリアは階段を駆け上がり、自室へと逃げ込んでいった。
激しく閉められた扉の音が、食堂に虚しく響き渡る。
残されたカインとエイルは、立ち尽くしていた。
◆最終章:神々の手を離れた地で ──
廃廷ののちに
そんなある日の夕暮れ。
宿屋の食堂の重い扉が、ひどく乱暴に押し開けられた。
「頼む……誰か、誰か助けてくれ……!」
飛び込んできたのは、リリアを「偽善者」と罵倒していった、あの裁判官だった。
だが、今の男の目に、かつての傲慢な怒りや剥き出しの欲望はなかった。
あるのは、ただ底なしの恐怖と絶望だけだった。
男の腕の中には、毛布に包まれた小さな姿があった。
八歳ほどの、彼の娘だった。
少女の顔は土気色に汚れ、呼吸をするたびに、胸が不自然にひどく上下していた。
「医者にも手遅れだと言われたんだ……! 王都の神殿に連れて行こうとしたが、門番に追い払われた! 頼む……聖女様! あんたなら、この子の病気を治せるんだろ!? 前は酷いことを言った、殴りたければ殴ってくれ! だから、この子だけは……この子だけは助けてくれ!」
カインが立ち上がり、大剣の柄に手をかけた。
「下がれ、人間」
カインの冷徹な声が響く。
「お前たちが、彼女に何を強いたか忘れたわけではあるまい。またそうやって、彼女の命を搾取するつもりか」
エイルがリリアを庇うようにして男の前に立ちはだかる。
「そうだよ」
エイルの聖剣が微かに鞘を鳴らす。
「リリアはもう聖女じゃない。誰の祈りも聞かなくていいんだ。僕たちが、お前たちのエゴから君を守るから」
二人の言葉は、完璧な弁護だった。
リリアの境界線を守るための、絶対的な正論。
カインは「有罪のお前でもいい」と檻の隣に寄り添い、エイルは「お前は無罪だ」と檻の扉を外から引っ張っている。
みんなが、正しかった。
──だが。
男の腕の中で、少女が、ひどく小さく咳き込んだ。
「……ぅ、……ごほっ、……おと、う……ちゃん……」
震える小さな手が、父親の汚れた麻服の胸元を、ぎゅっと、弱々しく掴んだ。
少女の額からは、死の影を孕んだ脂汗が滲み出ている。
ただ、苦しい。
ただ、怖い。
そこには神殿の政治も、魔王の思想も、承認欲求の有無も、聖女の定義も存在しなかった。
ただ、いま目の前で消えかけている、圧倒的な生の輪郭だけがあった。
リリアの脳裏を、無数の思考が駆け巡る。
──また利用されるのではないか。
ガン!
──ここで助けたら、またあの地獄の法廷に引きずり戻されるのではないか。
ガン!
──国を憎んでいるような汚れた私が、祈っていいはずがない。
ガン!
全部浮かんだ。
全部消えなかった。
頭の中の法廷は、今この瞬間も、検察と弁護人が激しい大論争を繰り広げ、裁判官が狂ったように木槌を打ち鳴らしている。
なのに。
リリアの足は、カインとエイルの制止をすり抜けて、地面を蹴っていた。
「リリア!?」
「待て、リリア!」
二人の制止の声すら、彼女の耳には届かなかった。
リリアは男の前に膝をつくと、震える自分の十本の指を、少女の熱い額へと反射的に伸ばしていた。
(私は、何も解決していない。私は汚れている。私は、最低の聖女失格の人間だ──)
脳内法廷が、彼女に最大の有罪判決を下そうと叫ぶ。
──なのに、両手はもう、温かい純白の光を溢れさせていた。
その光は、王都の神殿にいた頃のような「神々しく美しい奇跡」ではなかった。
ただ、少女の呼吸を楽にしたい、この熱を下げてあげたいという、それだけの、あまりにも必死で不器用な、生身の祈りだった。
光が少女の身体を包み込む。
数秒の後、少女の激しい呼吸が、すう、と静かな寝息へと変わった。
土気色だった頬に、ぽうっと、健康的な赤みが差す。
「あ……ああ、息をしてる……熱が引いた……!」
男はボロ布のように床に崩れ落ち、娘を抱きしめてワンワンと声を上げて泣いた。
何度も何度も床に頭を打ち付けながら。
リリアは、自分の白い両手を見つめたまま、その場にぽつんと座り込んでいた。
カインも、エイルも、言葉を失って彼女を見つめていた。
頭の中では、まだ裁判官の木槌が鳴り響いていた。
──それでもお前は偽善だ。
──それでもお前は憎しみを抱いている。
──有罪。有罪。有罪。
激しい残響が脳を揺らす。
彼らの正論も、愛も、少女の治癒も、彼女の罪を薄めることはできない。
その時だった。
──ぐぅぅぅ、と。
あまりにも場違いな、間抜けな音が、食堂の静寂に響き渡った。
リリアの、煤けた茶色のスカートの奥から、はっきりと大きな腹の虫が鳴いたのだ。
裁判官の木槌が、ぴたりと止まった。
──ぐぅぅぅ。
もう一度、鳴る。
検察官も、弁護人も、傍聴人も、脳内のすべての声が凍りついた。
誰も、反論できなかった。
どれほど醜い憎しみを抱えていようが、腹は減る。
ただの生物としての、絶対的な現実がそこにあった。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
二十年間、自分を縛り付け、求刑し続けてきた頭の中の法廷──。
その裁判官の席を見上げても、そこには、もう誰もいなかった。
検察官も、弁護人も、誰一人として存在しない。ただのがらんとした、埃っぽい無人の部屋が、文字通り呆気なく霧消していく。
カインが、呆気にとられたように目を見開いた。
エイルが、涙を浮かべたまま、ぽかんと口を開けた。
彼らは完璧な正論を用意していた。
完璧な愛を準備していた。
けれど、彼らの高尚な思想のすべては、この「腹の虫」というどうしようもない現実の前に、何の意味もなさなくなっていた。
リリアは一瞬だけ呆然とした後、顔を真っ赤に染め、それから──ふっと、悪戯っぽく唇の端を吊り上げて笑った。
「……お腹、空いちゃったわね」
リリアは立ち上がった。
貯蔵庫から、ずっしりと重い小麦粉の袋を抱えて戻ってくる。
「この数年間、ずっとあなたたちに守られてばかりだったから」
袋をどん、と長机に置いた。
白い粉がふわりと舞う。
「今日は私が作るわ」
呆然とする二人を置き去りにして、リリアは桶に湯を張った。
粗末なエプロンの裾をパタパタとはたき、自分の十本の指を広げる。
爪の隙間には、黒い汚れがまだ残っていた。
リリアは小麦粉の山に指を突き入れた。
「カイン」
「なんだ」
「塩、取って」
「……ああ」
コト、と卓上に岩塩の小瓶が置かれる。
「エイルは薪を見てきて。火が弱いわ」
「え? あ、うん!」
パチパチと、奥の暖炉で乾いた薪が小気味よく爆ぜ始めた。
ベチャ、ベチャと、桶の中で生地がゆっくりまとまり始める。
窓の外からは、一日の終わりを告げる夕暮れの鐘が、遠く静かに鳴り響いていた。
(了)
長い物語をここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。m(_ _)m
この物語で書きたかったのは、「善意による搾取」でした。
誰も悪人ではない。
誰も傷つけようとしていない。
それでも、人は誰かに期待し、頼り、感謝し、その結果として一人を追い詰めてしまうことがあります。
リリアを苦しめたのは悪意ではありませんでした。
勇者の愛も。
魔王の保護も。
民衆の感謝も。
神殿の使命感も。
どれも本物でした。
だからこそ厄介だったのだと思います。
そしてもう一つ。
この物語は「聖女が救われる話」ではなく、「聖女をやめて人間になる話」でした。
立派でなくてもいい。
綺麗でなくてもいい。
見返りを求めてもいい。
嫉妬しても、怒っても、お腹が空いてもいい。
だって、人間だから。
最後にリリアの頭の中の法廷を壊したのは、愛でも正論でもありませんでした。
ただの空腹です。
けれど私は、そのどうしようもなく情けない現実こそが、人間を人間たらしめているのだと思っています。
神々の手を離れた地で。
リリアがようやく手に入れた、ごく当たり前の人生が、これから少しでも穏やかなものでありますように。(*人´ω`*)




