第二十三幕
9年前……。
1月にしては暖かい気候に恵まれたその日、姫子一家は入院中のお父さんを病院に残して、少し遅い初詣に訪れていました。お参りの帰り、お守りなどを買うついでに姫子はおみくじを引きました。出たのは『大吉』。――今年はええことがあるかなぁ。お父さんも、早く良くなるかなぁ。少し憂鬱だった年末を越して、姫子は新しい年に希望を抱いていました。しかしその夜、容体が急変した姫子のお父さんは、帰らぬ人となってしまいました……。
優也からの電話を受けて病院へと飛び出していった姫子は、病室へと続く廊下を急ぎながら、9年前のあの日のことが頭の中にフラッシュバックしていました。――お母さん! お願い、無事でいて! とうとう病室の前までたどり着いた姫子は、ゴクリっとつばを飲み込み、そっと扉を開けました。そして、団体部屋の一角にあったお母さんのベッドへ向かって、1歩、また1歩と、歩を進めました。ベッドの前まで来ると、そっと閉じられたカーテンを開きました。
「お母さん……! ………へ?」
ぼう然とした姫子の目に映ったのは、ベッドに座ってみかんを食べているお母さんの姿でした。
「あ、姫子! 姫子もみかん食べる?」
「へ……あ、いや……た、倒れたんとちゃうん?」
「それが聞いてよ。ちょっとこの前みたいにめまいがしてクラ~ってなっただけやのに、職場の人たちが大げさに救急車呼んで。まあ、最近過労死とかが流行ってるからやと思うねんけど。優也も優也で、電話で姫子に大げさに言うから」
「そんなこと言われたって、職場でお母さんが倒れたって聞いて、俺やってなんかよう分からんかったし……」
お母さんのベッドの隣で椅子に座って一緒にみかんを食べていた優也は、珍しく頬を膨らませていました。
「ゴメンゴメン。優也も姫子も、ホンマに心配かけたね。けど、もう大丈夫。お医者さんは1週間は入院して安静にするようにって言うてたけど、少し休んだら、また一生懸命働くから」
姫子は緊張の糸が切れたように、ポタポタと涙を流してお母さんに抱きつきました。
「良かった……ホンマに良かったよぉ……」
「よしよし、ホンマにゴメンなぁ。ほら、姫子もみかん食べて。職場の人がビタミン取らなって、アホほど持ってきてくれたから」
姫子の頭を撫でるお母さんのベッドの下には、みかんの山が出来た段ボール箱が置かれていました。
何はともあれ、お母さんが無事で本当に良かったですね。……おや? しかし、気持ちを落ち着かせたあとで作菜たちに連絡を入れる姫子の顔は少し曇っているようです。
「……はい、ご迷惑をおかけしてホンマにすいません。……じゃあ、失礼します」
携帯電話を切ると、姫子は財布の中にしまっていた小さな紙切れを取り出しました。それは先日の『大吉』と書かれたおみくじ。――やっぱりわたしのせい? わたしが大吉を引いたからお母さんは……。談話室で1人、椅子に座っていた姫子は、神妙な面持ちでおみくじを見つめていました。
一方、喫茶石切堂では、姫子からの電話を受けた作菜が、とりあえずの安堵の表情を浮かべていました。
「姫のお母さん、大丈夫やってさ。けど、1週間は入院せなアカンみたいやから、姫子もお母さんや弟君の面倒見るために、1週間、稽古とバイト休むってさ」
作菜の報告に石切堂の面々も安堵していました。
「ホンマに良かった……」と七海はウミブタを抱きしめました。
「……けど、ホンマに姫子、1週間で戻ってくるんかな……?」
少し不安げに奏がつぶやきました。
「何言うてんねん? 姫子は戻ってくるに決まってるやん」
可憐が異議を唱えました。
「せっかくシンデレラ役に選ばれたんやし、それにわたしや七海の分まで頑張るって言ってくれたもん。せやから、わたしたちは姫子がいつ帰って来てもええように、姫子が出てへんシーンの稽古しとこっ」
「たまには可憐もええこと言うやん? こりゃ、明日は夏日やな」
作菜が笑うと、可憐は口を尖らせました。
「それどういう意味やねん! このお局!」
「誰がお局様や!」
「様は言うてへんわ!」
作菜と可憐のやりとりに、七海たちは「相変わらずやなぁ」と呆れていました。しかし奏だけは少し心配な顔をしていました。
稽古が終わると、2階へやって来た可憐は姫子にメールを打ちながら、そばで帰り支度をしていた七海に話しかけました。
「それにしても、奏も変なこと言うなぁ? 姫子が戻ってくるんかなぁ、なんて。戻ってくるに決まってるやん。なあ? あ、そうや! 七海、わたしたちで姫子の衣装作ってあげへん?」
「え?」
突拍子の無い可憐の思いつきに、七海は帰り支度の手を止めて振り返りました。メールを打ち終わった可憐はニタ~っと笑って続けました。
「サンライズや」
「……それを言うならサプライズやろ?」
「あ、それそれ。姫子も主役とか看病とかいろいろ忙しいやろうからさ。なあ、やってみいへん?」
「……別にええけど。でも、わたしたちだけで出来るんかな?」
自信なさげな七海とは対照的に、可憐は自信満々でした。
「ええ考えがあんねん」
そう笑うと、可憐はどこかにテレビ電話を掛け始めました。その相手は――。
「な~る。それでわたしに白羽の矢が立ったわけか」
「一生のお願いや、明さん。初めて主役をする姫子のために、わたしたちで衣装作ってあげたいねん」
可憐のスマホの画面に映った明は、両手を合わせて懇願する可憐の顔を少し見たあとで、ニコッと微笑みました。
「もちろんええよ。ていうか、こんなことで一生のお願い使わんでも、衣装の作り方くらいいくらでも教えたるやん」
「明さぁん……めっちゃ好き~❤」
可憐は自分のスマホを思い切り抱きしめました。
「こらこら、スマホ抱いてどうすんねん?」
明はスマホの向こうで笑ったあと、少し心配そうにつぶやきました。
「……でも、ホンマにお姫ちゃん、帰って来れるんかな……?」
「え? 明さんまで奏みたいなこと言うて。姫子は帰って来るに決まってるやん。せっかく憧れのシンデレラ役に選ばれてんから」
「そうやねんけど……そうなんやけどな……」
可憐の言葉に答えた明は、家族のために劇団を辞めた自分と姫子を重ね合わせているようでした……。
その頃、病院の談話室にはまだ姫子の姿がありました。やはり手にはおみくじ。ふと、携帯にメールが入り、開きました。それは可憐からのメールでした。
『お母さん無事で良かったな❤❤こっちは心配せんでええで(⌒∇⌒)あ、でも姫子がおらんのはさみしいなぁ↓↓』
可憐のメールを見て姫子は少し微笑み、返信メールを打ち始めました。
『ゴメンな。ありがとう。出来るだけ早く戻るから』
と打ち終わったところで、姫子の指が止まり、『出来るだけ早く戻るから』という部分だけ削除して、可憐に送りました。メールを送ったあと、姫子はまたおみくじに目を戻しました。――……わたし、戻ってもええんかな……? 劇団に戻って、わたしだけが楽しい思いしてもええんかな……? わたしがこんなん引かんかったら……わたしがシンデレラの役に選ばれへんかったら……わたしが、劇団に入らへんかったら……お母さんは倒れたりせえへんかったかもしらへん……。それやのに、わたし、劇団に戻ってもええんかな……? うなだれた姫子が唇を噛みしめていると、聞きなれた声が聞こえてきました。
「姉ちゃん、ここに居ったんか?」
「優也……」
「店に電話するって出て行ったきり戻ってこうへんから、お母さん心配してたで」
「あ……ゴメン、ちょっと考えごとしてて。……お母さんは?」
優也は姫子の隣にドサッと座り込みました。
「みかん食べたら、なんかもうすぐに寝てもうたわ」
「そっか……疲れてたんやろうな。優也も、今日はお疲れさま。大変やったやろ?」
「まあ……けど俺ももうちょっとしたら小6やからな。……お母さんや姉ちゃんにばっか苦労かけてられへんし」
「優也……頼もしいなぁ」
姫子は優也にもたれるようにして、肩の上に頭を置きました。
「……けど、怖くなかった? お母さんが倒れたって聞いて」
「え……?」
「わたしは、怖かった……お母さんまで、居らんくなりそうで」
「……俺は姉ちゃんと違って、お父さんの時の事ほとんど覚えてへんから、あんまりよう分からへん。……まあ、ちょっとパ二クッたけどな」
優也が自虐気味に笑ってみせると、姫子も少し微笑みました。
「そっか。……じゃあ、そろそろわたしたちも帰ってご飯にしよっか?」
そう言って立ち上った姫子の手元に『大吉』くじが見えて、優也はニヤッとしました。
「そういえば、姉ちゃんが次の公演の主役に選ばれたんって、絶対にその大吉のおかげやろうなあ。なんたって可憐さんと姉ちゃんじゃ、月とスッポンやからな」
優也はそう言って立ち上ると、すでに逃げる準備をしていました。しかし、姫子は以前のように怒ってきませんでした。
「……姉ちゃん? 怒らへんの?」
「……だってホンマのことやもん。けど、そのせいでお母さんが……」
「姉ちゃん……?」
小さくつぶやく姫子に優也が首をかしげていると、姫子は気を取り直したように歩き出しました。
「さっ、早よ帰ろう。お腹空いたわ」
「う、うん……」
いつもと様子の違う姫子の姿に、優也は少し不安を抱きながらついていきました。
明くる日、すっかり初詣客も引いた夕日の射す小さな神社に姫子の姿がありました。ちなみに、この日も夏日ではありませんでした。余談は置いといて……古札入れの前に立つ姫子はまた『大吉』のおみくじを見つめていました。そして、お母さんの言葉を思い出していました。
――ええやんか、大吉。年の初めから縁起がええなぁ。姫子や優也には幸せになって欲しい。幸せでいて欲しい。そのために、もしわたしが不幸になるんやったら大歓迎や――
姫子の手に力が入りました。――お母さんはああ言ってくれたけど、でも……。姫子はおみくじをたたんで、古札入れの中へと入れてしまいました。――お母さんゴメン。わたしには耐えられへん……。
姫子は境内へと行き、手を合わせました。
「お願いします、神様。わたしはなんでもします。劇団も……もう辞めます。せやからお母さんや優也を……わたしの大切な人たちを、もう誰も不幸にせんといてください。もう誰も、わたしから取らんといてください。お願いします!」
姫子は願いごとを口に出し、最後に大きく頭を下げました。
神社を出たあと、姫子は今日もお母さんのお見舞いにやって来ました。朝、学校へ行く前にお母さんの着替えを届けに来ていたので、今日は2度目のお見舞いです。お母さんは昨日より少し顔色が良いようでした。
「それにしても、姫子まで1週間も稽古休まんでも。主演に選んでもらってんから、稽古大変なんやろ?」
「ん……まあ……。でも優也の面倒もあるし、ただでも学校とか新聞配達とか休まれへんのに、これ以上お母さんから目ぇ放したら、すぐに無理しそうやもん。休んどかなアカンのに」
姫子は少し口を尖がらせて言いました。
「入院しなさいって言われてるうちは無理なんか出来へんよ。……でも、ずっと姫子が憧れてたシンデレラの役に選んでもらって、ホンマに良かったね。大吉さんのおかげかな? 絶対に観に行くからね」
「……そんなことより、今は療養せな」
「姫子や優也の楽しそうにしてる姿見てる方がよっぽど元気になるわ。あ、そうや、大吉さんにお礼しとかな。姫子、今持ってる?」
「え!? あ、いや……あ、わ、わたし飲みもん買ってくるわ。もうちょっとしたら優也も来ると思うし」
「ちょっと、姫子っ!」
姫子はお母さんに構わず、病室を出て行きました。自販機で飲み物を買いながら、姫子は心の中でこうつぶやきました。――お母さんゴメン。七海ちゃん、奏ちゃん、作菜さん、マスターさん、結衣さん……可憐ちゃん……ごめんなさい。ガチャンとジュースが落ちる音が空しく廊下に響いていました……。
翌日、姫子は喫茶石切堂へ訪れていました。両手でギッシリとみかんが入った紙袋を抱えたまま、入り口の前で入り辛そうにしていると、背後から賑やかな声が呼びかけました。
「姫子っ!」
姫子が振り向く間もなく可憐が後ろから抱きついてきました。
「わっ! ちょっと可憐ちゃん、びっくりするやんか」
「わたしが言うた通りや」
可憐は姫子に構わず、姫子に顔をスリスリしていました。
「姫子、ちゃんと帰ってきてくれた。もう稽古来れるようになったん?」
「へ……えっと……そ、それより可憐ちゃん、手ぇどうしたん!?」
抱きつく可憐の指が絆創膏だらけだったことに姫子は驚きました。
「えっ!? あ、いや、こ、これはなんでもないねん、あはは~……」
可憐は慌てて手を後ろに隠すと、姫子を店の中へと迎え入れました。
姫子が数日ぶりに訪れた石切堂店内では、ちょうど閉店後の清掃作業が行われており、可憐が賑やかに「姫子帰って来たでー」と大声を上げると、ドタドタドタと石切堂の面々が集まって来ました。
「姫、予定より早かってんな。もう、稽古には戻れるんか?」
作菜が代表して尋ねました。
「いえ……今日は、皆さんにお母さんのことでご心配やご迷惑をおかけしたんで、お見舞いにもらったみかんを持ってきただけなんです。いっぱい余っちゃってるんで」
姫子はカウンターに出て来ていたマスターに持っていた大きな紙袋を手渡しました。マスターは「みんなでいただくわ」といつもの笑顔を見せて、それをプライベートスペースの台所へと持っていきました。
「じゃあ、まだ……?」
横で七海が尋ねました。姫子が申し訳なさそうにうなずくと、後ろから可憐が元気に言いました。
「姫子がまだ帰って来られへんのは残念やけど、でも安心してな。姫子が居らん間は、姫子が出てへんシーンの稽古してるから。戻ってきたら、姫子のシーンの稽古いっぱいやろなっ」
「……そのこと、なんやけど」
紙袋が無くなって手持ち無沙汰になった両手をギュッと握って、姫子は言いにくそうに小さく言いました。
「戻れそうになくて……その……」
「1週間以上かかんの? 別にそれはええけど……でも、姫子のお母さん大丈夫やったんやろ?」
「それは、まあ……。でも……」
「ん~……じゃあ2週間? ひょっとして3週間!? そ、それはさすがにまずいかなぁ」
「えっと……」
「可憐、姫困ってるやろ?」
可憐の質問攻めに姫子が困っていると、作菜が助け舟を出しました。
「姫子……」
七海が不安そうに見つめていました。七海だけでなく、何も言いませんでしたが奏や結衣も姫子を見つめていました。姫子はつい七海のウミブタを借りたくなるほどにその視線か逃れたい気持ちでいっぱいでしたが、意を決し、深呼吸を一つして、ゆっくりと話し始めました。
「実は………辞めさせてもらいたくて……劇団もアルバイトも」
「え……ちょ、ちょっと何言うてんの?」
少しぼう然としたあと、可憐は笑いながら続けました。
「冗談はやめてよ。今日、エイプリルフールちゃうで?」
「……ごめんなさい」
「……本気なん?」
「……ホンマにごめんなさい。せっかくシンデレラ役に選んでもらったのに、急な話でホンマにゴメンなさい!」
姫子は可憐たちに大きく頭を下げました。
「そうや。せっかくシンデレラ役に選ばれたのに、わたしや七海の分まで頑張るって言うたのに、なんでそんなこと言うの!?」
信じられないという顔で姫子の肩を揺する可憐を、作菜が制止しました。
「可憐、ちょっと落ち着き。……姫、理由聞いてもええか?」
「………わたし、もうお芝居を楽しめそうになくて……」
「……どういうこと?」
七海が小さく尋ねました。
「……わたしが劇団に入ってから、お母さん、お仕事の時間増やして……。わたしもここで働かせてもらってるけど、やっぱりお給料が減っちゃったから……。……わたし、そのこと知ってたのに、1人で楽しい思い、幸せな思いして……それで、お母さんが倒れちゃって……せやから、わたし、もう……」
姫子は泣きそうになるのを我慢しながら、声を振り絞りました。
「……ゴメン」
カウンターに残っていた結衣が頭を下げました。
「もっと給料あげれたらよかったんやけど……あんたが苦労してんのは、なんとなく分かってたから」
「い、いえ……結衣さんやマスターさんにはホンマに良くしていただいたと思ってます。よくお土産もいただきましたし」
「……姫。理由は分かったけど、そんなにすぐに結論を出さんでもええんちゃうか? もう少し考えてからでも――」
作菜は可憐や七海や奏のためにも姫子を引き止めようとしましたが、姫子はそれを遮るように答えました。
「いえ……もう決めたことなんで。だいたい、こんな気持ちのままでお芝居やったら、作菜さんたちにも、観に来てくれるお客さんたちにも迷惑かけちゃいますから。せやから――」
「姫子の嘘つき!」
姫子の言葉を遮って、肩を震わせた可憐が大声を上げました。目にはいっぱいに涙が溜まっています。
「姫子なんて大っ嫌いや! 姫子なんて……勝手に辞めたらええやんか!」
可憐は作菜たちの制止を遮ってドタドタドタと2階へと走っていきました。2階へとやって来た可憐は、作りかけのピンク色のドレスに目をやり、それを思い切り破ろうとしましたが、出来ませんでした。そして、ワンワンと泣き崩れました。
1階に取り残された姫子は、――嫌われて当然やんな……これでええねん、これで……、と心でつぶやいていました。
「可憐のこと許したってな。可憐やって、ホンマはちゃんと分かってると思う。けど、やっぱり姫子のこと好きやったから。わたしも……」
七海はウミブタをギュッと抱きしめて、顔の半分を埋めていました。
「ありがとう、七海ちゃん。私も好きやで、七海ちゃんのこと」
姫子はやさしく七海を抱きしめると、次に奏の方を見ました。
「奏ちゃん、わたしをシンデレラ役に推薦してくれてんな? ありがとう。……ホンマにゴメンな」
「別に……ちょっと気の迷いみたいなもんやったし……」
強がったように答えると、奏は車イスごと姫子にそっぽを向け、顔を隠しました。
「……また会えるんやろ? わたしと姫子が生きてる限り」
「奏ちゃん……うん、いつでも会えるよ。時間が出来たら、劇、みんなで観に来るわ」
奏は振り返らずに、肩を震わせながらうなずいていました。
「……残念やな」
作菜が舞台の上にドサッと腰掛けて、ため息を零しました。
「姫みたいに芝居を好きになってくれる子が、芝居を辞めるなんて」
「すいません……いろいろ無理ばっかり言ってしまって……」
「かまへんよ、姫の人生や。それに、芝居を楽しんで出来へんねんやったら、やるべきじゃないと思う。……けどな、その気になったらいつでも帰ってきいや。あんたは、わたしたち劇団おとぎの花園の一員やねんから」
作菜の言葉に、姫子は涙が溢れ出しそうになりましたが、一生懸命に我慢して、もう一度頭を下げました。
「ありがとうございます。ホンマに……いろいろとお世話になりました」
姫子は頭を上げると、重たい足を玄関へと向けました。奥から急いで出てきたマスターが、その姫子を呼び止めました。手には喫茶石切堂のお持ち帰り用紙袋があります。
「これ、お母さんのお見舞いに持っていき。……結衣、ええやろ?」
「しゃーないなぁ」
そう言う結衣の目はやさしく微笑んでいました。
「姫子、次のバイト決まるまで、ここに居ってもええねんで?」
「ありがとうございます。……でも、申し訳ないですし……それに、やっぱりここに居ったら、気になっちゃうんで、いろいろと……」
「そっか……まあ、そうやな。……姫子、母子家庭はいろいろ大変やと思うけど、あんまり無理せんようにな」
「はい。……みなさん、ホンマに、ホンマにありがとうございました!」
姫子は最後にもう一度頭を下げ、店を後にしました。
店を出て、喫茶石切堂を外から見上げた姫子の脳裏には、この約1年間の様々な出来事がよぎっていました。そして目にいっぱいの涙を溜めて微笑んで、石切堂に向かって大きく頭を下げました。――今まで、ありがとうございました。心でそうつぶやいた姫子は頭を上げ、しばらく名残惜しそうにその場に留まっていましたが、やがてゆっくりと自転車を押し始めました。そして最後に2階に目をやったあと、自転車に跨って、走っていきました。石切堂の台所では、姫子の置き土産となったみかんの1つが、まるで劇団を去った姫子のように袋から零れていました。
さてさて、姫子が劇団を辞めることになってしまいましたね。本当にこれで良かったのでしょうか?
可憐、1人で泣いている場合じゃありませんよ。
いよいよ、この物語のクライマックスが近づいているようです。
ですが、この続きはまた、次の幕でお話しするといたしましょう。では。




