エピローグ 『王じゃなくて、桐生朔也として』
最終話です。
それから少しだけ時間が過ぎた。
劇的なことは、何も起きなかった。
玲奈からの連絡は、しばらく途切れた。
麗華からは一度だけ、短い季節の挨拶のような文面が届いた。
紗良は必要なことだけを話し、必要以上に近づかないまま、でも完全に背を向けることもしなかった。
世界が急に優しくなるわけではない。
女たちの熱が、全部きれいに消えるわけでもない。
桐生朔也の欲だって、別に消えたわけじゃない。
街へ出れば、相変わらず視線は刺さる。
少し笑えば、女たちの目の色が変わる。
そのたびに、自分がこの世界ではどういう立場に置かれているのかを思い出す。
王。
そんな大層な呼ばれ方が、自分へ張りつくこともまだある。
でも今は、その言葉に前ほど酔えなかった。
たぶん、自分はようやく知ってしまったのだ。
欲しがられることと、見てもらうことは違う。
抱かれることと、一緒にいたいと思われることも違う。
その違いを知ってしまった以上、前のように熱だけへ飛び込んでも、もう戻れない。
◇
冬月書房へ通うことは、いつの間にか生活の一部みたいになっていた。
毎日ではない。
でも、数日空くと少し落ち着かなくなる。
それは前の自分からすればかなり異常なことだった。
女のところではなく、本屋が気になる。
抱きたいではなく、行きたいが先に来る。
そんな欲は、今まで知らなかった。
扉を開ける。
ベルが鳴る。
紙の匂い。
静かな棚。
「いらっしゃいませ」
澪の声が落ちる。
その声を聞くたび、胸の奥で何かが過剰に跳ねたりはしない。
でも、少しだけ整う。
それが心地いい。
「また来たよ」
朔也が言うと、澪はカウンターの向こうから少しだけ視線を上げた。
「そうですね」
「もうちょっと何かないのか」
「何がです」
「歓迎するとか」
「しています」
「全然そうは見えない」
「見えなくてもいいので」
その返しが、相変わらずちょうどいい。
朔也は棚の前を歩き、前に澪から渡された本をカウンターへ置いた。
「返す」
「どうでした」
「半分くらいしか頭に入ってない」
「正直ですね」
「でも、嫌いじゃなかった」
澪は本を受け取り、表紙の角を軽く撫でるみたいにしてから棚へ戻した。
「それならよかったです」
その“よかった”が、前ならきっと物足りなかった。
もっと熱が欲しいとか、もっとわかりやすい反応が欲しいとか、そういうことを考えたと思う。
今は違う。
この短い“よかった”だけで、十分に心へ残る。
◇
その日は客足が少なかった。
夕方の終わりかけ。
外は薄く曇っていて、裏通りの色も静かだ。
店の中へ差し込む光もやわらかい。
朔也はいつもの椅子へ座り、適当に一冊手に取ってページをめくっていた。
読んでいるようで、半分は読んでいない。
でも、それでよかった。
澪が近くの棚を整えている。
時々、こちらを見ては何も言わずにまた本へ視線を戻す。
その“何も言わない”が、たぶん今の自分には何よりありがたい。
「最近」
不意に、澪が言った。
「顔が少し変わりましたね」
朔也はページをめくる手を止める。
「何だよそれ」
「前より穏やかです」
「前は険しかったみたいに言うな」
「だいぶ」
即答だった。
その返しに、少しだけ笑ってしまう。
「そんなにひどかった?」
「かなり」
「そっか…」
前は本当に、ずっと何かに追われていたのかもしれない。
欲に。
承認に。
飢えに。
前の世界で踏みつけられた分を、取り返そうとするみたいに。
今も、全部が癒えたわけじゃない。
消えたわけでもない。
でも、少なくともここにいる間だけは、自分が何かを証明しなくていい気がする。
「…なあ」
朔也が言う。
「何ですか」
「俺さ、たぶんまだ全然まともじゃないんだよ」
澪は作業の手を止める。
「ええ」
「そこ肯定すんなよ」
「事実なので」
「ほんとそれ好きだな」
澪は返事の代わりに、少しだけ目を細めた。
笑ったわけではない。
でも、少しだけやわらかい。
「でも」
朔也は続ける。
「前よりは、まともになりたいと思ってる」
それはたぶん、この物語の最初の頃に比べれば、一番意外な願いだった。
前は、欲しがられればよかった。
抱ければよかった。
女に囲まれて、自分の価値を確認できれば、それでいいと思っていた。
今は違う。
ちゃんと一人の前へ立ちたい。
逃げずに。
誤魔化さずに。
自分の名前で。
澪はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「それは、いいことだと思います」
短い。
でも、それだけで十分だった。
◇
閉店後、朔也は珍しく店の外まで澪を見送った。
シャッターを半分下ろし、鍵を閉める。
澪が鞄を肩へかける。
その動作まで、いつも通り静かだ。
「駅まで?」
朔也が聞くと、澪は少しだけ不思議そうな顔をした。
「送るんですか」
「嫌?」
「嫌とは言っていません」
その返しに、少しだけ安心する。
二人で歩き出す。
裏通りの夜は静かで、足音だけが小さく響く。
玲奈と歩いた時の熱とは違う。
麗華と並んだ時の緊張とも違う。
紗良といた時の張りとも違う。
ただ、並んで歩いている。
それだけなのに、ひどく満たされる。
「…不思議だな」
朔也が言う。
「何がですか」
「お前といると、何もなくていい」
澪の歩幅がほんの少しだけ乱れた気がした。
でも、すぐに元へ戻る。
「失礼ですね」
「何でだよ」
「何もないみたいに言うので」
「あ、違う」
慌てて言い直す。
「そうじゃなくて、何か起こさなきゃって思わなくていいって意味」
「それならわかります」
少しだけ間を置いて、澪が続ける。
「私も、楽です」
その一言に、胸の奥が静かに熱を持つ。
前みたいな、すぐ体へ落ちる熱じゃない。
もっと遅くて、でも確かなもの。
駅前へ出る手前で、信号に引っかかる。
二人で止まる。
人通りはある。
でも、この瞬間だけは妙に静かだった。
朔也は少しだけ迷って、それから手を伸ばした。
いきなり強く握るわけじゃない。
ただ、指先が触れるくらいに。
澪がこちらを見る。
「…何ですか」
「いや」
朔也は少しだけ喉を鳴らす。
「これくらいなら、いいかなって」
澪は数秒、何も言わなかった。
その沈黙の間に、朔也は少しだけ後悔しかける。
早かったかもしれない。
まだそんなことをしていい段階じゃないかもしれない。
でも次の瞬間、澪の指先が、ほんの少しだけこちらへ触れ返した。
握るほどじゃない。
でも、たしかに触れ返した。
「それくらいなら、まあ」
澪が静かに言う。
その言葉だけで、十分だった。
信号が青になる。
手はすぐに離れる。
でも、その一瞬の温度が、今までのどんな熱よりも静かに残った。
◇
別れ際、澪が小さく言った。
「朔也さん」
名前で呼ばれる。
それだけで、少しだけ胸が鳴る。
「何」
「前に言いましたよね」
「何を」
「何とも思っていないわけではない、と」
朔也は息を止める。
「うん」
澪は少しだけ視線を逸らして、それからまた戻した。
「今は、前よりちゃんとそう思ってます」
その言い方が、あまりにも澪らしくて、朔也は一瞬何も言えなかった。
好きとか、恋とか、そんな簡単な言葉では言わない。
でも、そのぶんだけ、今の一言はずっと重い。
「…そっか」
やっとそれだけ返す。
澪は頷く。
「ええ」
「また来る」
「本を買ってくれるなら」
「そこは譲らないんだな」
「本屋なので」
最後までそれで通すらしい。
でも、その変わらなさが今はひどく愛しかった。
澪が駅のほうへ歩いていく。
朔也はその背中を見送りながら、ふと気づく。
自分はもう、“欲しがられる王”でいたいわけじゃない。
女たちの視線の中心で、自分の価値を確かめたいわけでもない。
ただ、冬月澪の前でだけは、桐生朔也として立っていたい。
不細工で、卑屈で、下品で、最低で。
それでも少しずつまともになりたいと思っている男として。
その願いを、ようやく自分で認められた。
夜風が少しだけ冷たい。
でも、その冷たさは、もう空虚ではない。
歩き出す。
足取りは前より軽い。
王じゃなくていい。
誰かに祭り上げられる中心じゃなくていい。
たった一人の前で、自分の名前で呼ばれるだけでいい。
それが、桐生朔也にとって初めて手に入れた、ちゃんとした願いだった。
―――完
ここまで『醜男だった俺が、1:500の世界で王子と呼ばれるまで』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この物語は、ただ美醜が逆転した世界でモテる男の話ではありませんでした。
むしろ、その設定を使って、性欲に飢えた男が、自分の傷をどうやって間違った形で埋め、どうやってようやく一人の前でだけ誠実になろうとするのかを描いた話だったと思っています。
桐生朔也は、決して最初から好ましい主人公ではありません。
前世で傷ついていた。
だから仕方なかった。
そういう言い訳だけで済ませるには、彼はあまりにも下品で、あまりにも身勝手でした。
欲しがられる快感に酔い、自分もまた女たちを欲し、触れ、抱き、乱し、その反応で自分の価値を確かめてしまう。
かなり最低です。
でも、この物語で大事にしたかったのは、傷ついた人間は、綺麗なまま救われるとは限らないということでした。
むしろ一度、自分の醜さや性欲の汚さを自覚する。
そのうえで、ようやく「欲しがられたい」ではなく「自分が誰といたいのか」へ辿り着く。
その順番を踏んだからこそ、最後に朔也が澪を選ぶことに意味が出たのだと思います。
この作品は、ただのハーレムを作って楽しむだけの男の勝利譚ではありません。
ハーレムを終わらせて、ようやく一人を選べるところまで来た男の物語です。
少しでも楽しんでもらえたのならとても嬉しいです。
改めて、最後まで読んでくださってありがとうございました。




