エピローグ――引き止めない王
由愛の部屋は、驚くほど整っていた。
余計な装飾はない。
机の上には最低限の文具だけ。
ベッドはきちんと整えられ、カーテンは半分だけ閉じられている。
生活の匂いが、薄い。
その中央で、由愛はスーツケースを開いていた。
服が、静かに畳まれていく。
動作は淡々としている。
怒りも、悲しみも、表情には浮かんでいない。
ただ、決まったことを実行している顔。
「帰るのか」
俺はドア枠にもたれながら言う。
由愛は顔を上げない。
「うん」
短い返事。
「どこに」
「実家。ここを少し離れる」
スーツケースのジッパーを閉める音が、やけに大きく響く。
部屋の空気が、重い。
「理由は?」
分かっている。
それでも聞く。
由愛はゆっくりと立ち上がり、こちらを見る。
その目は、やはり揺れない。
「ここにいると、傷つくから」
透子と同じ言葉。
だがニュアンスが違う。
透子は“傷つきたくない”と言った。
由愛は“傷つく”と言った。
確信だ。
「誰がだ」
俺は問う。
由愛は少しだけ首を傾ける。
「みんな」
間。
「あなたも」
その一言が、胸に落ちる。
俺は笑う。
軽く。
「大げさだな」
由愛は笑わない。
「透子は傷ついた。ひよりも病んできてる。麗華は無理してる」
淡々と、事実を並べる。
「全部、あなたの周りで起きてる」
俺は腕を組む。
「俺が頼んだわけじゃない」
「そうだね」
由愛は頷く。
「でも、あなたは止めなかった」
止めなかった。
その言葉が、鋭い。
俺は視線を逸らす。
窓の外を見る。
遠くで女子学生たちが歩いている。
俺を見て、ひそひそと何か話す。
まだ、中心だ。
まだ、王だ。
「王様は孤独だよ」
以前、由愛が言った言葉。
今は続きがある。
「でも、孤独を選ぶかどうかは、王様が決めるんだよ」
部屋が静まり返る。
俺は、由愛を見る。
引き止めることはできる。
「行くな」と言えば、彼女は少しは迷うだろう。
だが、その言葉は。
王の威光を使うことになる。
迷わすことになる。
俺は、迷わない。
「好きにすればいい」
冷たい声だった。
自分でも分かるほど。
由愛の目が、わずかに細くなる。
悲しみではない。
確認だ。
「引き止めないんだ」
「引き止める理由がない」
言い切る。
その瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
理由はある。
分かっている。
だが口にしない。
王でいることを、優先する。
由愛は小さく頷く。
「そっか」
スーツケースを持つ。
ドアへ向かう。
すれ違う瞬間、彼女が止まる。
「ねえ」
顔を少しだけ近づける。
「いつか、本当に一人になるよ」
囁くような声。
「そのとき、王様でいる意味、考えられるといいね」
足音が遠ざかる。
廊下の角を曲がる音。
やがて、静寂。
部屋に残るのは、俺一人。
何も変わっていないはずだ。
十人のうち、一人が離れただけ。
構造は維持できる。
支配は崩れていない。
それなのに。
胸の奥に、はっきりと穴が空く。
透子が距離を置き。
ひよりが炎上し。
由愛が去った。
それでも俺は、王だ。
ランキングは1位のまま。
スポンサーも離れない。
契約も有効。
なのに。
夜の寮室は、以前よりも広く感じる。
スマホを見る。
通知は減っている。
騒ぎは一段落した。
静かだ。
あまりにも静かだ。
俺はベッドに腰を下ろす。
天井を見上げる。
王でいる限り、負けない。
そう思っていた。
だが今、分かる。
王でいるほど、誰も近づかない。
誰も本音をぶつけない。
誰も“俺”を見ない。
由愛の言葉が、静かに残る。
「傷ついてるのは、透子だけじゃないよ」
胸の奥に、明確な空洞が広がる。
優越は、もう甘くない。
陶酔は、薄い。
残っているのは、冷たい静けさ。
俺は目を閉じる。
王は引き止めない。
それが、強さだと思っていた。
だが今は。
それが、弱さに見える。
虚無が、静かに始まっていた。




