エピローグ 「王でいるほど、自分が遠のく」
その週の終わりには、部屋の静けさが前より少しだけ重くなっていた。
玲奈からの通知。
麗華からの短い文面。
紗良の管理めいた確認。
行きずりの女たちからの甘い余韻。
それらはまだ、ちゃんと嬉しい。
嬉しいし、見れば体も反応する。
玲奈の「会いたい」は相変わらず熱いし、麗華の静かな誘いはそれだけで喉の奥を熱くする。
紗良の近さだって、思い出せば妙に腹の底がざわつく。
でも、そこへ飛びつく前に、一拍だけ遅れるようになっていた。
少しだけ、考える。
この熱は何を埋めるのか。
誰を欲しがっているのか。
誰でもいいのか。
その一拍があるだけで、今までとは景色が変わる。
前なら、通知が来ればすぐ手が伸びた。
欲しがられることも、自分が欲しがることも、全部まとめて快楽へ沈めばよかった。
今は、その手前に小さな違和感が立つ。
それが鬱陶しい。
でも、無視しきれない。
◇
玲奈とは、そのあとも何度か会った。
会えば熱は戻る。
扉が閉まる音。
玲奈の香り。
「会いたかった」と言う声。
そこから先は、もう何度も体が覚えている。
玲奈は相変わらず、朔也の露骨な欲に弱かった。
胸元へ落ちる視線に赤くなり、首筋へ唇が触れるだけで呼吸を乱す。
押すつもりで来たくせに、押し返されるとすぐ嬉しそうに崩れる。
その反応は、やっぱり気持ちいい。
前の世界なら絶対に手が届かなかった女が、今は自分の腕の中で熱を持つ。
自分が欲しがれば、そのぶんだけ返ってくる。
その快感は本物だ。
でも最近は、その本物さのあとへ、少しだけ別の感覚が差し込む。
玲奈が眠ったあと。
シャワーの音が止んだあと。
帰り際に笑って手を振られたあと。
胸の奥に残るのは、満足だけじゃない。
何かが、ずれている。
「ねえ」
ある夜、玲奈がベッドの端で言った。
「最近、たまに遠く感じるの」
「は?」
「会ってる時はそうでもないんだけど」
玲奈はシーツを胸元まで引き上げたまま、朔也を見る。
「終わったあと、ちょっとだけ、目の前からいなくなる感じがする」
その言葉に、朔也は返事が遅れた。
見抜かれている。
全部じゃなくても、少しは。
「…そんなことないよ」
出た言葉は薄かった。
玲奈は少しだけ口元を歪める。
「その言い方の時は、だいたいあるやつ」
「何だよそれ」
「なんとなくわかる」
玲奈はそこで、それ以上は追わなかった。
追えば朔也が面倒くさくなることを、たぶんもう知っている。
その優しさが、今は少しだけ痛い。
◇
麗華とも、何度か会った。
麗華は相変わらず、高かった。
服も、部屋も、香りも、言葉も。
それら全部が整いすぎていて、そこへ自分の欲で皺をつけることに、朔也はまだ強く酔った。
喉元。
肩。
脚線。
上品な女が、自分のせいで声を乱すこと。
その優越は、玲奈とはまた違う種類の快感だった。
“こんな女を自分が下ろしている”という、あまりにも下品な満足。
でも麗華の前では、その快感のあとに来る冷えが、少しだけ自覚しやすかった。
なぜなら麗華は、熱のあとにも崩れきらないからだ。
服を整える。
髪を戻す。
呼吸を静める。
そして、少し微笑んで「お水をどうぞ」と言う。
その切り替えの美しさに、前は妙な征服欲を煽られていた。
今は、そこへ別の感情も混じる。
ああ、この女もまた“九条麗華”へ戻っていくんだ、と。
自分だけが、熱の残骸を抱えている気がする。
「今日は静かね」
ある夜、麗華がグラスを置きながら言った。
「何が」
「あなたよ」
朔也はソファへ沈んだまま、何も言わなかった。
「前までは、満たされた顔をしていたわ」
「今は?」
「別のことを考えている顔」
その指摘は、たぶん正しかった。
考えたくないのに、考えてしまう。
満たされたはずなのに、なぜそのあとで少し寒いのか。
どうして、どれだけ熱い時間のあとにも、静けさだけが残るのか。
「…つまらないかしら?」
麗華が聞く。
「は?」
「わたくしが」
少しだけ冗談めいた口調。
でも目はそうでもない。
朔也はそこでようやく顔を上げた。
「つまんなくはない」
「それならいいの」
麗華はそれ以上は追わない。
でも、その“不問にする優しさ”も、今の朔也には少しだけ重かった。
◇
紗良は、最後までいちばん近くにいた。
近くにいる時間が長いぶん、たぶん変化にも一番早く気づいていたのだと思う。
「最近、誰にも飛びつかなくなりましたね」
ある夜、リビングで書類を見ながら、紗良がそんなことを言った。
「飛びつくって言い方やめろよ」
「事実です」
「またそれか」
朔也はソファの背へ頭を預ける。
スマホには玲奈からの通知。
テーブルには麗華から届いた封書。
少し前なら、そのどちらも同時に開いていただろう。
今は、どちらもまだそのままだ。
「疲れたんじゃないですか」
紗良が言う。
「何に」
「快楽に」
その一言が、妙に刺さる。
快楽に疲れる。
そんなことあるのかと思っていた。
でも今は、なくはないのかもしれないと思う。
体は欲しがる。
でも、心が少し遅れる。
そのズレが積もると、たしかに疲労に似たものになる。
「…お前は」
朔也が言う。
「何でそんな平気そうなんだよ」
紗良の手が止まる。
「何がです」
「全部」
曖昧な問い。
でも、言いたいことは自分でも少しわかっていた。
玲奈は熱で来る。
麗華は囲いで来る。
名前のいらない女たちはもっと単純な欲で来る。
紗良だけは、ずっと“必要だから”の顔をして近くにいる。
その近さが、時々ひどくずるく見える。
「平気に見えるなら、そう振る舞っているだけです」
紗良は淡々と答えた。
「そういうの、一番ずるい」
「便利な言葉ですね」
「お前が言うな」
返してから、少しだけ笑いそうになる。
こういうやり取りが残っているあたり、まだ完全には壊れていないのかもしれない。
◇
そして、冬月書房にはそのあとも何度か足が向いた。
理由はうまく説明できなかった。
欲があるのかと聞かれれば、ゼロではない。
澪の首筋や肩の線を見れば、男としての視線が落ちることもある。
指先が触れれば、やっぱり少しは反応する。
でも、そこから先へ行かない。
澪も行かせない。
朔也も、なぜか無理にそこを壊したくならない。
そのことが、今までの女たちと決定的に違っていた。
「また来たんですね」
澪はいつも通り言う。
「悪い?」
「別に」
その素っ気なさが、前は少しだけ腹立たしかった。
今はむしろ、そこがちょうどいい。
棚の前で立ち止まり、本を眺める。
澪が近くを通る。
紙の匂いと、ほとんど香水のしない空気。
「今日はまだ静かですね」
澪が言う。
「まだ?」
「そのうちまた、うるさくなりそうなので」
「何だよそれ」
「顔色が少し戻ったので」
顔、か。
またそれだと思いながらも、ここではその言葉に苛立たない。
たぶん、澪は見ても奪おうとしないからだ。
そこが、今の朔也には妙にありがたかった。
「…お前、性欲とかないの」
ある日、ついにそう聞いてしまった。
澪は本を戻す手を止め、少しだけ考えるように視線を落とした。
「ありますよ」
その答えに、朔也はほんの少しだけ驚く。
「あるんだ」
「人並みには」
「じゃあ何で」
「何で、何ですか」
「…俺を求めないんだよ」
聞いてから、自分で顔が熱くなる。
何だその言い方。
どれだけ自意識過剰なんだ。
でも澪は笑わない。
「求めてほしいんですか」
静かに返されて、今度は本当に言葉に詰まる。
来てほしいのか。
欲しがられたいのか。
触れてほしいのか。
たぶん、少しはそうだ。
少なくとも“何とも思われていない”のは、妙に引っかかる。
けれど、それを認めたら何かが壊れる気もした。
「…わかんない」
結局、それしか言えなかった。
澪は少しだけ目を細める。
「そういう顔、前より増えましたね」
「何だよそれ」
「わからない顔です」
そして、それ以上は踏み込まない。
その“踏み込まなさ”の前でだけ、朔也は自分がまだ人間の形を保っている気がした。
◇
ある夜、部屋へ戻る。
スマホには通知が並んでいる。
玲奈。
麗華。
ひな。
美優。
名前だけ見ても、もうどういう熱なのかだいたい想像できる。
少し前なら、それが気持ちよかった。
今も、ゼロではない。
でも、その並んだ通知を見て最初に思い浮かぶのが、冬月書房の静かな棚になっている。
それが、朔也には一番意味がわからなかった。
欲しがられることは、まだ嬉しい。
女の体も、まだ欲しい。
それは間違いない。
でも、王として囲まれている時間が長くなるほど、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていく気がする。
みんなが欲しいのは“希少な男”であって、“桐生朔也”そのものではない。
そして自分もまた、みんなの体や反応を欲しがるばかりで、“その女”をちゃんと見ているとは言いがたい。
その両方が重なった時、妙に寒い。
スマホを伏せる。
部屋は静かだ。
前なら、その静けさを怖がって、すぐ誰かの熱へ逃げた。
今は少しだけ、その静けさに留まっていたいと思う。
「…俺がほんとに会いたいの、誰なんだろうな」
独り言が落ちる。
答えは、たぶんもう出ていた。
でも、それを今ここで認めてしまうと、朔也が溺れてきたもの全部が、一気に意味を変えてしまう気がした。
だから、まだ言葉にしない。
ただ、通知の並ぶ画面を裏返したまま、朔也はしばらく目を閉じる。
女たちの熱はまだそこにある。
欲もまだ消えていない。
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