自己中心的な愛
ちょっと長めになったので年末年始のまったりタイムにどうぞ。
カイルはカーテンの内側に入ったところで止まった。ベッドのサイドテーブルに『アズティス・カースエリス』様宛の手紙がある。マルティーク大聖堂の封蝋がしてあった。アズティス本人がこの状態だから、未開封のままだ。
アズティスに侍る二位は、その場でカイルに目礼した。
「聞いたとは思うんですけど、学園の降誕祭がなしになるかもって。教官たちが会議してて」
「そうか」
カイルにとっては知らなくてもいい情報だった。
「毒に関しては保護者にも連絡が行ってます。でも今回の……これはデリケートな問題だから、被害者が目覚めるまでは表沙汰にするかの判断ができないって。醜聞とか考えると、って。忘れてましたけどアズティス先輩、貴族なんですね」
「これでも間違いなく貴族だ」
しきたりを重んじるきらいのある貴族は、いまも令嬢の純潔を重要視する。学園側も配慮してくれたのだろう。婚約関係にあるカイルが気にしないと言っても、ただでさえ難しい立場にいる彼女にどんなレッテルが貼られてしまうか。考えただけで、腹に錘が落とされた心地になる。
それはそれとして。
この機会だ。カイルはアズティスを視界に入れながら、二位に問う。
「妖精が二位を呼んだらしいな」
「……はい」
覇気のない返事だった。
落ち込んでいるようだが、慮ってやれるほどの余裕はない。
「妖精は彼女と契約しているくせに、俺を嫌っている。元々、人間にはあまり近づかない」
「なんの話です?」
「妖精が二位を呼んだということは、飼い主であるアズティスか妖精共が、二位を仲間と認識していることになる」
「はあ、そうですか」
「アズティスは人に興味がない。彼女の世界には俺と母親と妖精しかいない。特別に嫌いなものを除いて、他はすべて一括りだ。俺とのテーブルに、自分から誰かを招き入れたことはなかった」
――だが、例外ができた。
そこまで聞くと、二位もカイルが示す意味がわかりかけてくる。
二位は無言でカイルを見た。
カイルも二位を見た。
「レナ・チェルティ。お前は何者だ。なんのために彼女に近づいた?」
二位と出会ってから今日に至るまで、秘めていた疑念だった。たくらみがあるなら、ここで明らかにしたかった。
そんなカイルの態度に、二位は背筋を伸ばした。アズティスの手を離して応戦する。
「ごく普通の学生ですけど。なんでそんな疑ってる風なんですか」
「アズティスの懐き方があまりに不自然、かつ、お前が教会の者だからだ」
「教会の? ……カイル先輩は反精霊派でしたか? それとも精霊過激派?」
「精霊に与するものは信じない。精霊そのものに恨みがある」
二位は止まった。
艶のある低音はいつもの調子なのに、底知れぬ感情が込められている。
直截的な物言いはカイルの性分で、普段から意識などしていない。けれどいま精霊への恨みをはっきり肯定したのは、あえてのことだ。笑いごとではない意思が含まれているのだと、二位は確信する。
カイルは「昔話をしよう」と前置きをした。
アズティスとの思い出話だ。
「ある事情で、彼女を他国に連れ出そうとしたことがある。名前も立場も国籍も変えてやれば、彼女は『セツィア国のアズティス』でなくなると考えた。三級生の時だ。何故かは言えない。とにかく彼女が、時の精霊の目から逃れることができればと思った。火でも水でも、他の精霊の支配下に入れればと」
およそ二年前。アズティスが十六か、十五歳の頃。カイルが彼女の『事情』を知った直後。
当時からして、二人の実力は正規の魔術師にも引けを取らないほどだった。他の土地でも生きていけると思った。二人でなら。
他の国にも精霊はいるけれど、時の精霊のお膝元であるセツィア国から離れられればそれでいい。
追手がつかず、海も超えられて、移動が楽な手段。――空路を選んだ。
二人が乗っても安全に飛行できる巨大な竜に目を付けて、カイルはそいつと契約をした。
「それって」二位の頭に、つい先日見た黒い竜が思い出される。
「彼女と逃げるために、黒竜を手に入れた」
その竜には以前から目をつけてはいたが、逃亡こそが決意のきっかけ。
何本の骨が折られようと、どんな火傷を負おうと。黒竜が納得するまで戦い続けて、何度の夜を越えたかわからない。最後は意識が朦朧としていたし、今も黒竜を完全に御しきれているとは言えない。契約できたのは、黒竜がカイルの魔力を気に入ってくれたことと、ただの気まぐれだ。
それで良かった。
――外にさえ出てしまえば。
幸いこの国は中つ海に面している。学園から出て少し山を越えて、港湾都市『ヴェルス』を通過すれば、もう海だ。
すぐに出られるはずだったのに。
「だが出られなかった。一定の海域を越えようとすると戻される。透明な壁を抜けたら目の前にはこの国があって、何度試しても戻ってしまう」
そして二人は海上で、夜明けを茫然と眺めていた。
太陽が昇る。夜に紛れていた黒竜が白日に晒される。
波のきらめきに嘲笑われているようだった。
――いいよ。
その時の彼女の声は覚えている。
落ちないように背中に抱き着いていた彼女が、申し訳なさそうに言うのだ。
――もういいよ。ありがとー。
彼女は、自分がこの国から出られない事実を悟って。
いたずらに希望をちらつかせただけのカイルは、彼女を救えないのだと骨の髄まで理解してしまって。
当時の自分の愚かさを、カイルはいまも悔いている。
「今にして思うが、逃亡など企てるだけ無駄だった。こうして時間が流れて、昨日も明日もある限り、世界は時の精霊の支配下だ。水や火など目に見えるものとは一線を画す、概念とも言うべきもの。その精霊が、彼女から自由を奪う」
この世のすべてから見捨てられたようだった。
「俺は精霊をそういうものだと思っている。私怨こそあれ、信仰心は欠片もない。そんなものを信仰している教会も、俺にとっては敵でしかない。マルティーク育ちであるお前には悪いが、彼女に近づいてほしくないというのが本音だ」
「よくわからないんですけど、逃げられなかったっていうのは、本当に精霊様のせいなんですか?」
「俺だけで試したところ、問題なく他国に行けたからな」
「…………。」
「何者かの結界とも考えにくい。他人が張った結界の解除は俺も彼女も心得ているが、そもそも結界らしきものを知覚することすらできなかった。地続きの隣国に行くにも、彼女だけには何らかの妨害がある。あれは異常な現象だ。なにより彼女の『事情』は精霊に関連するものだ。精霊がすでに彼女に目をつけていると考えれば説明がつく」
精霊はアズティスに対してあまりに無情であり、警戒するに越したことはない相手だ。精霊を崇拝する教会など怪しさしかないと、カイルは吐き捨てた。
二位を、初めから不審人物と認識していた。教会の者だとアズティスに報告までしたのに、彼女は二位を一度も突き放すことなく受け入れた。好感度が高い。常の彼女を知っていればこそ、異常だとわかる。
教会の手のものがなんらかの手を打って近づいてきたとしか、カイルには思えなかった。
二位もカイルの言い分を受け止めて、深く考える。
亡命を実行に移しかけたほどの、アズティスの『事情』。時の精霊への恨みつらみ。
一級生トップ2がまとう静寂は、性格ゆえとばかり思っていたけれど、ここに至るまでの物語があったことをいま知った。
きっと鮮烈で、切実だったはずの物語。それはすでに終わっている。二位が知るのは清々しくも寒々しい、後日談のような彼らだけ。
彼らをそこまでどん底に落とす事情なんて、二位の頭にはひとつしか思い浮かばない。
「もしかして」二位は躊躇いがちに「先輩は、精霊の生贄を知っているんですか」
現在の最有力候補としてアズティスが挙がっていることを、知っているのか。
問われたカイルは軽く目を見張った。すこし視線を外し、すぐに頷いた。
「知っている。……だからお前は彼女に近づいたのか。なんの目的があって――」
「違います。たしかに知ってしまいました、けど。でもそれは先輩たちのテーブルに招かれてずっと後のことで、本当に偶然だったんです。変な考えはありません。精霊様に誓って、……っ」
そこで二位ははっとして、
「……わたしは個人として、アズティス先輩が好きです。先輩がどうしてわたしなんかを気に入ってくれたのか、本当にわからないんです」
あの日、お茶会に初めて招かれた日。
二位だって、接触しようと思ってそこにいたわけではないのだ。今に至るまでずるずる付き合って、そうして離れがたくなった。
そんな二位の説明のすべてを信じきれないまでも、責めはしない。カイルは何も言わない。改めてアズティスの傍に寄って、彼女の頬に触れた。
こっちの気も知らないで、妖精じみた寝顔が憎らしい。
これで話は終了と思ったのはカイルだけで、二位は釈然としない顔で「カイル先輩は、」
「アズティス先輩のこと好きなんですよね」
頬を撫でていた指が、ぴたりと止まった。
カイルは微かに嫌そうな顔をする。
「俺と彼女の問題に踏み込むな。お前には関係ない」
「こっちはアズティス先輩と同性の絆みたいなもんができてるんですけど? 関係って言うなら、心配する権利みたいなやつ? 当たり前にあるんですけど? 消灯後も先輩のお部屋でお話するくらいには仲良しさんですけど? ど? ど~~?」
「お前がアズティスとどれだけ仲良くなろうと、俺には事情をさらす義務はない」
「わたしだって、カイル先輩を疑おうと思えばいくらだって疑えるんですよ。先輩がなんでそこまでこの人を追いかけまわしてるのかって考えたら、怪しさしかないです。ちょっとくらいの説明義務はあるんでは? そっちの質問には答えたんだから、こっちにも答えてくださいよ」
「…………。」
「好きじゃないなら、どういうつもりで傍にいるんですか。ただ尽くしたいってだけじゃ婚約までしないでしょ普通」
一拍して、
「心臓に毛が生えていると言われたことはないか」
「その『俺にここまで歯向かう女がいるとは』みたいな顔やめてもらえますか心底腹が立つんですけど」
「アズティスにもここまで言われたことがない」
「そういうのいいんで。わたしだって言うべき時にしか言いませんので。ほらお答えは?」
二位の連撃に、カイルは眉根を寄せて黙り込む。その一瞬で勝敗は決していて、やがて彼は息を吐いた。
「同じようなことを、マリアベルにも聞かれたことがあるな」とぼやきつつ、
「恋愛感情という意味の好きなら、違うだろう。周囲から見れば誤解されることもあるだろうが――」
認めることが心底悔しいという顔で、たっぷり三十秒は置いて、
「……触りたいと思う時はある」
「うすうすわかってましたけどやっぱり危ない方ですか?」
「彼女も俺に触られるのは好きだから問題はない」
もうあんたら付き合っちゃえよ、という二位の視線にも、カイルは動じない。
ヴェルラード・ロストンにマウントを取ったときは、彼女への支配的な欲望のみを表した。それ以外の想いだって、もちろんある。
丁寧に甘やかしたいし、お世話がしたいし、気に入られたいし、健やかでいてほしい。そうでなければ彼女に十年も尽くせない。なにより悪辣な想いだけなら、とうの昔に敵とみなされて避けられてしまっていただろう。
「この女は俺を捨てた。一度捨てられた身でありながら、愛だの恋だの、……そのような感情を抱くなど、それこそ負けたようなものだ。趣味が悪すぎる。これは母親がどうという前に天然の悪女だ。飢えた野良犬に餌と寝床と役割を与えて、自分こそが主人だと教え込んでおいて他者に譲るなど、心があるのかすら疑わしい」
「すんごい喋る……」
「俺は絶対に認めない」
「好きなんじゃん」
「林檎の皮の薄さ程度の可能性ならあると思う」
「なんて強情な」
「彼女が相手であれば一般的な恋人同士がすることもできる、と思う。他の人間にはまずできない」
「確定すぎる……」
「だが彼女が俺以外を選んだ時は、それも……最終的には受け入れてしまえるだろう」
二位は困惑した様子だ。
カイルはあくまで本心だ。彼女に害をなさないなら、彼女が誰を相手にしてもいい。
彼女が望むなら。彼女が満足してくれるなら。残された人生を心置きなく生きてくれるなら。
「ただ」
けれど譲れないものはある。
「彼女が誰と恋をしても、最期に看取るのは俺がいい」
一言に集約された願望。結局はそれだけなのだと思う。
――欲を言えば、多少の甘噛みは許してほしいけれど。
窓の外で、ささやくような雪が降っている。
「誰かが彼女を幸せにするなら、それでもかまわない。彼女が今際の際に満足そうにしていて、それを俺が確認できればいい」
ありがとうも、幸せだったも、要らない。
最期は無言でいい。穏やかに、傍に信頼できる誰かの気配を感じながら、安心して目を閉じてほしい。
なんて。
捨てられた忠犬が、それでも手放せなかった矜持。このたった一つが、己が身を地に沈めてしまいそうなほど重い。
「そんな考えで傍にいるだけだ。愛だの恋だのというには中途半端で、なにより自己中心的だろう」
「それって」二位は飛び出しかけた言葉を、んぐ、と閉じた。
席を立って戻りますと言い置いて、そそくさと去っていく。カイルはその場に留まって、一晩は彼女の傍にいるつもりだ。二位のことは、もう意識の外だった。
だから二位が医務室を出る直前につぶやいた「愛ってやつと、なにが違うんですか」なんて言葉は、全然聞こえていなかった。
頭をやさしく撫でられる感触で、カイルは目を覚ました。
彼女のベッドに突っ伏して寝ていた。体中が強張っている。疼痛もある。ただしい体勢で眠らないと、疲労は解消されるどころか節々に凝り固まってしまうのだ。
身を起こしたいけれど、そうすると撫でてくれている手が離れてしまうから、なかなか動けない。
これでは自分が甘えているようだ。
カイルがやきもきしていると、くすくすと耳心地の良い笑声が聞こえて、
「こら。目覚めたんならすぐ起きる」
言われて、仕方なく起き上がる。背筋が鈍い音をたてた。
薄青い夜明けの光の中、上半身を起こしたアズティスが手紙を読んでいた。
透き通るような瞳はぱっちりと冴えていて、カイルより幾分か早めの時間に起きていたのだろう。
「マルティーク大聖堂からの手紙。読む?」
声のざらつきは、喉の渇きと、毒に焼かれたからだろう。
「お前に宛てたものだろう」
「読まれて困るものじゃないし。興味ないならいいよ」
カイルは便箋を受け取って、読んだ。他人の手紙を読むのは失礼ではあるけれど、アズティスがいいというのだから、読んでほしいのだろう。
供犠大審判――時の精霊へ捧げられる人間を決める選定会議――において、候補として挙げられる十三人にアズティスが入っていること。
式典の開催は十二月二十四日だが、候補全員への説明や歓待をさせてほしいため、三日前にはマルティーク大聖堂に到着してほしいこと。
この手紙を候補者のしるしとして、必ず持参すること。
同伴者は一人まで。十五歳以下は必ず保護者を連れてくること。
身一つで構わないこと。
服も食事も、すべて大聖堂側が用意すること。
これは試験ではないので、安心してほしいこと。
とても名誉な立場だということ。
以上の内容が、神経質な文字で書かれていた。
「マリアベルにも届いてるかな」
「だろうな」
「君には? 君の魔力もすごいから、もしかしたら来てるかも」
「後で寮に戻った時に確かめる」
「そか。……シャワー浴びたい。ちょっと行ってくる」
肌をこまめに拭かれてはいたけれど、やはり気になるらしい。学舎内で生徒が気軽に入れるシャワールームは一級生用の研究室にしかないから、そこまで行くつもりだ。
カイルが彼女の足元にスリッパを用意すると、彼女は礼を言いながら足を入れた。
数日ぶりに立った彼女は「床ってこんな硬かったっけ」と笑いながら、
「ん」
手を差し出してきた。
令嬢がエスコートを求めているにしてはぶっきらぼうだった。
「起きたばっかりだから、うまく歩けないかもしれない。転ぶかもしれないから、あの……」
かすかに目を逸らしながら、頬を赤らめてそんなことを言われれば、カイルもその手を取らないわけにはいかなかった。
アズティスは、毒を飲んだ後の、カイルの取り乱し方を覚えているのだろう。心配をかけた罪悪感でしおらしくなっている。
だからカイルも、無言の謝罪を受け取った。
医務室を出て、二人きりで手をつないで、廊下を歩く。
遠くからぼそぼそと聞こえるのは、生徒の類をみない凶行と対応に頭を抱える教官たちの声だ。学園には貴族が多く在籍しているから、体面を気にする学園側の何人かが、胃に穴を空けているかもしれなかった。
隣のアズティスこそが当事者なのに、彼女といるだけで、すべてが遠い世界のことのように思えた。
やがて朝がやってくる。
学園は降誕祭の予定を中止し、冬季休暇を早めることにした。
来学期の開始は少々早まるけれど、例年よりもひと月分は長くなった休暇に生徒は悲喜こもごもといった様子。学生の半数は帰省した。特に熱心な上級生は寮に残り、独学と宿題に専念している。
昼日中の、常よりも静かな女子寮。アズティスの部屋で、二位が滝のように泣いていた。
「し゛ぇ゛ん゛は゛い゛~~っ!」
「はいはい、落ち着いて」
アズティスは医務室から出られたはいいもの、カイルと周囲の気遣いにより、ベッドの住人でいる。
その肩や頭に五匹の妖精を乗せていて、それぞれがカイルを威嚇していたり、二位に「よっ!」という雰囲気で挨拶らしきものをしていたり、くつろいでいたりしている。
普通の妖精は人間の前にやすやすと現れないけれど、二位もいいかげん一級生の特異性には慣れてきている。
「まだ体つらいんじゃないですか? まだお見舞い早かったかな、なんかあったらすぐ言ってください。お茶でもおやつでも用意しますから」
「ありがとー。でもカイルがほとんどやってくれるから」
「…………。」
無言になる二位の横から、ぬっとカップが差し出された。
「ドライアップルとドライパインのフルーツティーだ。茶葉はキャンディを使用している。時間を置くほど甘味が出る。苦手なら無理はするな」
「……ありがとうございます。いただきます」
悔しいけどおいしそう、と複雑な顔をしている二位の目の前で、今度はアズティスにカップが渡される。
ありがとー、とのんきに礼を言う彼女に、カイルはほんのり微笑んだ。彼はシャツとセーターのシンプルな重ね着で、初めからこの部屋の住人ですみたいな顔でいる。
ここは女子寮だけれど。
「なんでカイル先輩いるんです?」
「私のお世話に。心配で死にそうみたいな感じだったから。ちゃんと教官にも寮母にも許可取ってあるし、今日だけだから。ごめん」
出入口と、女子寮のキッチンと、アズティスの部屋への往復路しか認めないという条件付きだ。昼から夕方までという時間制限もある。
半数以上の女子生徒が帰省してしまっているし、二人は婚約者同士ではあるし、なにより学園側から二人への負い目もあって、残っている各部屋の女生徒に確認もとって、特例が認められたのだった。
女生徒の間でも食堂での惨状は広く知れ渡ってしまっていたから、ぜひとも傍にいてあげてくださいといった反応だったらしい。
アズティスはフルーツティーを飲むと、「やっぱりカイルのが一番おいしい」とうなずいた。
「――で、大体のことは聞いたよ。君には助けられたみたいだね。ありがとー」
「え、……あ、あの……はい……」
「にしてもロストン伯爵家か。ちょっと聞いたことがあるよーな、ないよーな。よくノアイユ家次男の婚約者に手を出せたものだよ」
アズティスが軽々と、「馬鹿なのかな」なんて語彙レベル六歳男児の悪口を言う。飄々としていて、襲われかけたことへの恐怖や嫌悪が見られない。
二位は拍子抜けして、「はあ」と「そうですね」しか返せなかった。
「それときみ、私が時の精霊の生贄候補って知ってるんだって?」
「……っ!」
二位は思わず振り向いて、カイルを見た。
彼はうなずくのみ。彼がアズティスに話をしたのだ。
「あのっ! 知ってますけど、だから先輩に近づいたとかじゃなくって、だから……っ」
「いいよ、わかってる。……助けてくれた君にはお礼をしなくちゃね。なにかしてほしいことはある?」
急にそんなことを言われても思いつかない二位は、保留にしてもらうことにした。
そして妖精が、わっと騒ぎ出す。アズティスの服をつんつん引っ張って訴えている。
「どうしたんですかね」
「二位を呼んでくれたのは彼らだから、自分たちもなんか欲しいって。妖精はわりと貪欲なんだ。……カイル、そこの試験官立ての中から、『E』のラベルのやつ取って」
「わかった」
ほどなくカイルは、該当のものを見つけてアズティスに手渡した。
コルク栓がしてあって、中には乾燥させた小さな赤い実が、半分ほど詰まっている。アズティスは五粒を取り出して、妖精たちにひとつずつ与えて報酬とした。「これ、妖精にとってのごちそうなんだ」と。
見ていた二位は、
「これってもしかして、エレオノールの木の実ですか?」
アズティスはすこし黙り込み、
「エレオノール?」
「あれ、違いました? でも、間違いないです。美味しいんですよね」
「食べたことがあるのか? 人間には毒のはずだけど」
「摘んですぐは食べられるんです。って言われたので、普通に食べちゃってました。ぷちぷち摘んで、三十秒以内には食べることにしてます。だからお腹壊したこともないですよ」
「…………。」
「先輩?」
コルク栓のされた試験管には『E』とある。
だから『エレオノール』で間違いないと二位は思っているのに。アズティスははっきりとした答えをくれない。
カイルも不思議そうに、彼女の様子を見守っていた。彼の得意な契約魔術にはまったく出てこない、知識の範囲外の赤い実。
アズティスは慎重に、再度問う。
「この実はエレオノールの木ってやつの実で間違いない?」
「はい、そう聞きました」
「聞いた? 誰に……いやその前に。摘んですぐに食べたってことは、君はこの木がはえている場所を知ってるんだね?」
「知ってますけど。マルティーク大聖堂に」
「マルティークか、どーりで見つからないはずだ」
声が、珍しく高揚していた。
二位もカイルも、アズティスがなにをそんなに興奮しているのかわからない。
「妖精界隈で、この実は希少価値がものすごいことになってる。味も魔力も成分も、まるで妖精のために作られたような実で、相性がとってもいいんだ。でもあんまりに出回らなくて、私も暇な時に探してたんだけど見つからないし、過去の文献を漁ってみても、『E』の頭文字以外の手がかりはなにもなかった。……カイル、そこの棚の『妖精俯瞰総集編』」
カイルは速やかに本を探して、手渡した。
アズティスは後ろから数ページを捲った。
どこかの木の実と葉が、細い線でスケッチされている。実を食べる雌妖精の絵もあった。傍に『E』と記されている。
「この葉っぱとか、見覚えある?」
「え、エレオノールの木……です。葉っぱの感じも間違いなく」
「そか。……となると」
アズティスは突然、二位の頬に触れた。
「うひゃわぁっ!?」
慌てふためく二位にかまわず、首筋をたどり、腕に触れ、かと思いきや「失礼するよ」と鎖骨のあたりにも手を這わせ、腕を回して背中にも触れた。
カイルの視線が突き刺すような鋭さになったけれど、アズティスは気づいてすらいない。
最終的に彼女の手は、二位の心臓あたりで止まった。魔力の核を探られているなんて夢にも思えない二位は、ただ先輩の暴挙を受け入れる。
やがてアズティスは「なるほどね」と、訳知り顔でつぶやいた。
「私は他の生徒よりきみを気に入ってる。なんでだろって思ってたんだけどさ、きみ、妖精の気配に近いんだ」
「……へ?」
ようせいにちかい。……え、何語?
二位は妖精なんて優雅そうな生き物と関わったことなんて人生で一度もないのに――もちろんアズティス関連を除いて――、そんな生き物と近いとは何事だろう。本気でわからない。
よりによってカイルに助けを求めてしまうけれど、彼も「は? これが?」という顔でいる。
アズティスは目を輝かせている。
「思えばきみが地下に落ちた時も、私の妖精はきみを察してた」
――あずてぃすのおともだちがいるよ?
――げんきなこ あかるいこ にばんのこ
塩湖が崩落したとき、アズティスの妖精は地下深くに落ちてしまった二位の気配を察知していた。当時は緊急事態に流されて疑問にも思わなかったけれど、いま考えれば、妖精との関連性の布石だ。
そうは言われても、二位はなんのこっちゃである。
「どういうことです? 妖精って、それはむしろ先輩みたいな人のこと言うんじゃ……?」
「妖精に近いっていっても、私とは違うよ。きみのは後付けされた気配だ。たぶんきみ自身の気性や体質に影響はないし、定着もしてない。けど妖精にとっては好ましい気配だし、いい匂いもする。エレオノールの実から滲んだものかな?」
ようやく満足したのか、手を離した。
「それで、この実が食べられるなんて、誰が君に教えたんだ?」
「誰……?」
そういえば、誰だっただろう。
考えると、二位の頭の中で、ぱし、と何かが割れた。白黒だった視界が鮮明に色づいたような、脳の奥の使っていなかった部分が急に稼働し始めたような、不可思議な解放感。
エレオノールの木。
東の国の『サクラ』と形状は一緒で、色だけが正反対の、薄い青色の花が咲く木だ。
夏季になる赤い実を、ぼへあと呆けて眺めていた六歳の二位に、
――『食べてもいいですよ』
そう言ったのは、たしか。
「……金髪で、……青っぽいような……金色の……不思議な色の目の、」
若い男の人だった。
――かち、
国中に点在する、時の精霊を模したステンドグラス。
その手に持つ懐中時計が『Ⅹ』を指した。




