07.5
薄暗い空間を、無数の黄緑色の光が満たしている。床から壁を繋ぐ柱のように取り付けられた実験用の培養器から漏れ出すその光は、中に浮かぶ様々な形状の物体を鈍く照らし出している。
そのねっとりとした空間の中に、一人の女が佇んでいた。女の年齢は20代前半といったところか、袖の長い白衣に身を包み、髪は肩口でバッサリと切り揃えられている。美人なのだろうが、趣味の悪い黒縁眼鏡と、生気が抜けたような灰色の瞳のせいで、その美貌が台無しになっている。女の前には、濁った黄緑色の液体で満たされた一つの培養器があり、その中に、膝を抱えた人らしきシルエットが浮かんでいる。
しかし、それは決して人と呼べるものではではなかった。全身には鱗のようなもがびっしりと並び、その1つ1つの鱗の間を、毛細血管のような濁った赤色の線が走っている。手足の先はまるで刃物のように長く鋭い鉤爪がついており、臀部からは先の尖った短い尻尾が生えている。頭部と思わしき部分に眼球はなく、剥き出しの長い犬歯が獲物を求める猛獣のように鈍く光っている。
「これも失敗ね」
女はそう呟くと、培養器の下部のコンソールに並ぶ無数のボタンの内、一番右下の赤いボタンを押した。すると、培養器の電源が落ちたのか、濁った黄緑色の液体が、たちまち光を失っていく。呼応するように、浮かんでいた生物から、みるみる内に生気が無くなっていく。
女はそんなことには眼も向けず、踵を返して歩き出す。無数に立ち並ぶ培養器の間を通り抜け、目的の扉に辿り着くと、どこからともなく取り出したカードキーを、ドアノブの横に取り付けられた液晶型のカードリーダーにかざす。ピーっという機械音と共にロックが解除され、扉がゆっくりとスライドする。女は要済みになったカードキーを床に捨て、扉へ入っていく。
扉の先は、コンピュータの液晶モニターで壁一面が覆われ、床を大小様々な機材で埋め尽くされた大きな部屋だった。たくさんの機材がひしめく部屋の中で、女と同じ白衣を着た10人ほどの人間が、それぞれのコンピュータデスクに座ってキーボードを叩いている。明かりはコンピュータの画面のみのせいで薄暗く、数多の機材の熱で部屋は真夏日のように熱せられていた。
「お疲れ様です、主任。どうぞこちらへ」
白衣を着た一人の若い青年が女を迎えた。青年は女を部屋奥に取り付けられた大きなデスクの前まで誘導すると、自分のデスクへと戻っていく。
「試験体の現在位置は?」
女がそう訊ねると、壁際に取り付けられた大きなデスクに座っていた中年の男が、振り向かずに答える。
「試験体は現在、門を抜け、北北東に進行中。あと5分ほどで目標座標に到達します」
男がそう言いながらキーボードを叩くと、壁に取り付けられたモニター画面が目まぐるしく変わっていく。
「よし。目標地点に到達後、試験体のリミッターを解除。同時に、試験体の潜在魔力量の9割をカット。真矢はうまくやってる?」
女が再び訊ねると、数多のモニターの一つに、青いマフラーを首に巻いた一人の少女の姿が映し出された。少女は住宅街の路地裏に身を潜めながら、少しずつ北北東へと進んでいる。
「真矢は現在、試験体とほぼ同じ速度で目標座標に移動中。魔法省には気づかれてはいないようです」
男がキーボードを叩きながら答える。
「よし、あとは予定通りに計画を進めなさい」
女はそう言ってその場を立ち去ろうする。と、
「主任、目標座標に接近する大きな魔力反応を二つ確認。魔法師と思われます」
キーボードを叩く男が変わらぬ口調で報告する。すると、女の表情が一変し、死んだような灰色の瞳に危機感が宿る。
「魔法省に感知されたのか?」
「いえ、魔法省にそのような動きはありません。おそらくは偶然かと」
「その魔法師、識別できる?」
「少々お待ちを.....一名は佐ヶ宮家の長女、佐ヶ宮咲と断定。もう一名は.....識別できません。モニターに映します」
男がそう言うと、モニターに住宅街を歩く少年と少女の姿が映し出された。何やら少年が忙しなく辺りをキョロキョロと見回している。
それを観た女は、人の悪そうな笑みを浮かべて言う。
「なるほど。佐ヶ宮家のお嬢様がダムレクトのお掃除とは、魔法省も随分と人手不足のようね。それで、もう一人の少年のほうは?」
女が薄笑いを浮かべながら訊ねると、男はキーボードを叩きながら答える。
「...やはり、識別不能です。魔法省の人間でないどころか、魔力の性質も全くの不明。完全にイレギュラー因子です。このままでは実験を妨害される恐れも...」
男の口調に初めて警戒の色が見え始める。しかし、女は薄笑いを浮かべたまま、愉快そうに言った。
「いいえ、実験はこのまま実行するわ。真矢にはきちんと試験体の戦闘データを取っておくように伝えなさい。それと、あの少年のデータもね」
最後に女はモニターを一瞥すると、踵を返して歩き始める。
「10年も待ったんだもの。ここで止まるわけにはいかないわ」
女は心底愉快そうに呟いた。