月へ
誰も動かなかった。
月門の向こう。
白銀の都市。
夢で見た景色。
神話の彼方。
失われた故郷。
そして。
白いうさぎ。
「だから遅いってば!」
元気だった。
ものすごく元気だった。
緊張感が少しだけ消える。
「そこじゃないだろ……」
龍真が額を押さえる。
世界の真実より先に。
うさぎの存在感が強すぎた。
◇
シロは動けなかった。
目の前にある。
ずっと探していた場所。
帰りたかった場所。
知りたかった過去。
だが。
辿り着いてしまった。
だから怖い。
『私は』
小さな声。
『何者なのでしょう』
誰にも向けていない問い。
自分自身への問い。
龍真が隣に立つ。
「行こう」
それだけだった。
答えはない。
保証もない。
それでも。
一人じゃない。
シロは小さく頷いた。
『はい』
◇
「行きましょう」
意外な声だった。
那由禍。
全員が振り返る。
本人も少し驚いた顔をしている。
つい先日まで。
思い出すことを拒んでいた。
逃げていた。
だが。
今は違う。
「確認しなければなりません」
静かな声。
「私達が何をしたのか」
「何から逃げたのか」
拳を握る。
「そして」
少しだけ視線を落とす。
「何を失ったのか」
その言葉は。
自分自身へ向けられていた。
◇
「では行ってこい」
玄斎が言う。
「来ないのか?」
龍真が聞く。
「年寄りじゃからの」
「絶対嘘だろ」
「留守番じゃ」
笑う。
いつも通り。
だが。
その目は優しかった。
孫を見送る老人のように。
「帰ってくるんじゃぞ」
珍しく真面目だった。
◇
最初に歩き出したのは。
シロだった。
一歩。
月門へ。
龍真。
美月。
那由禍。
続く。
光。
浮遊感。
重力が消える。
音が消える。
そして。
世界が変わった。
◇
月だった。
空は黒い。
だが。
暗くない。
銀色の光が街全体を包んでいる。
白い塔。
白い橋。
白い神殿。
静かな都市。
美しい。
ただ。
あまりにも静かだった。
「誰もいない……」
美月が呟く。
その通りだった。
街に人影がない。
風もない。
生活の気配もない。
まるで。
昨日まで人がいた街が。
一瞬で眠ったようだった。
◇
「ようこそ!」
うさぎ。
全力疾走。
飛びつく勢い。
「やっと来た!」
「何万年待ったと思ってるの!」
「知らん!」
龍真が即答した。
美月が笑う。
シロも少し笑った。
那由禍だけは笑えない。
街を見ている。
何かを思い出しそうで。
思い出せない。
◇
その時だった。
うさぎの表情が変わる。
笑顔が消える。
静かな顔。
何万年もの時間を見てきた顔。
「説明するね」
誰も喋らない。
うさぎは振り返る。
都市の奥。
遥か遠方。
巨大な黒い影。
山より大きい。
都市より巨大。
それが。
月の地平線に立っている。
「何が起きたのか」
「どうして月が捨てられたのか」
「どうして神々が逃げたのか」
那由禍の瞳が揺れる。
「どうして原初神が滅びたのか」
シロが息を呑む。
「そして」
うさぎは振り返る。
真っ直ぐ。
美月を見る。
「どうして神殺しが必要なのか」
「え?」
美月。
間抜けな声だった。
だが。
誰も笑わなかった。
那由禍だけが。
青ざめていた。
まるで。
聞きたくなかった答えを。
知っているかのように。
◇
風が吹く。
月の風。
存在しないはずの風。
白い髪が揺れる。
シロが空を見上げた。
故郷。
探し続けた場所。
辿り着いた場所。
しかし。
ここは終着点ではなかった。
始まりだった。
失われた神話。
忘れられた記憶。
月に残された真実。
その全てが。
今。
静かに動き始める。




