おれは宇宙人 :約5000文字 :SF
「あっ!」
おれは思わず声を上げた。
自宅のリビング。食卓の椅子に腰掛け、ぼんやりとテレビを眺めていた、そのときだった。突如として頭の奥で栓が抜けたような、ある種の爽快感が走った。鈍く張り詰めていた膜が裂け、そこから膨大な情報がボトボトと落ちてきた。めまいにも似た感覚がしたと同時に、おれは反射的に立ち上がりかけた。
椅子の脚がフローリングを擦り、キュッと音を立てた。
「どうしたの?」
ソファに座っていた妻が勢いよくこちらを振り返った。驚いたように目を丸くしている。
おれは努めて平静を装い、「いや、大したことじゃないよ……」と返した。
妻は怪訝そうに首を傾げた。だが、それ以上は追及せず、ローテーブルの上の小さな鏡に視線を戻した。さほど興味はなかったらしい。
しかし、おれの内側ではとんでもないことが起きていた。思い出した。思い出したぞ……。
――おれはどうやら宇宙人らしい。
そう。おれはビルタニア星、ドル国所属の諜報員だ。本国で徹底的な身体改造を施され、ある夜この星に送り込まれたのだ。
現地住民に成りすまし、仕事に就き、社会に溶け込みながら潜伏する。目立たず、かといって無能にも見えない、ごく平均的な一般人を演じ続ける。それがおれに与えられた任務だった。
完全に地球社会に適応するため、そして精神の安定と情報漏洩防止のために記憶を封じられていた。だが今、その封印が解け、すべてを思い出したのだ。
「十時には出られるからね」
妻が顔に油を塗りたくりながら言った。鏡を覗き込み、鼻の下を伸ばしている。
今日は休日。二人で駅近くのショッピングモールへ出かける予定になっていた。結婚したばかりだが新婚旅行には行かなかった。無駄な出費は避けるべき、そう主張したのは妻だ。堅実で、よくできた女である。
……だが異星人だ。
その事実を改めて認識した瞬間、全身の皮膚の下をそそそと撫でられたような不快感が走った。
あの間抜け面――おれがこんな低文明の惑星の住民と生活を共にし、あまつさえまぐわったかと思うと吐き気が込み上げてきた。嗚咽しそうになり、おれは顔をしかめた。
ああ、最悪だ。記憶を封じられていたのも納得である。いくらおれが優秀でも、この生理的嫌悪感までは抑えきれなかっただろう。いつか表情や態度に滲み出て、結婚生活はおろか任務そのものが破綻していたに違いない。
生物学的な構造の差異により、現地住人と繁殖ができないことだけが救いだ。この空間に子供まで加わっていたら卒倒していたところだ。
「いや、ちょっと友人のところへ行ってくるよ」
おれはぎこちなく顔を妻のほうへ向けた。
「え、なんで? 映画見に行く予定でしょ?」
妻が顔を上げておれを睨んだ。が、すぐに訝しげな表情に変わった。いかんいかん、どうやら嫌悪感が顔に出ていたらしい。おれは慌てて口角を引き上げ、両手を顔の前で合わせた。
「ごめんごめん、急な用事を思い出したんだ」
「そう……まあ、いいけど。私も行きたいとこあるし。気にしないで」
妻は小さく微笑み、再び鏡に向き直った。器量のいい女だ。怒っている様子はないが、何か土産でも買って帰るのが無難だろう。……と、そんな発想が自然と浮かぶあたり、我ながらこの生活にすっかり馴染んでいる。おれは内心で苦笑し、頭を掻いた。
リビングを出て玄関へ向かった。一度振り返り、妻の姿がないことを確認すると、スマホを取り出して友人の村田に電話をかけた。数コール後、気だるげな声が応答した。おれは短く用件を伝え、会う約束を取りつけた。
◇ ◇ ◇
「よーっす。どうしたよ」
「おう……」
インターホンを押して数秒後。どたどたと騒がしい足音が近づき、ドアが開いた。
おれはほとんど言葉を交わさず、その体を押し込むようにして部屋に上がり込んだ。
「おいおい、なんだよ急に。日曜だってのに押しかけてきやがって」
「ああ……」
おれは言い淀んだ。おれがここへ来た理由――それは、この村田もまたビルタニア星人だからだ。だが、問題はやつ自身がそれを自覚しているかどうかだ。
おそらく、おれと同様に記憶を封印されているはずだ。ここで正体を明かしても頭がおかしくなったと思われるのが関の山だろう。それに誰かに吹聴でもされたら面倒なことになる。
どう切り出したものか。
おれは小さく唸り、眉間を押さえた。
「あ、さてはお前、記憶が戻ったな」
「えっ」
「ははは、まあ座れよ」
村田は軽く笑いながら背を向け、冷蔵庫のほうへ歩いていった。扉を開けて中から缶ビールを二本取り出すと、振り向きざまに一本をこちらへ放り投げた。おれは慌てて受け取った。
村田はラベルを指でつつきながら「こいつは称賛に値するよな」と言い、にやりと笑った。
それから床にどかりと腰を下ろし、プルタブに指をかけた。
「ん、何してんだよ。座れよ」
「あ、ああ……」
おれは促されるまま、向かい合う形で床に腰を下ろした。缶を開ける。カシュッと小気味よい音が立て続けに二度鳴った。
おれは飲み口を見つめるだけで口をつける気にはなれず、村田が喉を鳴らして飲む様子をただ黙って見ていた。
「ふう……で、思い出したんだろ? 自分が宇宙人だってことに。目を見りゃわかんだよなあ」
村田はどこか誇らしげに言った。
「まあ、俺らからすればこの星の連中が宇宙人だけどな。ははは」
「あ、ああ……で、お前もそうなんだよな?」
おれが問いかけると、村田は缶を口につけたまま「おー」とこもった声で返した。
「お前はいつ戻ったんだ? 最近か? 任務のために記憶を封じていたことは理解しているが、なぜ今このタイミングで戻ったんだ? 本国から何か指令が来たのか?」
おれは身を乗り出した。頭の奥で作戦の断片が次々と浮かび上がり、座ってなどいられなかった。侵攻ルート、暗殺方法、情報操作――思考そのものが諜報員の形へ戻ろうとしているのが自分でも分かった。
「ははは、まあ落ち着けよ。そもそも俺は記憶を封じられちゃいない」
村田は肩を揺らして笑い、ひらひらと片手を振った。
「え、なぜだ?」
「そりゃ、全員が全員、記憶を消して動くわけないだろ。本国からの指令を誰が受け取るんだ」
「あ、ああ。それもそうか……」
「それに、お前みたいに途中で戻っちまったやつの避難所の役目もある。記憶が復元されたら、まず俺に接触するよう脳に刷り込まれてるんだよ。そうだろ?」
「ああ、確かに……」
おれは小さく頷いた。
そうだ。今思うと、おれは何の疑念もなく、真っ先に村田に連絡していた。
「じゃあ……他にもいるのか? この星に」
おれは訊ねた。
「まあな。みんな記憶を封じて潜伏中だ。平凡な暮らしを満喫しているだろうよ」
村田はどこか卑屈な笑みを浮かべた。おれは小さく咳払をして、手元の缶に視線を落とした。
「来たるべき日のために、か。……で、いよいよその時が来たというわけだな」
おれは拳をぐっと床に押しつけ、口角を上げた。侵略――いや、それはまだ早い。まずは各国の中枢へ浸透し、権力者を取り込み、内部から腐らせ――。
「まあ、前半は正しい。が、後半は違う」
「ん? どういうことだ?」
「お前の記憶が戻ったのはエラーみたいなもんだ」
「エラー?」
まあ、たまにあることだ――村田はそう言うと缶をぐしゃりと握り潰し、立ち上がった。再び冷蔵庫に向かい、扉を開けて新しいビールを一本取り出すと、おれの前に座り直した。
「おい、エラーってどういう意味だ」
「どうもこうも、そのまんまだよ。いくら本国の技術が優秀でもな、こういうことは起きちまうもんだ。偶発的な復元。予定外の再起動。逆さまつげ」
村田は淡々と言い、プルタブを開けた。
「じゃあ……どうする? 帰還か?」
おれは内心でわずかに安堵していた。任務とはいえ、この星の住民と肩を並べて生活する日々は、思い返すだけで虫唾が走る。会社、満員電車、人混み――ああ、発狂しそうだ。低文明種族に囲まれ、息を浴びながら生きる毎日など拷問に等しい。
「いや、もう一回消す」
「は?」
「記憶をだよ」
村田は肩をすくめた。
「やれやれ、一度で済ませときゃよかったな」
村田はそう言いながら、面倒くさそうに立ち上がり、再び冷蔵庫の前へ行った。だが、今度取り出したのはビールではなかった。銀色の光沢を放つ丸みを帯びた装置。あれは頭部に装着するタイプの記憶制御機だ。
見た瞬間、おれの脳裏に使用方法や構造情報が自然と浮かび上がった。
「こいつでちゃちゃっとやって、で、お前は何事もなかった顔で家に帰る。簡単だろ?」
村田は装置を片手で揺らしながら言い、座り直した。
「それが俺の役目ってわけ。だから結婚もせず、こんな安アパートでずっと独り身よ。まったく……」
村田は自嘲気味に笑いながら頬を掻き、制御機をこちらに差し出した。おれはそれを受け取り、まじまじと見つめた。
表面は異様なほど滑らかで、継ぎ目も存在しない。内側には極細な電極が整然と並んでいる。冷蔵庫から出したばかりなのに、まったく冷たくなかった。
本国の技術――本来ならこの装置を使うのはあまりいい気はしないが、思わずうっとりとした。見ていると懐かしい気分が込み上げてくる。
「……まあ、本国の指示なら従うが、それだけか? これで終わり? また待機か?」
おれが訊ねると、村田は呆れたように鼻で笑った。
「おいおい、長期潜伏任務だって理解しているだろ? 普段の生活データは脳内チップから自動送信されている。昇進でもして社会的地位が上がれば、その分、作戦の選択肢が増えるって寸法だ」
「それは分かっているが……せっかく記憶が戻ったんだ。何か計画はないのか?」
「ないない。むしろ今のお前は危なっかしい状態なんだぞ。この星には他国の連中も潜伏しているんだ。捕まって拷問でもされたらどうするよ」
おれは軽く笑った。
「おれがそんなヘマをするものか。それに殺されたって情報は吐かん」
「だといいが、記憶を封じたほうが確実だ。それに加え――」
村田は少し声を落とし、缶を指で弾き始めた。
「無理に脳みそを弄るとチップが爆発する仕組みになっている。装置で記憶を抜き取られる心配もないってわけだ」
「それは……想像したくないな」
「ああ。だから今までどおり、のんびり平凡に暮らしていたほうがいいってわけ。誰からも怪しまれずに済むしな。仮に捕まり、情報を吐かなかったとしても利用価値はある。たとえば子種をいただいて、生まれたそいつをスパイに育てて――いや、考えなくていいことだな」
どうせ忘れるんだしな――村田はそう言って軽く笑い、おれの頭に制御機を装着した。
次の瞬間、視界が白く弾けた――。
◇ ◇ ◇
「じゃあな、同胞。また来いよ」
「うわっ、放せよ……」
玄関先で抱きつかれ、おれは顔をしかめて村田の腕を振り払った。村田はけらけらと気味悪く笑い、おれの背中をばんばん叩いた。
「たまには飲もうぜー。ははは!」
村田はそう言ってドアを閉めた。おれは返事せず、愛想笑いで流した。
相変わらず気持ちの悪いやつだ。いい歳して独身だし、わけのわからない妄想を抱いている。
縁を切ろうかと思ったことは何度もあるが、向こうから連絡してくることはないし、まあとりあえずキープでいいか――結局いつもその結論に落ち着くのだった。
家へ帰るとリビングのソファに座っていた妻が、抑揚のない声で「おかえりー」と言った。
怒っているのだろうか……。当然だ。それにしても、なぜおれは今日、妻との予定をキャンセルしてまで村田なんかのところへ行ったのだろう。
思い返しても、理由がうまく掴めない。妙にぼやけている。自分にも説明できないのだから、妻を納得させられるわけがない。困ったな。
おれは頭を掻いた。
「あなた」
「ん?」
「何週間か里帰りしようと思うの。いいよね?」
「えっ、それは、その……すまなかった!」
おれは勢いよく頭を下げた。
「ふふっ、どうしたの?」
妻はくすりと笑い、明るい声で訊いてきた。
怒っていないのか……?
おれはおそるおそる顔を上げた。
「いや、その、今日の映画の件で……」
「あはっ、別にそれで帰るわけじゃないから。ちょっとした用事があるだけ。いいよね?」
「あ、ああ……ははは」
おれはほっと胸を撫で下ろした。数週間も離れるのは寂しいが、仕方ない。怒っていないだけでも十分だ。……そうだ、妻が帰ってきたときに、何かサプライズでも用意しよう。これは腕の見せどころだぞ。
おれはそんなことを考えながら妻の横顔をじっと見つめた。
彼女はほんのりと笑みを浮かべ、自分の腹をそっと撫でていた。
……ああ、おれは幸せ者だ。
彼女の仕草、そのすべてがどうしようもなく愛おしく感じられるのだった。




