腕(かいな)の解放
構成をあれこれいじっていいたら、遅くなりました。
動かなくなったタンカーに、白尽くめの小さな少女が悠然と近寄った。タンカーの乗組員たる自動車や自動2輪車は、尻に帆かけて逃げ出してしまっている。
『ナナセの詰めの甘さにも困ったものですわね。握り屋、捕まえなさい』
喧嘩屋の同類、掴んだものを己のものとする盗人の悪霊に命じる。フェレスの影から鉤爪を備えた細長い腕が這い出し、オイルタンカーの影に手を突っ込んだ。
腕が引き抜かれると、鉤爪の間に、脚と羽がもげたイナゴが挟まっている。
『握り屋から逃れることはかないませんわよ。長大な船をかぶって卑小な己をごまかそうなどと。さながら、ブロッケンの怪物ですわね』
光の現象で、小さな人間が怪物のように巨大に見える現象を挙げるフェレス。
『では御機嫌よう。良い宵闇を』
握り屋の腕が、再びフェレスの影に吸い込まれる。少女の右腕に巻きつけられていたリボンが、はらりと舞い落ちる。
白い、白磁のような己の両手をゆっくりと見た。
『久しぶりの自由ですわ。やはり、わたくしのナナセは優秀です』
愛しむように手を撫でて微笑む。彼女の縛鎖は解けたのだ。動力を失ったタンカーがゆっくりと傾く。耳をつんざく轟音をたて、転倒した。使い魔はタンカーの一画で目を止める。
『好みの得物が飾ってありますわね。握り屋、あれも徴発なさい』
フェレスの影から生えた手がズルズルと伸びてゆく。船のへりを這い上がって、アンカーを掴んで、鎖を引きちぎる。鉤爪が粘土細工のように錨をぐにぐにとこね回して変形させる。フェレスの元に戻った鉤爪には、2mほどの大きさに縮められた錨が握られていた。
『手頃な大きさですわね』
自分よりも大きな得物を手に取り、何度か素振りをして感触を確かめる。
『ユウガさんにも退場していただいたことですし、いよいよ対決ですわね』
“光を嫌うもの”と訳される、由緒ある悪魔が呟いたのは、宣戦布告だった。
少女は恵まれぬ環境に育ったと言って良い。酒乱で毎晩暴れまわる父親。働かぬ父親のために借財に追われ、娘を顧みることも放棄した母親。
近所に住む親子が眩しく見えた。同い年の少女がいる、裕福な家庭。頼りがいのある父親。美しく優しい母親。
笑顔の絶えないその光景は、自分とは切り離された別世界としか思えなかった。
聡明な少女は5歳にして未来が閉じていることを理解してしまった。それどころか、日増しに悪化してゆく暴力と境遇に、今日明日が自分の命日になってもおかしくないと悟る。
だが、5歳の子どもに1人で生きてゆける力は無い。少女は愛情を、未来を、生を投げ棄てていた。投げ棄てるつもりだった。
そんなある日、少女は寒々しい食卓の上に。
自分宛ての、黒い封筒を発見する。
七瀬の精神が、喧嘩屋から肉体に帰還する。半身を起こすと、なぜか倉庫の中ではなく外だった。倉庫内に入ってみると、四ツ角が寝ている。他には優雅もフェレスも居なかった。
「いない……なにかあったか?」
自然と悪い方向へ空想が飛躍しそうになるのを、どうにか堪える。建物の外へ捜しに行きたいが、その前に回収しなければならないものがあった。フェレスの目的や素性を考えるのは、その後で良い。
四ツ角に歩み寄った。災厄の確保を優先しようとする。自分のポケットから、ラベルの貼られた弾丸を引っ張り出した。何気なくラベルを確認すると、“悪名高き狼”と記されてあった。
「狼? ニホンオオカミ? まあ、僕のものじゃないし、関係なしだ」
決めつけて、横になっている四ツ角に話しかける。
「トランクは返してもらうよ。君に預けるのは、カカシに見張りを任せるより始末に負えない。なんかドタバタしてて、ポケットに入れちゃってた弾丸はちゃんと返すから。“禍は足るを知らざるより大なるはなし”って老子先生も言って……」
満足を知らないことほど大きな災いはない、という老子の言葉の引用が途切れる。黄色かったはずのラベルの色が、白に変色している。トランクやウェストバッグと同じ色である。
「ひょっとして、僕に所有権が移ったってことか? 手紙に委譲は可能です、って書いてあったな。弱った、またイチャモンつけられる」
四ツ角の性格から、容易に想像がつくことであり、七瀬はげんなりした。
「しっかし、所有権が移ったとして、どうして移ったんだ? 返せるのか? 長時間確保してたら、とかかな? げ、もしそうなら……」
七瀬は青ざめた。その道理であるなら、四ツ角にトランクの所有権が移動していることになる。
慌てて探すが、半壊した倉庫のどこにもトランクは見当たらなかった。四ツ角の背負っていたリュックもない。
「まさかコイツ……いや、さすがに違うか」
トランク消失の原因が四ツ角にあるとしたら、当人がここに転がっているはずがない。だが、何かを知らないとも限らなかった。
「ええい、ゴネるかもしれないが起こそう。優雅の行方を知ってるかもしれないし。おおい!」
こうなると、2人がいないことも心配だった。四ツ角に呼びかけて、異変に気づく。
男は、息をしていなかった。
「し、し、死んでる? まさか、打ちどころが悪かったか?」
優雅が殴った場所を確認しようと上半身を抱き起こすと、四ツ角の太い首に朱い線が入った。ピアノ線ほどの細い線は、首周りを一周していた。
一瞬後、四ツ角の首が切り離されて落下した。重い音を聞いた後で、切り口から鮮血が噴き出した。
次話は21日中に投稿します。




