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美酒と唄に酔いしれる夜~始まりの乾杯~

石畳を踏みしめて街へ足を踏み入れた瞬間、鼻をくすぐる香りに思わず息を吸い込んだ。

果実の甘酸っぱさ、発酵した麦の匂い、蒸留されたばかりのアルコールの鋭い刺激。

街全体が巨大な酒蔵のように息づいていて、風さえも酒気を運んでくるようだ。


「へぇ…ここが“酒の都バッカス”か。随分と賑やかだな」


通りには昼間から酒場の看板がずらりと並び、扉の向こうから笑い声と楽器の音が漏れてくる。

露店には瓶や樽が山のように積まれ、行き交う商人たちの背中からはどこか陽気な空気が漂っていた。


「ふん…酔っ払いどもの巣窟ってわけね」

セレナが腕を組みながらつぶやく。

だけどその金色の瞳には、わずかな興味の色も滲んでいた。


「ふふ…血よりも芳しい香りだ。悪くない」

ヴァネッサは口元を覆うように微笑み、ワインの赤を思わせる深紅の瞳で樽を見やる。


「おおっ、あっちにでかい樽が積んであるぞ!」

ライアは目を輝かせ、駆け出しそうになる。


「……蒸留所。見学……できるかな」

エルザは無表情ながらも、視線は蒸留所の煙突に釘付けだ。


「まあ…果実酒の露店まで!こんなに種類があるなんて…」

エリシアの瞳は期待に揺れ、頬がわずかに上気している。

甘やかな香りに頬を染め、思わず手を伸ばしかける仕草が可憐だった。


「へへっ、アタイの好きな匂いだな!絶対エールがうまいぞ、ここ!」

トーラは豪快に鼻を鳴らし、既に酒場を物色し始めている。

喉を鳴らす音が聞こえてきそうだった。


「ふふっ、カケル。これだけ酒が溢れてる街で、あなたが誰と飲むのか…気になるわね」

リリアは艶やかに俺の腕へ指を絡め、耳元に吐息を落とす。

小悪魔めいた笑みに、背筋がぞくりとした。


「やれやれ…期待に満ちすぎて、俺の方が酔いそうだな」

俺は苦笑しつつ、街の喧騒へと足を踏み出した。


◇ ◇ ◇


通りを歩いていると、ぶどうを潰す甘い香りが漂ってきた。

工房の扉は開け放たれ、外からでも大きな桶や並べられた樽が目に入る。


「見学していこうか」

声をかけると、仲間達は一斉に興味を示した。


中へ足を踏み入れると、足踏み場で職人達が紫の果汁を絞っていた。

足元から立ちのぼる芳醇な香りに、思わず喉が鳴る。


「うわぁ…本当に果実が息をしてるみたい」

エリシアは胸の前で手を合わせ、発酵中の果汁に目を輝かせている。


「…水分と果皮、温度管理ね」

エルザは器具や桶の作りを観察し、鍛冶屋の目で木枠や鉄の留め具に見入っていた。


「すげぇな!私も足で踏んでみたいぞ!」

ライアが足踏み場を見て声を弾ませる。


「アタイだったら、桶ごと一気に潰せそうだぜ!」

トーラが豪快に笑い、職人達まで苦笑していた。


「ふふ…果実の香りが甘やかだね。これが熟成すれば、どれほど深い味になるのかな」

ヴァネッサは樽にそっと手を置き、赤ワインを想像するように瞳を細める。


「……どうせ、私達が飲むことになるんでしょ?そのときに味わえば十分よ」

セレナはぶっきらぼうに言うが、鼻先はほんのり赤らんでいた。


「カケル…もし飲みすぎて倒れたら、私が介抱してあげる。ふふっ」

リリアは俺の腕に絡みつき、誘惑めいた囁きを残す。


俺はため息をつきつつ、紫に染まった桶の果汁を見やった。

――なるほど、酒の都。見学だけでも酔わされそうだ。


◇ ◇ ◇


「さて、次はどこを見ようか」

俺がそう言った矢先、エリシアがふと足を止めた。


「…この音…リュート?」


澄んだ旋律が、風に乗って通りに流れ込んでくる。

ただの音ではない。聞く者の心をそっと撫でるような、不思議な響き。

周囲の人々が足を止め、自然と音の方へ視線を向け始めた。


「見つけましたよ!伝説の英雄!」


その声と共に、空を切り裂く影が降りてきた。

鮮やかな蒼い翼を広げ、鱗のように煌めく羽根を散らしながら舞い降りたのは、一人の少女。

腕にはリュートを抱え、海のように澄んだ瞳と、透き通るような微笑を浮かべている。


人々がざわめき、自然と視線が集まっていく。


「だ、誰だ君は?」

思わず身構える俺に、彼女は胸を張って答えた。


「私はアピア!英雄譚を歌い継ぐ吟遊詩人――セイレーンです!」

快活で、どこか人懐っこい声だった。


「詩人、ねぇ…それで、私達に何の用なの?」

セレナが腕を組み、冷ややかな目を向ける。


「はい!私は風の噂を頼りに、この街までやってきました!英雄カケル様と、そのお仲間にお会いするために!」

アピアは翼をぱっと広げ、まるで舞うように一歩前に出た。


俺は目を瞬かせ、思わず指を自分に向ける。


「…俺が、英雄?」


「そうですとも!先代魔王ヴァルギルスを討ち倒した英雄!ずっとお会いしたかったんです!」


アピアは迷いのない笑顔で断言し、リュートの弦を鳴らした。


その一音に合わせて、周囲が一斉にどよめいた。

酒場から顔を出す者、露店の手を止める商人。

通りにいた人々の視線が、一斉に俺に注がれる。


「……」

あまりの事態に固まった俺は、隣に立つリリアへと視線を投げた。


「えーっと……リリア、ちょっといいか?」


俺は集まってきた群衆の視線に冷や汗を覚えながら、そっとリリアを手招きした。

このままでは“英雄様”とやらに祭り上げられてしまう。どうにか事情を聞かねばならない。


「どういうことだ?」


「ふふ、どうやら勘違いしてるみたいね」

リリアは小悪魔めいた笑みを浮かべて俺の隣に歩み寄り、唇を寄せるように囁いた。

その声音は妙に楽しげで、まるでこの状況さえ遊んでいるかのようだった。


――そうだ。

先代魔王ヴァルギルスを本当に討ったのは、現魔王アビス様。

俺が倒したのは、あくまで奴の残滓に過ぎない。


けれど、そんな裏事情を知る者は限られている。

噂は人の都合よく脚色され、やがて“伝説”として一人歩きする。


「アピア、その話は誰から聞いたんだ?」

俺は溜息を押し殺しながら問いかけた。


「それは――風が運んできたんです!」

アピアは胸を張り、翼を大きく広げる。

リュートを鳴らしながら、まるで舞台に立つ歌姫のように得意げな笑顔を浮かべた。


「……風ねぇ」

呆れた声が漏れる。

周囲の群衆はさらにざわつき、誰かが「やっぱり英雄様だ!」と声を上げる。

その熱気に押され、俺は額に手を当てて頭を抱えた。


「アピア、それは誤解なんだ。俺が倒したのは奴の残滓であって、実際に倒したのは――」


「なんと!ご謙遜してるんですね!やっぱり本物の英雄は違うなぁ!」

アピアは食い気味に声を上げ、リュートを鳴らしてみせた。


「いや、だから違うって!」

俺の声は必死だったが、通りに集まった群衆は勝手に盛り上がり、拍手まで起こり始めた。


「どうやら…収拾がつかなくなりそうだね」

ヴァネッサは呆れたように肩をすくめ、赤い瞳を細める。


「とにかく、場所を変えましょ。このままじゃ居心地が悪いわよ」

セレナが眉をひそめ、群衆の視線から逃れるように踵を返す。


「ふふっ、英雄様はどこに行っても大人気ね」

リリアはそんな俺の肩に手を置き、くすりと笑った。


俺は深いため息をつきながら、仲間達と共に人だかりから抜け出そうと歩き出した。


その背に、澄んだ声が追いかけてくる。


「――あ、待ってくださいよ~!英雄様!」


通りに響くその呼び声に、周囲の視線が再びこちらへ集まる。

俺は肩を落とし、ただ空を仰いだ。


◇ ◇ ◇


人だかりをどうにか抜け出し、俺達は少し開けた広場へと移動した。

街の中心にあるその場所は、石畳の中央に噴水があり、周囲を囲むように露店や酒場が立ち並んでいる。

昼下がりだというのに人通りは多く、酒の香りと笑い声が途切れることはなかった。


――そして、しっかりと一人、余計な影がついてきていた。


「アピア、どこまでついてくる気だよ」

振り返ると、案の定、彼女は翼を小さく畳みながらすぐ後ろを歩いていた。

リュートを抱えて、悪びれる様子はまるでない。


「それは風の赴くまま…英雄様の赴くままです!」

胸を張ってそう言う姿は妙に堂々としていて、逆に突っ込みづらい。


「……」

俺はこめかみを押さえる。


「やっぱり、面倒を持ち込んだわね」

隣でセレナが小さく吐き捨てる。

その声音は冷ややかだったが、金色の瞳にはわずかに苛立ちがにじんでいた。


「なら、せめてその“英雄様”って呼ぶのだけはやめてくれないか?騒ぎを起こしたくないんだ」

俺がそう言うと、周囲の仲間も頷いた。


「確かに、目立ちすぎるのも考えものだ」

ヴァネッサが低く呟き、口元に笑みを浮かべる。

その声音は落ち着いていたが、深紅の瞳は面白がるように細められていた。


「う~ん…では、“カケル様”って呼びますね!」

アピアはあっさりと頷き、リュートの弦を軽く爪弾いた。どうやら本人にとっては折衷案らしい。


「やれやれ……」

結局、呼び方が変わっただけで騒ぎの火種は消えていない。

俺は諦め半分で息を吐き、肩を落とした。

リリアが隣で楽しそうに微笑んでいるのが余計に腹立たしかった。


噴水のある広場は、人でごった返していた。

しかしその喧騒の中心に、妙な人だかりができていた。


「おいおい、うちのワインこそが最高に決まってるだろ!」

「馬鹿を言え!清らかな水と米から生まれる清酒こそ至高だ!」

「はん、蒸留してこそ本物の酒だ!度数が違うんだよ!」


声を張り上げる職人達。

数えてみれば、男も女も合わせて七人。


それぞれが胸を張り、自分の造る酒が一番だと主張して譲らない。

周囲の観客たちも面白がって野次を飛ばし、広場は小さな祭りのような熱気に包まれていた。


「なんだ…揉めてるな」

俺は人だかりを抜けて様子を伺った。


「どうやら“どの酒が一番か”で争っているようですわね」

エリシアが困ったように眉を寄せる。


「くだらない…けど、放っておけば殴り合いになりそうね」

セレナが腕を組み、冷ややかに吐き捨てる。


「ふふ…人間も魔物娘も、酒が絡めば同じか」

ヴァネッサが小さく笑みを漏らす。


「どうする?カケル」

ライアがこちらを振り返り、手を腰に当てる。


「…まあ、見過ごせないな」

俺は一歩踏み出した。群衆の注目が一気にこちらに集まる。


「おい、そんな言い争いはやめろ!」

声を張り上げると、七人の職人達が揃ってこちらを振り向いた。

注がれる視線に少し気圧されながらも、俺は咳払いをして一歩前へ出る。


「なあ、アンタ達。どの酒が一番かなんて、そんな言い争いをしても仕方ないだろ。酒は人それぞれの好みで――」


「好みだと!?何もわかっちゃいないな!」

「そうだ、伝統ある我が家の清酒こそ至高!」

「いや、香りの豊かさで言えばワインに勝るものはない!」

「度数の高さこそ力の証!蒸留酒に決まってるだろ!」

「甘い果実酒こそ、人を幸せにする味でしょ!」


次々と声が飛び交い、俺の言葉はあっという間にかき消された。

群衆も囃し立て、広場は小さな喧嘩祭りのように熱を帯びていく。


「……完全に空振りだな」

俺は額を押さえ、思わずため息をついた。


そのときだ。背後からリュートの澄んだ旋律が響いてきた。

アピアだ。彼女の指が弦を弾くと、広場に透き通るような音色が広がっていく。


さっきまで怒鳴り合っていた職人達の声が、嘘みたいに途切れた。

観客の野次も消え、広場全体がその旋律に聞き入っている。

皆の視線が自然とアピアに集まり、空気が彼女の歌声に支配されていくのがわかった。


「皆さん……争う必要はありません」

リュートを奏でながら、アピアの透き通る声が響く。

耳に届いた瞬間、胸の奥を直接撫でられるようで、思わず息を呑んだ。


「ここには、英雄がいます。先代魔王ヴァルギルスを打ち倒した、真の英雄が……!」


「おい、それ言うなって言っただろ!?」


俺は慌てて突っ込む。

しかしアピアは聞いているのか聞いていないのか、全く気にする様子もなく歌を続けた。


「ならば――英雄にこそ選んでもらえばいいのです!どのお酒が、この都にふさわしい一番なのかを!」


アピアの声に、広場は大きなどよめきに包まれた。


「俺に選ばせるって?ちょっと待て、そんなことできるわけ――」


「じゃあ俺の酒からだ!」

「いや、先に俺のを飲んでもらわなきゃ困る!」

「女性の口にも合う甘い果実酒こそ真価を発揮するのよ!」


七人の職人達が口々に叫び、俺の声はあっという間にかき消された。


「ちょ、ちょっと待て!全部なんて飲めるわけ――」


「公平にするなら全部だ!」

「そうだそうだ!それでなきゃ納得できねぇ!」

「英雄様なら飲めるはず!」


……完全に四面楚歌だった。


「ふふっ、面白そうじゃない」

リリアが俺の耳元で囁き、赤い瞳を楽しげに細める。


「全ていただくのならば、我らもお供してよろしいのだろう?」

ヴァネッサが口元を覆い、くすりと笑う。


「……へ?皆も?」

俺が思わず聞き返すと、アピアがぱっと翼を広げて宣言した。


「そうです!英雄様が味だけでなく“雰囲気”も感じられるように、お仲間の皆さんが一人ずつパートナーとして寄り添うのです!」


「……いや、それ完全にお前が面白がってるだけだろ」

俺の抗議は、群衆の歓声にかき消された。


「やれやれ…本当に全部やる羽目になるのか」

頭を抱えた俺の隣で、仲間達はそれぞれの表情を浮かべていた。

セレナは呆れ顔、ライアとトーラは妙に乗り気、エルザは小さく首をかしげ、エリシアは頬を赤らめていた。


俺は天を仰ぎ、深いため息をもう一つ落とした。

……どうやら、逃げ道は完全に塞がれたらしい。

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