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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
第三章
15/16

決着

 雪は徐々に弱くなり、吹雪は一晩でやんでいた。トガルは凍えそうになりながらも、若オオカミのラウダにしがみついていた。夜間一度だけ休んだものの、そのあとは走り通しで、まっすぐユカナを目指していた。

 空に向かって伸びる針葉樹の数が段々と少なくなっていき、景色の奥には、茶色の塔が見え始めていた。


(あれがユカナだな。しかし、なんて殺風景な場所だ。ここに山狗がいない理由がよくわかる)


 この雪の様子や、植物の少なさから考えると、クマやオオカミの獲物になる動物も住めないだろう。

 トガルはずっとラウダに負担がかからないくらいの速さで走っていたが、ふと、ラウダは立ち止まった。何かを探すように首を持ちあげて、周囲を見ている。


「どうした?」


 耳をくるくると動かし、何かの方向を探っているようだ。そして、見つけたのか、トガルに許可を求めるような視線を投げかける。


「……ああ、行け」


 不審に思いながらも、トガルはラウダが気にしている方へ向かった。もしかしたら、何か罠でも見つけたのかもしれない、と微かに思ったのだ。トガルのことを始末していると思っていても、他に邪魔が入らない可能性もないとは言いきれない。

 ゆっくり進むようにラウダに指示を出すが、彼は聞かず、まるで仲間の元へ向かうかのように軽やかな足取りをしていた。


(これだから、若いオオカミは!)


 トガルは心の中で毒づいた。オオカミの習性がたまたま山狗の行動様式と噛み合っていただけなため、そういった感覚的な部分の矯正は難しいのだ。

 山狗はみな、年老いたオオカミを好むのは、それまでに得た経験から、行動が慎重になるからである。それは口頭で教えて身につくものではなく、仕事に付き添ってできるようになるものだ。

 トガルは仕方ないと思いつつも、どうにかできないかと手足を動かすが、ラウダの足は止まらない。

 木々の間を進み、やがてユカナとは別の方向に広い湖が見え始めた。表面はすっかり凍りついており、その上に雪が積もっている。もっと雪が続けば、やがては陸地との境界もわからなくなってしまうだろう。

 ラウダは湖の見えるところで、足を止めた。そして、何か探したあと、今度は淵に沿って進み始めた。


(あれは、まさか)


 視線の先に、外套を着た人がひとり見える。近づくと、それがルガであることがわかった。


「ルガ! 無事だったのか!」


 トガルは喜びに声をあげた。

 ルガはオオカミを呼ぶための笛をここで鳴らしていたのだ。人間の耳には聞こえないその音は、オオカミなら離れていても聞き分けることができる。

 トガルが現れると、ルガは笛をやめた。外に垂らしてある髪の先は凍りついており、長い時間ここにいたのだろうということが伺えた。


「トガルさん……!」


 ルガは言いたいことを飲み込むようにトガルの名前を呼び、すぐに険しい表情をした。


「詳しい説明をしている時間がありません。トガルさん、どうか私を信じてついてきてください」


 ルガが湖の中央へ向かって、氷の上を歩き始めた。その後ろを、トガルはラウダに乗ったままついていく。


(いったい、どこに行くんだ? この氷は割れないのか?)


 トガルは様々な疑問を浮かべつつも、小さな後姿を追いかけた。湖の中心まで来ると、ルガが立ち止まった。


「ここから下に降りれますが、オオカミは怖がるかもしれません」


 ルガの指さす先は氷が張っているように見えていた。しかし、よく見ると、透明な壁が下に向かって伸びている。視線を手前に移すと、湖の底へ向かうようにして透明の階段が続いていた。


「なんだ、これは……」

「ガラスのような透明な板が張ってあるようです。今は詳しく調べている余裕がありませんが、きっとユカナが建てられた時に作ったのでしょう」


 ルガが何のためらいもなく降りていく。その様子を見たラウダも恐る恐る階段に足をかけた。

 氷の中に作られた階段を進むと、石で作られた大きな洞窟があった。その入り口には松明が灯されている。


「どこに続いているんだ?」

「ユカナの地下です。この洞窟は、橋の中を通って、ユカナの地下と繋がっていたんですよ」


 そう言いながら、ルガは入り口の松明を手に取った。


「……結界を張ったあとに抜け出すためか?」

「わかりません。少なくとも、私はこの洞窟の話を聞いたことがありませんでしたから。どこかの世代で、伝え損ねたのでしょう」


 話しながら、ルガと共にトガルも洞窟へ入った。ラウダに乗ったままでも通れるほどに広く、地下であるためか、外の寒さもさほど感じない。


「トガルさん、私はマナさんと協力することにしました。マナさんはガンドルトを倒して、永遠にその力に魅せられる人が出ないようにしたいそうです」


 ルガの語り口調は淡々としていた。話すことは事前に決めていたのだろう。ガンドルトを倒すために爆薬を使うことや、オオカミの手伝いが欲しいことを、冷静にトガルへ話した。


「……お前の言ってることは、だいたいわかった。だが、信用できるのか?」

「そのために、トガルさんを助けたんじゃないですか?」


 相手に利益があるとすれば、そこだろう。しかし、トガルはまだ一度もそのマナという女性に会っていない。会ったこともない人間に手を貸すことをこの場で約束するのは、難しいことであった。

 懐疑的なトガルであったが、マナという人物がどちら側についていても、ルガに嘘をつく必要があるとは思えない。


「この状況でおれたちを騙す意味もないか……」


 もう少し人を信じてもいいかもしれない。マナを信じるのではなく、トガルはルガの選択を信じることにした。


「いいだろう。邪神の目なんて役目から解放されるのなら、なんだってやってやる」

「トガルさん、ありがとうございます」


 ルガは立ち止まって振り返った。


「もうすぐ、ユカナの下に出ます。私たちがついたら、すぐに作戦が始まります。ユカナが爆破される前に勝負を仕掛けないといけませんから」

「そんなに切羽詰まっているのか」

「はい。もう爆弾は設置されています。爆破はマナさんが時間を稼いでくれているらしいですが、それもいつまでもつかわかりません。トガルさんがあと半日遅れていたら間に合わなかったでしょう」

「おれに選択権はなかった、ということか?」


 トガルが言うと、ルガは屈託のない笑顔を見せた。


「私はトガルさんが協力してくれるって信じてましたから」


 よく恥ずかし気もなくそんなことが言えるものだ、とトガルは頭を掻いた。

 ルガの説明でやらないといけないことはわかった。ガンドルトを引き出すために、爪を出現させなければならない。そして先に行っているルベルとラウダを使って爪から本体を引っ張り出す。

 恐らく簡単なことではないだろうが、自分のやるべきことがはっきりしていることは、トガルとしては有り難かった。他の者と連携しての仕事は、経験が少ないからだ。

 やがて外の音が鮮明に聞こえるところまで来た。ここがユカナと陸地の中間にある橋の中なのだろう。壁に使われている石材の隙間から、少しだけ外の光が射し込んでいた。

 洞窟の先に、ひとりの女性が立っている。どこか冷ややかな雰囲気の女性だったが、敵意は感じられなかった。


「はじめまして、山狗のトガル。私はマナ。話はルガから聞いているわね? さっそくだけど、働いてもらうわ」


 そう言うマナの後ろから、のっそりと姿を現したオオカミに、トガルはため息をついた。


「ルベル、お前もここにいたのか」

「おとなしいオオカミね。ルガとここに来てから、ずっとおとなしく待っていたわ」


 マナが首を撫でると、ルベルも嬉しそうに顔を動かす。


「まったく、どうなってるんだ?」


 自分以外がみな顔見知りになっている様子を見て、トガルは頭を抱えた。マナから懐柔されたと考えてもいいだろう。やはり、最初からトガルに拒否する権利などなかったのだ。


「さて、ぼんやりしている時間はないわ。いつ爆破が始まるかわからないの。ここはユカナの地下三階よ。まずはここでガンドルトを引っ張り出すわ」

「それなんだが、誰から爪を出すつもりだ? 失敗すればそいつは死ぬぞ」


 爪は一瞬で元の世界へ帰ってしまう。その様子を何度も見ているため、あの爪をとらえることが難しいことであるとわかっている。失敗すれば、出入口になった人間は内臓を抜かれて死ぬだろう。


「私がやるわ」


 マナは当然のように言った。


「いいのか?」

「手が足りないの。あなたは腕のいい山狗なんでしょう? 絶対成功させることだけ考えていて」


 背を向けて進むマナについて、トガルはユカナへ入った。

 暗闇の中に、いくつかの松明が灯っているおかげで、中の様子はよくわかる。物はなく、ただ広いだけの円形の部屋であった。石で作られた頼りなさそうな細い梯子が上に繋がっており、そこからも微かに橙色の灯りが漏れている。


「ここであなたにはガンドルトを出してもらう。梯子しかないから、オオカミも上には登れないわ。ガンドルトを出したらあなたは今の道を通って外に逃げて」

「ガンドルトがついてくるんじゃないか?」

「大丈夫。あいつにあの入り口はくぐれない」


 まるで見て来たかのように、彼女は言う。


「ルガはどうするんだ?」

「あなたと一緒に行動。オオカミは二匹いるんだから、それぞれ操る人が必要でしょ?」


 事前にその作戦を聞いていたのか、力強く頷いた。


「さあて、大仕事を始めましょう」


 マナは微かに笑みを浮かべた。これから死ぬかもしれないという時に、このような勝ち誇った顔をできるものだろうか。

 マナを中心にして、ルベルとラウダを向けさせた。ルベルの鞍にはルガが乗り、振り落とされないように、しっかりと掴まっている。


「ええと、敵意を向ければいいのよね?」


 マナは一度目を閉じて深呼吸すると、トガルを睨んだ。トガルを別の誰かに重ねているのか、激しい殺意を感じる。

 すぐに変化は現れた。マナの体の中心に、墨で引いたかのように黒い線が浮かび上がる。


「来るぞ、ルガ」


 警戒を強め、爪の出現する瞬間を待つ。マナの額の辺りに、黒く尖った先端が現れ、下に向かって行くに連れて、大きく突き出してくる。


「ラウダ!」


 ラウダは出て来た爪を咥え、力強く引っ張った。オオカミが強すぎるのか、力比べにもならないほど、ガンドルトの爪は容易くこちらの世界へ引き出されていく。

 爪の根元から、白い触手が見え始め、ずるずると伸びていく。ガンドルトも抵抗するように跳ねているが、どうやら上手く力が入らないようだ。

 伸びた触手をルベルが咥え、ラウダと力を合わせて引っ張った。

 ある地点を越えてから、詰まっていた栓が抜けたように、一気に白い巨体が目の前に流れ出た。

 表面は松明が反射してぬらぬらと光り、十本ある触手の中心にある円筒形の頭には、ひとつの大きな目がついている。

 ガンドルトは、その目でトガルたちを見ると、素早く触手を伸ばした。オオカミたちは素早く躱し、吠える。


「逃げるぞ!」


 トガルの声と共に、ルベルとラウダは触手を避けながら走り始めた。






 引きずり出されたガンドルトの後姿を見ながら、マナは仮定が真実であることを確信していた。

 あの花は、テイクルシアと繋がる他に、ガンドルトから姿を隠す効果がある。テイクルシアを覗き見た時、やつがこちらに気がつかなかったのは、そういう理由だ。マナはトガルたちに気をとられているガンドルトの脇を通り、梯子をあがった。

 上の階ではハムシが待機しており、作戦の開始を待っていた。


「うまくいったか」

「ええ、急ぎましょう」


 マナはハムシとユカナの一階へ走った。

ファルはユリクスたちと樽爆弾の点検を行っていた。彼は最後の点検を自分の手でやらなければ気が済まないのだ。優秀ではあるが、人を信じられない性格であるため、一番重要なところは自分で行う。

 その性質をマナは知っていた。樽にわざと細工を施し、彼をここに留まらせることは容易であった。

 必死の形相で階段を駆け上がってきたふたりを見て、ファルは作業の手を止めた。


「何があった?」

「ファル、ユカナの地下にガンドルトさまが出現しました!」


 ハムシの報告に、ファルは眉をひそめる。


「テイクルシアから出てこられたのか!? どうやって……」

「次のラルバを探しているのよ」


 マナが言うと、ファルは少し考えた。恐らく信じていないだろうが、わずかでも可能性があるのなら、と思っているのだろう。


「この目で見たい。ハムシ、ついてこい」


 ハムシを連れて、ファルは階段を降りて行く。これでこの広間にはもう誰もいない。ユリクスたちはリーヴァと共に外へ出ている。彼らに見張ってもらっているのだ。

 マナは真っ先に鍵穴のついた祭壇へ向かった。迷いなく懐から鍵を取り出し、鍵穴へとさしこむ。確かな手ごたえと共に、鍵を捻ると、がたん、と大きな音がして、緑色の光が外を覆った。

 あの地下の出入口は結界があっても通じている道だと信じていた。春になると湖から大量の水が流れ込み、ユカナの内部に流れるのだろう。泉と繋がっている水路もすでに探し当ててある。

 マナは結界の作動を確認し、二階へ上がると、樽爆弾を作動させた。逃げられるだけの時間はかかるように作られている。続いて一階でも同じように、外周を壊すように設置された爆弾に火をつけ、各階で同じ動作を繰り返しながら地下まで降りて行く。

 地下二階につくと、階下を覗きこむファルがいた。小さな声で何かぶつぶつと呟いているが、マナには関係のない話だ。


「ハムシ、いくよ」


 マナは地下二階の樽爆弾にも火をつけ、ハムシに言う。ファルは必死に祈りをささげているのか、マナのことを気にも留めていない様子であった。


「なにこいつ。どうしたの?」

「わからん。さっきからこの調子で、こちらの話も聞いていないようだ」

「ふーん」


 マナはファルには構わず、ガンドルトのいる地下三階へ向かって梯子を降り始めた。すると、それまで何の反応も示さなかったファルが、急にわめいた。


「ならん! ガンドルトさまを刺激するな!」

「ガンドルトさまは私のことなんか歯牙にもかけませんよ。ハムシも同様です」

「お前はガンドルトさまのことを知らないからそんなことが言えるのだ。ラルバを失った今、ガンドルトさまは全ての命を見つけ次第奪っていくのだぞ!」

「そうですか」


 そう言いながらマナは勝手に降りて行く。ハムシもそれに続いて、梯子に手をかけた。

 ハムシにも広間にあった赤い花を持つように言ってある。そのためふたりは何の問題もなく恨めしそうに水路の奥を睨むガンドルトの脇を抜け、地下の出入口から外に出ていくことができた。

 ファルが何か叫んでいるが、マナの耳には届かない。彼は何も知ることなく、ユカナと共に沈むのだ。それが、マナの復讐だった。

 夫の死はどこかの国の工作兵のせいではないか、とマナは初め疑っていた。戦争をやったのだから、誰かの恨みを買っていてもおかしくない。もし、これからも狙われ続けるようなことになったら、被害に遭うのは子供たちだ。少なくとも自分に納得できるまで、真相を探らなければならなかった。

 その結果、ファルが何人もの仲間を殺害していることを知った時には血の気が引いた。その理由もおおよそ共感できるものではなく、恨みというあやふやなものが、相手から自分に蓄積していくと信じているらしかった。

 ファルに夫が殺されたことを知ってから、マナは機会を伺っていた。いつか事故に見せかけて殺すつもりで、ラゴウの集落にいたのだ。


「始まったぞ!」


 突如、背後から爆発音が響く。ハムシの声に、マナは現実へと戻された。考え事をしながら走っている場合ではないようだ。

 ユカナが崩れたら、外にいるユリクスたちが橋を落とす手筈になっている。その前に素早く走り抜けなければならない。

 地響きと爆音が次々に起こり、後ろを見たマナの目に写ったのは、ガンドルトの触手で弄ばれる老人の姿だ。マナたちを追って梯子を降りたのだろう。

 あれではもう助かることはない。上階が崩れ、天井からぶら下げた爆弾が落ちて、ガンドルトの上に降り注ぎ、一斉に爆発した。洞窟を走りぬけたマナたちからも見えるほどにはっきりと、ガンドルトは砕け散った。白い身体の欠片が洞窟の内部にまで飛び散っている。中で動くものはなく、完全に殺しきれたのだ。

 マナとハムシが洞窟を抜け、しばらくすると、橋も落ちた。どうやら無事に、マナの計画がうまくいったようだ。

 湖へ出て、その岸辺に座り込み、マナは叫んだ。


「あーっ! すっきりした!」


 自分を縛りつけようとするものとは、戦う姿勢を見せることにしているが、それにしても疲れた。しばらくは人のことなど考えずに過ごしたいものだ。


「おれは戻るぞ。ユリクスたちが心配しているだろうしな」

「ええ、私はまだしばらくここにいるわ」


 ハムシが消えたあと、マナはかつてとなりに座っていた男のことを思い出して、静かに涙を流していた。ルカルの無念を晴らした。嬉しいという気持ちは意外なほどなかった。しかし、ただ漠然と、心に刺さっていたトゲが抜けたような、そんな爽やかな気持ちになっていた。






 トガルとルガはオオカミを走らせ、洞窟を抜け、湖へ出た。ガンドルトの処理はマナがうまくやるだろう。


「トガルさん、橋の方へ行きましょう。邪魔が入らないように見守らないと」

「ああ、そのつもりだ。だが、その前に、一番邪魔なやつが現れたみたいだな」


 ルガが吹いていた笛の音は、トガルを呼ぶためのものだったが、オオカミにはみんな聞こえている。それは当然、リーヴァのオオカミにも聞こえているはずであった。

 姿は見えないが、木々の間から気配を感じる。こちらの様子を伺っているのだ。


「リーヴァがいる。先に逃げろ」

「……嫌です。逃げません」


 ルガはかぶりを振った。


「もう、あんな思いしたくないんです。トガルさんを置いて逃げている間、どんな気持ちだったかわかりますか? それに、もうユカナでの用事は済んでいます。ここで死んだって、構いません」


 ルガははっきりとそう言った。強い決意を浮かべた表情をしており、何を言っても逃げはしないだろう。


「……わかった。だが、死んでもいいなんて言うな。お前はまだ若い」


 木々の向こうの暗闇でこちらを睨む気配が動いた。向こうも見られていると感じたようで、姿を隠しても意味がないと悟ったのだろう。

 湖の淵に、オオカミに乗ったリーヴァが現れた。その表情は緊張からか、強張っており、手には短弓を握っている。


「トガルさん……」


 彼は今にも泣き出しそうな、悲痛な顔を浮かべていた。知らない相手と仕事で戦うことはできても、同志である山狗のトガルとは戦いづらいのだろう。


「危うく死ぬところだったぞ」


 トガルは冗談めかして言った。彼は彼にできることを精一杯やった。それに対して怒ろうという気持ちはない。


「トガルさん、僕はこの北の大地を、そこに住む人に返してあげたいのです。そのために、ルガを討たせてください」

「おれの仕事はこいつを守ることだ。その提案は飲めないな」


 リーヴァが弓を構える。その照準は、明らかにルガへ向けられている。


「今退けば、まだ間に合うぞ。お前を追うのはおれの仕事じゃないからな」


 リーヴァは首を振った。


「……仕事を途中で投げ出すのは、山狗の恥です」

「そうだな」

「僕は戦います。トガルさんが相手でも、退くわけにはいきません」


 リーヴァは弓の弦を引いた。この距離なら、トガルが襲いかかるよりも早く矢を放てるはずだ。

 トガルは焦ることなく、ルガとの射線上に立った。これなら今のトガルでもルガを守ることができる。

 ルガは固唾を飲んで見守っている。こういう時にわめいたりしないのは、彼女のいいところだ。

 リーヴァは少し躊躇う様子を見せたが、やがて矢を放った。それを合図に、トガルはラウダを走らせた。左肩に矢が突き刺さるのも構わず、リーヴァへ接近し、飛びかかった。

 腕を喉に絡ませ、落下の衝撃と共に、深く押し込む。リーヴァは手に短弓を持っていたために防御が間にあわなかったのだ。

 背後から首を絞められ、逃げられないリーヴァは、腰にそなえた小刀を取り出し、トガルの脇腹を刺した。

 トガルの顔が苦痛に歪む。脇腹から血が溢れ、地面の雪を赤く染める。しかし、トガルは力を緩めることはなかった。リーヴァが気絶し、全身から力が抜けたところで、腕を離した。

 リーヴァの乗っていたオオカミもラウダに追い立てられ、どこかへ逃げていってしまった。どうやらラウダは翁のところにいる群れの中でも地位の高いオオカミだったようだ。


「……トガルさん!」


 ルガがルベルから降り、トガルの元へ駆け寄る。厚着をしていたおかげで傷は浅いが、それでも深く刺さっている。


「ルガ、ルベルの荷物に麻の布と酒がある。とってくれ」


 麻の布は、きつく巻くことで止血もできる。ルガの力では少し頼りないが、それでもないよりはいい。

 外套を脱ぎ、上着をめくって酒をかけて消毒する。そして、その上から麻の布を巻いて、ルガの全力で締めてもらう。なんとか血を止めることができて、トガルはルガに助けられながら立ち上がった。ここまで休まず走り続け、こんな怪我をしてしまうと、もう自力で立ち上がることができなかった。


「よく、途中で声をあげなかったな」

「トガルさんを信じていますから。邪魔はしません」


 この数日間で、ルガはトガルのことをよく理解しているようであった。トガルは苦笑して、ルガを見た。

 はた、と目が合い、ふたりとも恥ずかし気に声を殺して笑った。


「ユカナがどうなったか見に行きましょう」

「ああ、そうだな」


 オオカミたちを連れて、ふたりはゆっくりと歩き始めた。

 ユカナは美しい光の幕で覆われていた。橋が落とされ、塔の根元で白い触手が瓦礫に押しつぶされている様子がよく見える。

 ユリクスたちはトガルに友好的ではなかったが、ここで争う気もないようであった。


「あれが、ガンドルトか……」

「完全に死んでしまったようですね。マナさんの計画通りに」

「あの女は何者なんだ?」


 そんなふたりの会話を遮るようにして、ハムシが現れた。


「よう、山狗さんよ」

「お前は、あの時の巨漢か。その手の仕返しでもするか? 今ならいい勝負になる」


 トガルが言うと、ハムシは折られた右手に視線を移したあと、鼻を鳴らした。


「いらねえよ。個人の勝ち負けなんざ、小さなもんだ。おれはもっと大きなものを手に入れた」


 ハムシはユリクスたちをまとめ、撤退の準備を始めた。どうやらもう、トガルたちに関わる気はないようだ。

 遅れて、マナも戻ってきた。彼女も怪我ひとつなく、無事に脱出できたようであった。


「マナさん、生きていたんですね」

「ええ、なんとかね。ふたりとも、助かったわ。敵の私たちに協力してくれて、ありがとう」

「いえ、マナさんには助けられていますし、これで貸し借りなしだと思います」

「強気ね。まあ、いいわ。そういうことにしておいてあげる。じゃあ、私は彼らと一緒にラゴウへ戻るから。もう二度と会うことはないでしょう」


 マナはユリクスの中の体の大きな男や細身の男と三人組になり、隊の後ろを少し離れて歩いて行く。

 もうじき日が暮れる。トガルはルガとここで一晩明かして帰ることに決めた。すでに体は限界で、今にも気を失いそうだった。

 泊まれそうなところを少し探すと、ユリクスの誰かが使ったのであろう、簡素な仮小屋を見つけた。

 夜闇に覆われる前に火を起こし、残り少なくなったルベルの荷物からシカの肉を取り出す。


「これで、全部終わったな」

「……はい。もう、誰かを犠牲にしなくても、この北の大地は、大丈夫ですね」


 ルガの顔に火が反射して、てらてらと光る。


「こう言うと、おかしいと思われるかもしれませんけど、私、この旅が楽しかったです」


 ぽつり、と呟いたあと、ルガは慌てて手をばたばたと振った。


「すみません! すごく大変だったのに、こんなこと言っちゃいけませんでした! 私、何言ってんだろう!?」


 何度も頭を下げるルガに、トガルは首を振った。


「楽しかった、か。いいじゃないか、ふたりとも無事なんだからな」


 そう思える人間でなければ、途中で怖気づいて逃げ出していたに違いない。最初から命を捧げている人間にだけ思える感想なのかもしれない。


「結界も張ったし、もうルガの仕事も終わりなんだろう?」

「そうですね。これから、教会にこのことを報告しに戻らないといけません」


 ガンドルトが死んだとなれば、教会も大騒ぎになることだろう。しかし、トガルの言いたいことはそういうことではなかった。


「だったら、もう、名前、名乗ってもいいんじゃないか?」

「……あっ」


 ルガは考えてもいなかった、という顔をした。生きている間に使うことはないだろうと思っていたのだろう。


「ええと、なんだか、恥ずかしいですね。ルガって役目が、もう私の名前になっていましたから……」


 彼女は指先で頬をかいた。火照った顔で、視線を不自然に動かしている。


「あの、呼んでもらってもいいですか? 自分で言うの恥ずかしくて」


 リンナはそう言って、トガルにおずおずと頼んだ。


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