ダークヒーロー
翼は自分の目を疑った。
転げ落ちる寸前に伸びた右腕は空振りに終わるだけだったはずなのだ。
だがどうだろうか。
その腕を翼よりも太い腕がしっかりと握り返しており、落ち行くだけだった運命を繋ぎとめていた。しかもその相手が、2度の不幸を運んで来た髭となれば信じられないのも無理はないだろう。同時に存在自体を忘れかけていた男ではあるが、やっぱり生きていたかという思いもある。そして2度ある事は3度あるというのも本当なのだと実感する。
もちろん3度目の遭遇で起きている事の驚きは大きい。
目の前で起きているのは2度目までとは違う、どちらかと言えば逆の出来事になっているのだから。
心の中で夢ではないかと疑いたくなるのも無理はないといえよう。ただしそれが夢でない事は、ボロボロになった体から伝わる痛みが否定している。受け入れるべきなのだろうか。
――いや、まだ安心は出来ない。
助かったと思った瞬間にどん底へと落とすことほど、人に絶望を与えられるものはない。それが今だという可能性は十二分にあり得るのである。ならばそんな表情を見せてやるものかと、髭を睨みつける。だがその翼の小さな抵抗はあっけなく無駄に終わった。
髭はニヤリと笑ったかと思うと、一気に翼達を安全圏へと引っ張り上げてくる。
翼もまさかの行動に一瞬驚くが、元より抵抗する力など残されていない上に抵抗する意味もない。素直に受け入れ、されるがままに身を任せるしかない。
数秒後には崖上に完全に上陸していた。
翼は四つん這いになり、ようやく取り戻した平地の感覚を味わいながら荒い呼吸を繰り返す。
もちろん目前に並ぶ心配事や疑問は山積みではあるが、今はそれを考える余裕がなかった。
髭の方も、そんな翼に対して何のアクションもする様子もなく、ただこちらを見下ろしていた。
互いに言葉がない時間が続いた。
そんな無言の3人を急かす様に、ただ雨が降り注ぐ。
どれくらい時間が経過しただろうか。
いつしか翼の荒かった呼吸も落ち着きを取り戻し、それに合わせるように雨足が弱まり、周辺には静けさが漂い始めていた。
そんな状況を待ちわびたかのように、会話のノックをしたのは髭野郎だった。
「×××。×××××」
やはり言葉は分からない。
ただこれまでの様に、こちらに敵意を向けるような言葉には聞こえなかった。もちろん優しさや慈愛が感じられるという事もないが、とても落ち着いている。いや、翼にはなんとなく悲しみが含まれているようにすら感じられた。
「うえから、みていたぜ。そう、いっている」
「えっ!?」
突然背後から、ぼそりと聞こえた声に翼は驚いた。
確認するまでもなく、そんな相手は1人しかいない。ずっと意識が戻ってこなかったフィスだけだ。
「つばさ、いまは、めのまえ、しゅうちゅうする」
フィスが髭から意識を背後に切り替えようとする翼を制するように言葉を伝えてくると同時に翼の服を、ぎゅっと握ってくる。たったそれだけの行為なのに、疲れ果てて何もかも受け入れて流されようとする翼に活力を与え、心の背筋を伸ばすには十分な効果を発揮していた。
そしてフィスは、その後も言葉を並べてくる髭の言葉を耳元で通訳してくれる。
もちろんこれまでと同じように拙い言葉ではあるが、言葉の理解出来ない翼にとっては十分な役割を果たしてくれた。それを更に翼が置き換えるならこうなる。
「(とりあえず、お前らの近くに居たトロールは上り側に走って行ったぜ。だからそれについては心配はいらねぇ。ここにいるのは俺達3人だけだ。おっと、俺も今は危害を加えるつもりはないぜ。さすがに俺もこれ以上は結末を悪化させるつもりはねぇ。互いに助かった命を大事にしようじゃねぇか)」
となるわけだが、髭自体が善人ではない事は重々承知しているとしても、今は敵意がない事はだけ確かなようである。翼としては「その元凶を生み出したお前が何を言っているんだ」と言い返してやりたい気分もあった。ただしたった今、助けられた事実がある。敵意を向けてきていない相手に素直に怒りをぶつけられないのは日本人の美徳なのか、それとも愚かさなのだろうか。単純な平和ボケともいうかもしれない。どれも言葉が分からないのだから返す言葉はなく、意味のない思考ではある。今はそれよりも急激とも言える髭の変化の方が翼には疑問だった。
理由を探す翼の瞳に疑問のヒントになる物が、髭の左手に握られている事に気づく。
それは帽子。翼も見覚えがある物だ。
――そう、昨日髭と一緒に居た、あの帽子かぶりの……
翼の視線に気づいたように髭も自身が握る帽子に視線を落とした。
お陰で表情はハッキリと見えなったが、髭の歯ぎしりが聞こえた気がした。
その感情を表すかのように帽子が髭の拳の中で小さくなる。
流石に言葉が無くても理解出来た。恐らく翼達と違って、髭は己しか生き残れなかったのだろう。だとしたら今の髭の気持ちが理解出来ない事もない。何故なら人は多くのモノを失った時に心に穴が空くからだ。それを埋める為に新たに生まれる感情は、絶望や喪失感や悲しみである。同時にそれらの感情を怒りへと変換させて、翼達にぶつけるという手段を取らないのは見た目以上に髭は理性が高いからかもしれない。もしくは圧倒的な悲しみが、そうさせている可能性はある。どちらにしても髭にとって他の二人は”大事な連れだった”事は間違いがなさそうである。例えば血は繋がっていなくても兄弟のように育ったのかもしれない。いや、本当に兄弟だった可能性もある。もちろん単なる悪友だったのかもしれない。それでも髭に大きな心情の変化を与えられる存在だった事が、翼にでも分かるくらいに重い空気を感じていた。
だから何か言うべきなのかと迷う。
ただ言葉の壁はやはり小さいものではない。
この世界に来てから覚えた言葉と言えば、例の交渉用語くらいである。まさかアレをここで口にするのは場違いもいい所である。恨みの消えない相手とはいえ、流石に無茶苦茶だ。なら沈黙をと思い始めた時に、集落での事を思い出す。
串焼きを買った時に店の親父が口にした言葉、食事場で何度か耳に入ってきた言葉、本を売却した時に奥へと消えていく爺さんがボソリと残して行った言葉。これらがどれも似ていた事に。
――恐らく
「……でんぶりる」
「……!」
「……!!」
翼の口にした言葉に背後からは何故知っているの!? というような服を引っ張る反応と、意外な言葉に驚いたように顔を上げた髭の反応が重なった。
翼がいま口にした言葉は恐らく感謝の言葉。集落で耳にしたどの状況でもそれなら合致する。恐らくは間違いないだろう。フィスにしてみれば教えた覚えもないのにと驚いただろうし、髭にしてみれば先ほどは助けたとはいえ、2度も襲撃を掛けた相手から聞かされるとは思っていなかったであろう言葉だ。
ただそれくらいしか思いつかなかった事もあるし、例え嫌な相手でも助けてもらった相手には感謝を告げるのは日本人である翼にとっては常識だと言ってよい。その考えを異世界だからと変える必要はないと思っての言葉だった。
そのこちらの感謝に眉を寄せて訝しげな表情を浮かべていた髭もしばらくすると先ほどとは違う、ニヤリという笑みで口元を歪めて
「(今回だけだ。次に会う時までにはたっぷりと金を蓄えておけよ!)」
と言葉を残して翼達の前から去って行った。
髭は口にした通り、次も襲う気は満々だという意思表示だろう。そうする事で今の感情を髭なりに吹っ切ろうとしたのかもしれない。だが確かに今の笑みには最初の笑みとは違って、瞳と口元が連動していなかった。笑おうとして失敗した人間の代表例である。つまり瞳の感情を隠す事が出来ていなかった。
先ほどの「2度ある事は3度ある」のことわざには疑問を持ったが、「眼は口ほどにものを言う」ということわざの説得力は十分に感じられたような気がする。ただそれが同じ人物から教えられるとは思わなかった。世の中は不思議なものである。この場合は異世界は不思議と言うべきなのだろうか。それでもどちらの世界でも人の心に大きな差はない事が証明された瞬間でもあったかもしれない。
遠ざかっていく髭の背中を見つめながら、今度こそ本当に終わったのだろうかという疑問を誰に問いかけたい気持ちになる。たぶん、フィスも同じ気持ちかもしれない。ならば問いかける相手は他を探すしかない。なら、あの黒き案内者にでも問いかけるべきかと見上げた空は、翼に対する返答であるかのように、いつの間にか晴れ上がり蒼い色に染まっていた。




