黒のルーレット
黒い鳥は翼の指笛に反応するように下り方向へと頭を向けていた。
それを相手からの了承だと信じるように、翼も同じ方向へと足を向ける。
普通ならありえない状況と選択だといえるだろう。
しかしありえない状況をこの数日で何度も味わってきている。今なら何かが起きても世界を疑うよりも自身を疑う。瞳のドアを拒絶という名の瞼で閉じる事を良しとせず、素直に頭まで情報を通してやる。それが出来なければ、この世界では生き残れないのだと理解し始めている。それにそんな事よりも翼にとってはもっと大きな疑問が生まれつつあった。
それは正にその視界に収まる黒い鳥についてである。
最初はフィスを背負いながら走るのに必死で気づかなかったのだが徐々にその異常さに、湧きあがる疑問は確信へ、そして畏怖へと変化していた。理由を簡潔にいうならば、黒い鳥が”崖の上”を飛んでいたからである。
一言に言ってしまえば大したことがない話に聞こえるかもしれないが、崖上までは100mには届かないとしてもそれに近い高さはある。そんな上空で黒い鳥は、翼が遅れる度に旋回して待っていてくれるのだが、時折崖の影に重なるのである。つまりそれは少なくても崖よりも高い場所を飛んでいる事になる。
翼は別に目の良い方だとは言わないが、両目ともに1.2の標準的な視力である。なのに、それだけの距離が離れた鳥を認識できるというのは、その異常さが浮き彫りになるには十分ではないだろうか。
当初は10m程の距離しか離れていないと思っていたから疑問として浮かび上がらなかったが、この距離でそう見えてしまう黒い鳥の大きさは一体どれほどなのだろうか。もしかすると自分がとんでもない相手に道案内を任せてしまったのではないかと、新たな恐怖が顔を出そうとする。恐らく、翼1人なら抑え込めなかっただろうが、今は背中から感じるフィスの体温が恐怖に対する盾を作ってくれていた。
「また俺は借りを作ってしまったかな?」
フィスが起きていれば「そんなことはない」と返答するだろう。それでも翼にとっては意識がないとしても、心強い味方であり仲間である事に違いない。
ただし同時に新たな問題の発生を感じているのも確かだった。
何故ならフィスにとって、翼の背中は乗り心地がいいものではないはずだから。
今の状況でこれは仕方がないとしても、とても寝ていられるような乗り心地の良い物ではない事は翼自身も理解している。
しかしどうだろうか、力なく翼の背中にもたれかかったままのフィスから何も反応はない。微かな呼吸音が聞こえているのだから、生きている事は間違いないとして、目を瞑れるような状況ではない。フィスにも異常が発生している事は疑いようがないと言えた。
――だけど、今はそれを確認している場合じゃない!
どちらにしてもこの渓谷から脱出しなければ、遅かれ早かれ濁流がやってきて2人とも命はないだろう。目の前の問題から目を背ける事は許されない。今は渓谷からの脱出を優先するしかないのだ。
その時だった。
まるで翼の心の中を見透かしたかのように背後から、明らかに雨とは違う聞いた事もないような轟音が聞えだしたのは。それは家すらも吹き飛ばす、巨大なハリケーンでも発生したかのような音。本能では振り返ってはいけないと分かっているのに、その本能に逆らって体が勝手に反応して振り返ってしまう。
そして視界に入ってきたのは……
津波。いや海でもないのにこの言葉はおかしい。だが一番しっくりときた。海外パニック映画にでも出てくる冗談の様な巨大津波。翼の視界でギリギリ認識出来る程度であり、距離は随分と離れている。だがその巨大津波の中には流木らしきものも見え隠れしている。恐らく人間程度が飲み込まれたら痛みを感じる暇もなく死んでしまいそうな勢いだ。
もちろん直ぐに死ぬわけではない。あくまでもあれに追いつかれて飲み見込まれてしまった時がジ・エンドである。しかし始まってしまったカウントダウンは翼を焦らせる効果を十二分に発揮していた。
「くそっ! ついに来たかっ!」
翼は振り返った事の後悔を吐き捨てるように、自然から生み出された破壊者に向かい悪態をつく。相手からの返答がない事は分かっていてたとしても、口にせずにはいられなかった。
もはや頼みの綱は黒き使者のみである。
一方通行を走っているのと変わらない状況ではあるが、追いかけるべく限界を超えた疾走を再開する。
その使者の方もこちらの状況を理解したかのように速度を上げた。こちらにも速度を上げろと急かす様に。
ただしこちらとしても速度を緩めるつもりはないが、上げる事は不可能である。
フィスを背負っている上に、昨日から走り続けている。疲れもピークと言っても良かった。本当にボロボロである。いつ膝が大地に落ちても不思議ではない状態だ。いま翼を突き動かしているのは背後からの無慈悲な破壊者からの恐怖と、同じく背後にいるフィスの命を背負っているという責任感から。元の世界では考えた事もない意識である。それだけにその意味はとてつもなく大きい。
だが……そんな翼の頑張りをあざ笑うかのように背後から死の音は容赦なく近づきつつあった。




