落ちるべき場所
翼達を奈落へと落とすために舞い戻ってきた重力が無慈悲に体を闇へと引っ張る。
まるで死神に足を掴まれたかのような感覚だ。
当然と言えば当然である。一度得たはずの安堵感が打ち消されれば、誰でもそうなるのではないか。
なんとか心が崩れなかったのは孤独ではなく、フィスという存在があったからである。
だからこそ可能性を捨てず、僅かな道を照らすべく高速で頭を回転させる。
まず地面に衝突までの時間。
赤鬼……いや、トロールが翼達の要る場所から地面に衝突する音が聞こえるまでにかかった時間は3秒程。長く見積もっても4秒もなかったはずだ。という事は現状は絶望的な高さではないかも知れない。
次に問題は足場だが音を聞く限りは都合よく川なんて事はなさそうだった。恐らくは岩場などの固い場所だろう。例え、着地に成功したとしても軽くない怪我する事は目に見えている。
ならばどうするか?
フィスの顔が瞳に映る。
彼女は苦悶の表情を浮かべながらも、こちらに向ける瞳には僅かな笑みが混じっている気がした。
そうだ。翼は知っている。その瞳を。何度も何度も見てきている。
――俺を信じている瞳だ。俺ならこの道の続きを紡いでくれると。
確かに1つの案が頭に閃いている。だから望みがないわけでもない。この方法ならば可能性がある。ただしノーリスクではない。それが翼だけの問題ならば何も考えずに実行していただろう。しかしリスクにはフィスに更なる負担が必要だった。
だが他の方法を掘り出す時間は残されていない。
例え更に掘る事でそこに金塊があると分かっていたとしても、今この瞬間の時間だけはダイヤよりも貴重なのだ。もはや迷う時間すら勿体ない。後は決断する勇気だけの問題だけである。フィスに更なる無理を強いる事になろうとも、互いに諦めない道を貫くためにそれを選ぶことを。きっと彼女も同意してくれるはず。彼女は逆にそれを支持さえしてくれるだろう。あるのは翼自身の罪悪感だけの話だ。
だから翼は後ろ髪を引っ張る何かを振り切るように、望みを叶えるためにフィスと繋いだ逆の手の人差し指で自身の右足を指す。
言葉を発する暇など無い。これで理解してもらえなければ、それだけでもう終わりだ。それでもきっとフィスならば理解してもらえると信じて。
そして……彼女はそれに応えてくれた。
先ほどとは比べる事も出来ない程の微かな声で何かを発した。
それは小さく、頼りない、消えそうな声。
だが間違いなく先ほどと同種の風が発生したのを感じた。
翼の指差した右足の裏に――翼の望んだものを――そう、空気の足場。
右足でその空気の足場を蹴る。
落下からの減速するために使うのではなく、加速する為に。
目指す場所へと向かうべく、前方へと。
同時にフィスを両腕で包み込む。
彼女をこれから襲うダメージから守るために。
次の瞬間――
どすんっ!!
耳に届いたのはそんな音と体に伝わる重い衝撃。
ただし決して固い物の上に落ちた音ではない。しかし着地の音でもある。
先に落ちたトロールの時とは似ても似つかない、柔らかさが混じる音。
この音を確認出来たという事は翼自身が死んでいない証拠でもある。
ただし代償は安くなかった。
肺から空気が全て漏れた様な感覚が襲ってくる。
体中の血液も逆流したのではないかと思える程に体内で暴れる。
更にそれだけで終わりではなかった。
続いて”バウンドするように”地面へと放り出されて視界を暗転させられる。
ただでさえ暗闇の中なのに固い地面に体をぶつけながら回転する状況は、これまでの全ての出来事を頭から忘却させるのは十分な威力を発揮した。
翼の残っていたのは体中から伝わる痛みと悲鳴、そして意識を失わない様にする努力だけだった。
どれだけの距離を落ち、どれだけの距離を転がっただろうか。
断定は出来ないが、もしかすると少なからず気絶していたかもしれない。
現状ハッキリとしている事は永遠にも感じた暗転は止まり、静かな闇夜が翼の周りを支配していた。
――もしかすると、ここはあの世なのか。俺は死んだのではないだろうか。
本当に助かったのだろうかという不安が、翼自身の生にさえも疑問を抱かせた。
しかし……
「おおおおおっ! いって――――――! まじかまじかっ!! でも……生きているぜ!!! 生き残ってやったぜ!!!」
覚醒し始めた意識に同期するように体中に大きな痛みが生まれた。それは生きている者の特権。
そして言葉通り体中が痛い。本気で痛い。死ぬほど痛い。それでも生きている。
だが本当にヤバイ怪我とは痛みを口にすら出来ないものだ。ならば、きっと大した怪我ではない。今は痛みを押し殺してでももっと先に優先すべきことがある。
そう、翼の腕の中に収まるフィスだ。
「おいっ! フィス、フィス! 大丈夫か!? おいしっかりしろ!!」
見た目的には外傷は見られないが、内蔵や脳が大丈夫だとは言い切れない。だから体を揺さぶることなく、仰向けに寝かせると、声だけで彼女に問いかけ続ける。
その声に反応するように彼女の瞼が揺れた。
「生きている……。良かった……」
安堵の言葉と共に翼は落ち着きを取り戻す。ただし安心するにはまだ早い。
背中からボロボロになったリュックを下ろすと、中からペットボルトと手ぬぐい代わりの布を取り出す。どうやらペットボトルから中身は飛び出た様子もなく、もしかすると布と一緒にクッションにすらなっていた可能性もある。現代日本の技術様様ともいえるだろう。
そのペットボトルの水を布に染み込ませると、フィスの額に優しくあててやる。反応は直ぐに現れる。
意識を取り戻した様子のフィスがゆっくりと瞼を開き、小さなその口を動かし始めた。
「つばさ……? わたしたち、たすかった?」
耳を澄まさなければ聞こえない程の声。しかしようやく訪れた静かな夜に遮るものはなく、翼の耳にハッキリと届く。
「そうだ。もう大丈夫だ。今度こそ、本当に助かったんだ。あれを見ろよ?」
そう言うと自分達が”バウンドした”地点を指さす。
その先にあったのは1つの、いや、一体と呼ぶべきか。今も記憶に新しい、こちらにとって脅威だった者の成れの果て。あのトロールが腹ばいになって横たわっていた。
そうである。翼はあの時、先に落ちたであろうトロールをクッションとして使う選択をしたのだ。だからトロールとの間に生まれていた距離を埋める為に、フィスに空気の足場を作らせて、それを蹴る事で前方への推進力を得た。
もちろん暗闇の中である。当然、ハッキリとした距離感などあるわけもない。一種の賭けではあったが同じサイズの生き物の上に落ちるわけではないのだ。クッションになる対象物の大きさを考えれば、それほどオッズは悪くない賭けだと思っていた。問題は指先の動きだけでフィスが理解してくれるか。これが一番の不安要素だったと言ってもいいだろう。その不安をどこ吹く風と吹き飛ばしてくれた相手が口を開く。
「わたしたち、いきのこった? あれに、かった?」
「は、はははっ。嘘みたいだけど、何とかなったみたいだな」
フィスのストレートな質問に乾いた笑いと一緒に返答にしてみると、避けたいはずの妙なフラグが加速して近づいてきた気がした。こうなってくると大抵のドラマやアニメでは敵は死んでおらず、立ち上がってくるパターンが常である。当然、翼の頭の中でも同じパターンの未来が見えた気がした。
「いやいやいや。いくらなんでもそりゃないだろ?」
気分を変えようと否定を口にしてみるが、押し寄せる不安が意志と関係なく、言葉の語尾を疑問符へと変えてしまう。
「フィスはそこで待ってろ。確認に行ってくる」
「つばさ、きをつけて」
「ま、任せて置け!」
もう弱気になっても仕方がないのだ。こちら側には逃げるだけの余力はもう残っていない。ならば確実な安心こそが翼達にとっては一番の安全保障になる。だから翼は不安を払拭すべく、少しだけ強気な言葉を残して、横たわるトロールとの距離を埋めるべく、体に鞭を打ちながらも足を動かし始めたのだった。




