上昇する景色
何度、最悪の更新をしただろうか。
答えは、この異世界に来てから何度も重ねてきた危機の回数分というのが正解だと思う。
ただし今回は極め付けだった。
理由は応えるまでもなくわかってもらえるだろう。
今までの最悪は翼自身の意志で回避や選択する権利がある程度は許されていた。しかし現状は回避するべき方法は見つからず、当然ながら選択権など無い。ただの闇と言っても良い景色が上へ上と流れていくのだけは理解出来る。
もちろん実際に景色の方が動いているわけではなく、翼自身が相反する方向へと落ちている。まるで翼自身の人生を表しているかのようである。まさに糞ッタレな人生だ。
多少なりとも喜べる点があるとすれば、最大の脅威となっていた赤鬼が無害となった事だろうか。奴はただ崖の向こうへと飛び降りた格好になった翼達と違い、かなりのスピードが付いていた為、大地を失った赤鬼は下へと落ちていく翼達を捕まえるどころか、こちらの頭上を飛び越えていく格好でダイブしていた。お陰でこちらとは距離が開いてしまい、もはや危害を加えられる事はない。つまりは互いに干渉しあう事は不可能であり、選択肢のない下降体制で表情を凍らせるだけの同条件になったわけだ。もはや有利も不利もなく、敵でも味方でもない。数秒後か数十秒後かにやって来る大地こそが互いの最大の脅威となりつつあった。
「くそっ! 飛行機にも乗った事がない俺が墜落死かよっ!」
悪態を付いたところで冗談にもならない悲しい現実から目を背けられない。翼の体重を支えてくれるものはなく、足元からは代わりに何もないという心細さだけが押し寄せてくる。普段当たり前にあるはずのものがないというのが、これほどに不安を煽ってくる事になるとは経験しなければ分からなかったであろう。何よりも更に下へ下へと引っ張ってくる重力が、ただでさえ大きな不安を加速させる材料となっていた。
翼の目では闇の下に広がる大地を確認する事など無理だが、確認できる瞬間が必ずやって来る。大地と遭遇する瞬間が。それが翼にとっては最後の出会いで最後の瞬間になるだろう。人生の結末が異世界の無機質な大地による抱擁だとは悲しすぎる未来である。
同じ死ぬなら誰かに看取られながら、日本人らしく畳の上で死にたいものだが、それは諦めるしかないのだろうか。果たして、この決断をした少女は何を考えて飛び降りたのかは分からないが、鼻デカチビのような死に方をするよりはマシだと判断しての行動だったのだろうか。
いや、ありえない。
そんな選択をしない事は翼が一番よくわかっている。彼女は何か希望を見出していたはずである。
だから翼は抗う事を諦めず、フィスへ向ける視線を強める。
そして確信する。
彼女の表情は死を目前にした人間の表情ではない。
運命に流されず、道を切り開く者の表情だ。
決して最後の時を迎える者が浮かべる表情ではない。
彼女の瞳からは揺るぎのない決意を感じた。
それに呼応するようにフィスが体に纏う青白い光が強くなっているように感じた。
何かをするつもりなのか?
この下降に活路を見出していたのか?
翼の疑問に対する返答を彼女は持っているのだろうか?
そんな心の声に対する答えは突然やってきた。
「……っ!」
声の主はフィスだ。声というよりも叫びに近いかもしれない。己の魂を吐き出すような声だった。
その瞬間に彼女の纏っていた光は拡散して、翼とフィスの周りを球体のような形で包み込み、圧倒的な風が球体の中を満たしたような感覚が襲ってくる。同時に下降する速度が急ブレーキでもかけられたかのように減速する。感覚的にはエレベーターで1階に到着した時の感覚に似ている。そして浮遊感はもうない。お陰で恐怖の代わりに安堵感が生まれる。恐らく現在、翼達はほぼゼロスピードになっているのではないだろうか。それは落下という死の未来を避けられた事を示す。
対して何の抵抗も出来ずに落ちていく赤鬼は、こちらとは上下というハッキリとした違いが生まれ、広がっていく。最後に見えた赤鬼の顔は狩人の表情などではなく、先ほどの翼と同じように何かの希望を求めながら、恐怖に追い詰められた者の表情に見えた。
こちらが狩る側に回ったわけではないが、まるで立場が逆転したように思えた。
そこからはあっと言う間の出来事で、翼の視界では確認できない闇の中へと赤鬼は吸い込まれていく。
数秒後には赤鬼の結末を伝えてきたのは瞳などではなく、耳に届く重い物が大地を揺らす音だった。例え強靭な肉体を持った生物だとは言え、流石に無事では済まない事だけは予想はつく。
「た……助かったのか……?」
あまりにもあっけない結末だった。
無意味にも思える抵抗を続けていた事が馬鹿らしくなるほどである。
ただし抵抗を続けたからこそ行きついた結末だともいえる。ならば多少なりとも意味はあったのかもしれない。
とはいえ、フィスによる機転と目の前の奇跡とも言える魔法の力が無ければ成立しなかったであろうことは間違いない。
「これを狙っていたのか。フィス、君は……?」
それに返答するように、フィスがやさしげな表情を翼に向けてきた。連続する危機を乗り越えた後で直後に、そんな表情を浮かべられる彼女は翼よりも遥かに肝が据わっているのではないだろうか。翼の方はというと急な結末に感情がついて行かない。生まれた安堵感を本当に手に取っていいのかと不安を拭い去れないのだ。もしかすると高速で伸縮を繰り返す心臓が正常に戻るまでは次の感情がやって来ることがないかもしれないと思える程だ。
だがそんな状況でも崖の上から持ち続けていた疑問が、訪れた安堵と一緒に漏れるように口から出る。
「これは魔法なのか?」
これは異世界だからこそ生まれる疑問であり、元の世界なら馬鹿らしくて口に出来ない言葉。
その疑問にフィスは無言のままで首を横に振ってきた。
つまり魔法ではないという事だろうか。翼からしてみれば、どう考えても魔法にしか見えないが何が違うのか。何よりも彼女は言葉で返答しないのか。湧いて出てくる疑問は泉の如くである。その次々と浮かび上がる疑問の中から、今もっとも大事な質問を選び出す。
「えっと、これって、さっきの崖の上まで戻れるの?」
これに対してもフィスは無言で再度、首を横に振る。またしても言葉が出てこない。
言葉を発する事が出来ない理由でもあるのだろうか。彼女にはまだ別に考えがあるのだろうか。
だが翼の今回の疑問に対する返答は別の形でやって来た。
フィスが浮かべていた、やさしげな表情が崩れた事により。
代わりに浮かび上がったのは酸素を求めるマラソンランナーの様な苦悶の表情。
そして徐々に一度消えたはずの浮遊感が戻ってくる。
翼は再度吐き出されつつある危機にフィスの変調の理由を理解する。
恐らく彼女は言葉を出さなかったのではなく、出す余裕がなかったという事と、そしてまだ何も終わっていないのだという事を――
「まじか、まじか、まじか! 嘘だろ嘘だろ!?」
翼が虚しい言葉で夜空を震わせる中、2人のダイビングの旅は再スタートを切ったのだった。




