夜空のロンド
試験は合図の言葉もチャイムもなしに始まった。
それは合図と呼ぶにはあまりにも乱暴なスタートだと言ってもよい。
赤鬼は敵である翼を煎餅にでもしてやるとばかりに、組んだ両手を振り下ろしてきた。身に受けなくたって一撃必殺である事は理解出来る。死ぬ事は確定と言える無慈悲な攻撃だ。
ただ避けなければ死ぬ攻撃が来るというのに、まだ翼は倒れたままだった。出来る選択肢は少ない。だから上空から迫りくる拳から横に転がる事で避ける。ただし狙ったわけではない行動。たまたま条件反射的に体が勝手に逃げたという方が正しいだろう。
次の瞬間、翼が元居た場所へと赤鬼の怒りが込められたであろう拳が落ちた。それはまるで小さな地震でも来たのかと思わせる程の振動が大地を伝い、翼の体へと送られてくる。とても生身の生物が生み出したとも思えないバカげた威力。例え小さな地震程度だと言っても、地球の人間では真似出来ない光景である。
た……助かったのか?
翼は安堵を覚える。まだ全く危機が終えたわけじゃないのにである。異常な状況続きによる一種の麻痺なのかもしれない。しかし当然ながらまだ早かった。攻撃側は手を緩める様子など無く、次の一撃を加えるべく、再度腕を天へと振り上げていたからだ。
「まじか……!?」
翼はこんな異常な状況の中で、何故こんな事になっているのだろうかと、悔しくて悲しくて怖くて泣きたくなる。だがそれは全てを終えて負けた者が味わうべき感情だ。翼はまだ終わったわけでもなく、翼の死は、フィスの死にも繋がる。それはとても受け入られないからこそ、先ほどの小さな抵抗をしたのだ。負ける事は避けられないとしても負け方が大事だ。フィスが死ぬ瞬間を見るなど、例え数日の付き合いだったとしても翼には受け入れられない。フィスの身を引き取った責任を最低限果たすべきである。人が聞けば「元自宅警備員如きが生意気な」というかもしれないが知った事ではない。元自宅警備員にも、かなり控え目だとはいえ、プライドはある。
「糞ッタレが! やれるだけやってやるさ!」
パチンと何かのスイッチが頭の中で入った気がした。もちろん気のせいだろう。それでも今はそんな気のせいであろうとも十分な切欠にはなる。
そんな翼の心の変化に気づいた様子もなく、試験官の赤鬼から2発目の拳が落ちてくる。気のせいか1発目よりも遅く感じる。今度は己の意思を持って転がり躱す。意外なほどにアッサリと。お陰で1つの仮定が生まれる。同時に次も躱す事が出来るかもしれないという明るい未来は見えた気がした。そして3度目の拳を振り上げた赤鬼から再度、爆撃とも思えるような攻撃が落とされる。威力だけは上がったように見える、更に力を込められたような攻撃。”だから”タイミングだけを計り転がり躱す。
やはり間違いない! 躱せる! 行けるかもしれない!
隠す事なく吐露すれば、最初は相手からの威圧に押されて考えるよ余裕もなかった。1発目を躱せたのは偶然と言っていいだろう。しかし2発目は自身の意志が加わっていた。そして3発目に至っては明確に相手の動きが読めた。今更だとは言え、考えてみれば不可能な話ではない。相手は知能が低い種族である事はここまでの行動が物語っている。そんなトロールが怒り狂って、本能のままに攻撃に移ればどうなるか。
――元々単調だった動きが更に単調になるだけ。
例えば、スペインの闘牛士が己の何倍もの闘牛から攻撃をヒラヒラと躱す事が出来るのはその為だ。なら目の前の赤鬼へと変化した相手も同じ事なのだ。当然ながら単調な攻撃に更に力を加えられ大振りになってしまえば、それだけ読みやすくなる。だから格闘経験がない翼にでも予測できたのである。ようは拳が落ちてくる前に今いる場所から移動する事で、理屈の上では躱す事は出来る。相手は小細工を入れる様子などは全く見られない。集中していれば何とかなるからだ。
冷静に考えるだけの余裕が出てきた翼は、3度も躱された事で何故当たらないんだと一瞬間抜けな表情を浮かべた赤鬼の隙を見て、いつの間にか震えの止まった足に「動け」と指示を送り、大地とお別れを告げる。その行動に逃げられるかもしれないとでも思ったのだろうか、赤鬼は慌てたように追撃を開始してきた。冷静さなど取り戻した様子はなく、単調さを加速させるように。
ただし寝転がったままでも躱せた攻撃。足を使えるとなれば難易度は下がるのは当然。次々と来る爆撃を躱しながら翼はこの状況を打破する為の手を探し始める。
とりあえず状況はマシになった。蹂躙されるだけの的から、逃亡者としての資格を得たと言っていいだろう。それでも受け身の立場である事は変わりがない。即死レベルの攻撃が止む様子はなく、問題解決方法を見つける前にこちらの体力が尽きてしまえば人間煎餅の出来上がり。つまり時間は無限ではなく有限なのである。
「くそっ! なにか……なにかないのか!?」
ハッキリ言って残されている時間は多いとは言えない。何しろ先ほどまで全力疾走していた跡である。実際に体は悲鳴を上げながらも何とか翼の意志に従ってくれている状態だ。元自宅警備員の体力なんてたかが知れている。社会復帰3カ月程度のリハビリ期間で人は簡単に変われるものではない。当然、いつ限界が来て倒れても翼自身も不思議ではないと感じていた。本来はネガティブな心と体を支えているのはフィスの存在のお陰だ。正直、人のためにここまで頑張れるとは思わってもいなかった。彼女は正に闇の中で光を照らしてくれる存在といえる。だから簡単に足を折るわけには……。
ちょっと待てよ?
翼が一つの可能性に気づいた時だった。
気が緩んだせいかもしれない。
体力の限界が近づいていたからかもしれない。
赤鬼が小細工をしてきたせいかもしれない。
喧嘩もまともにしたことがない翼が、これほどの死闘に巻き込まれる事に無理があったのかもしれない。
いや――背中のリュックの存在を忘れかけていたのが原因の多くだっただろう……。
次の瞬間、自動車すらもペシャンコにしてしまいそうなほどの爆撃が翼の背にあるリュックを掠める。
攻撃を受けてしまったリュックが、自身のショルダーストラップと繋がる俺を道連れにしようとするが如く真下へと引っ張る。
加速した。
本来は落ちるだけのはずの大地へと、逆向きに発射された宇宙ロケットの様に。
それは浮遊感などという言葉など無視した世界。
それは普通に生活していれば味わう事のない加速感。
それは絶望という言葉を頭に植え付ける悪魔の呪い。
そして――翼は先ほどお別れしたばかりの大地との荒っぽい再会を果たしたのだった。




