物語の誤差
なんとかトロールの攻撃を躱したとはいえ、地面に情けない格好で倒れたままだった。
それなのに場違いな思想が頭を過る。
なぜこんな事になっているのだろうか?
ハッキリ言って、この世界に来てから元の世界では味わう事の出来ない、何倍もの濃密な時間を過ごしている。元々自宅警備員だった人間が図書館警備員になった程度で随分と調子に乗った発言だと、誰かが指を差しながら笑い出しそうな話かもしれないが、翼と同じ年代の人間ならそれほど差がないだろうと言い返したい。元の世界の数年分の経験差など、こちらの世界での経験に比べればクソみたいなものだ。
例えば、元の世界で肌の色が違う人種は数多くいても、空想の世界でしか見られないはずの住人の話など他人にすれば「寝惚けてんのか?」と返ってくるに違いない。だが夢でも妄想でもなく、実際に出会った現実は海外旅行者や帰国子女等の経験など比ではないだろう。ましてや、その異文化との交わりは学者達からすれば一生をかけても構わない程に貴重な体験ではないか。しかもフィスという存在により、言葉の壁を短期間で乗り越えられた事は奇跡と言っても決して言い過ぎではない。まるで何かに導かれたかのようである。
ただし経験したくもない経験とは、そういう新しい経験に常について回る付属品だと言っていいだろう。それは短期間で2度も遭遇する事になった髭であったり、今の目の前にいるトロールという怪物であったりするわけだが、少々リスクとリターンのバランスがおかしい気がするのは、翼が自宅警備員という世間から隔離された世界の住民だった事から来る、人生経験不足による勘違いなのだろうか?
「いやいや……いくらなんでも、この状況はひどすぎるだろう」
思わず洩れた言葉と一緒に涙も出そうになる。
理由は今更と言えるかもしれないが、超ハイリスクとして人生の扉に鍵を掛けようとするトロールのせいである。もっとも、そのトロールに鍵などという道具を使いこなせる知恵はないだろう。食欲と湧き出る感情に流されている現状から考えれば文明人などとはとても言えない。多少なりとも文明の言葉が理解出来るなら集落で見かけてもいいはずである。それが人里離れた場所で他の人種を餌にしている時点で、形的には人と言えなくもないとしても本性は別物だという事だ。そういえば何かの物語でトロールとは「鬼族」だと聞いた事がある気がする。こちらの世界でも同じような扱いなのだろうか。ならば人を食らうのも説明がつく。ただ追加として、その鬼族に大きな変化が表れた事が翼にとっては更に問題を大きくした。
きっと鬼は翼からの何度かの抵抗を受けて怒りが沸点に達したのだろう。知能の低い生物ほど、その沸点は低いと言われているが目の前の鬼はそんなものは既に超えてしまってに頭から湯気でも出てきそうな勢いである。その証拠に――起き上がろうとする鬼の肌が真っ赤に変化していた。これぞ昔話で聞く「赤鬼」に違いない。豆でもあれば投げつけたい光景だ。ただ目の前の赤鬼には、正に豆鉄砲程度の効果しかないだろうが。
「……ちょっと落ち着こうぜ? クールダウンだ。冷静になって話し合おう」
もちろん会話など通じるわけもないだろうし、通じたとしても聞く耳を持ちそうにもないのは理解している。だが人間はキャパを越えた状況に陥ると口が勝手に訳の分からない言葉を紡ぎだす。翼の口にした言葉も何かのドラマやアニメでピンチに陥った人物がよく口にするセリフ。今の状況がそれに似ている為に、映像をフラッシュバックするかのように登場人物たちのセリフを代弁してしまった形になってしまった。しかも交渉の余地のない相手に対して。どうやら翼は自分で思っている以上に混乱しているようだ。
そんなこちらの心を追い込むかのように鬼はその大きな瞳をギョロリと翼に向ける。人生でもなかなか味わう事のない、その視線の意味は1つしかないだろう。
――殺気
どうやら翼は餌から邪魔者、そして明確な敵へと昇格させられたようだ。受けてもいない試験を強制的に通過させられたような気分。更に2次試験まで準備済ときている。その2次試験の落ちれば地獄、受かれば天国だろうか? それじゃ、どちらもあの世だ。どうやら今のネガティブな状況が翼の心を棺桶へと誘っているのかもしれない。しかも開始の時間は目の前に迫っている。ただこんな状況だというのに「鬼の物語」の1つが、ふと頭の中に思い浮かぶ。
一寸法師
誰もが聞いた事はあるだろう有名な物語だ。その物語の中で鬼相手に一寸法師は”針一本”で挑んで勝ったという。空想だとしても完全に話の盛り過ぎだ。間違いない。いや、もしかすると翼も針が1本あれば戦えるのだろうか?
「馬鹿らしい……」
あるわけがない。先ほどの豆まきと変わらないレベルだ。物語を作った奴は本物の鬼を見てから考えやがれ。例え今、翼の手の中に槍が存在したところで勝てないだろう。目の前にいる鬼とはそういう存在である事は初めて遭遇した翼でも分かる事だ。
そんな翼の心など無視したように赤鬼は立ち上がり、両手を組み合わせると、ゆっくりと高く闇夜の空へと振り上げた。どうやら試験開始の時間らしい。受験者の都合などあったものではない。
そして――1人の図書館警備員に向けるには過剰という言葉すらも生温い一撃が今、翼の頭上に降り注ごうとしていた。




