拡大し続ける危機
翼とフィスはクソ野郎3人と対峙していた。
状況は良いとはお世辞にも言えない。むしろ最低にかなり近いと言っていいくらいである。
原因は考えるまでもなく、必要のない縁を強烈な押し売りで叩き売りしてくる髭のせいだ。最初の出会いの時に本当の意味でのトドメを刺してけば、今の風景が翼の瞳に納まる事はなかったのだろうか。問題は人の命を奪うなどと言う度胸が自身にはないと断言できる事だが、例えなかった未来の選択肢だったとしても後悔はやって来るものだ。
「フィス、下がってろ。俺が合図したら迷わず逃げるぞ……」
「にげる、ですか?」
「そうだ。逃げるっだ」
普通ならモロバレな作戦伝達だが、ここで日本語を理解出来るのは翼とフィスだけである。よってどれだけ相手に聞こえようとも問題はない。問題なのは逃げる為の作戦の方だ。恐らく成功とまでは言わないが時間は稼げると踏んでいる。ただ稼げる時間がどの程度なのかが読めない。それは相手の警戒心の強さがどれだけ心に根付いているか。だがもう迷っている時間はない。髭達がこちらとの間を詰めるのに躊躇している今以上のチャンスはないだろう。
翼は懐から例の物を取り出す。
前回もお世話になった唐辛子スプレー。それを奴らに向かって撒き散らす。
「今だ! 行くぞ!」
何が起こっているか分からず、彼女は困惑の表情を浮かべながら共に走り出す。
その翼達を髭達は”追いかけてこない”。
当然である。唐辛子スプレーの知識を持っている人間ならいざ知らず、未知の道具で痛い目にあっている事は仲間にも伝えているだろう。その威力が身に染みている髭自身も忘れられない出来事に違いない。ただし、有効射程範囲や効果時間まで分かるはずもない。だから、”届くはずのない”距離から仕掛けられた攻撃に大きく後方へと下がっていた。恐らく、直ぐに追いかけてくる事もないだろう。
不明確な執行猶予を最大限利用すべく、翼とフィスは振り向く事なく必死に走り続ける。体にまとわりつく空気さえも邪魔に思える程に。
ただ走る走る走る。
全力で走り続ける。
後方など気にしない。
ただただ、前に前へと進むための疾走。
どれくらい走り続けただろうか。
実際には数分も走っていなかったかもしれない。長い期間を自宅警備員として”勤務”していた翼にとっては、とてもとても長い時間走り続けた気がする。それを証明するかのように体が心臓が肺が、見えないはずの空気の中から酸素を求める。それは同じく体を共有する口と鼻にも仕事を迫る。だが穴の開いた浮き輪のように取り入れたものが無為に抜けるだけで空回りしている様にすら思えてくる。限界は近い。
そんな翼の手を隣のフィスが引く。どうやら見た目だけとはいえ、ロリっ子……いや、この世界の女性よりも翼は体力がないらしい。こんな事ならペットの散歩くらいでもしておけば多少は結果が違ったのだろうか。ちなみに家に犬は居なかった。猫ならいた。猫でも散歩に付き合ってくれたのだろうか。
いやいや、今はそんな場合ではない。
酸素不足からか別の世界へ行ってしまいそうな翼の心を読んだかのように、こちらとは違う足音が耳に届き始める。もちろん確かめるまでもない。相手は髭達しかいない。それを十分に理解した上で翼は、遂に諦めの言葉を吐きだす。
「だ、だめだっ、もう駄目っ! これ以上は走れないっ!」
「だめっ! きけんっ! ここ、きけんっ!」
走る事で上気する翼とは違い、恐怖のためか迫る危険を意識させるフィス。確かに危険だが、その表情は極寒の大地にでもいるかのように真っ青である。過去に村が襲われた記憶がそうさせるのか、それとも髭達が単純に怖いのか、酸素の足りない現在の翼の脳では判断が難しい。
「フィス……き、きみだけでもっ、にげるんだっ!」
仕方がない。足を引っ張っているのは翼の方だ。フィスだけなら逃げれる可能性はある。それに最悪、荷物を全部渡せば見逃してくれるかもしれない。もちろん高いとは言えないが望みがないとは言いたくない。
だがその言葉さえも否定するように背後の近い距離から、奴らの声が聞こえる。
――追いつかれた!
意味は分からないが「ここまでだ」とでも言ったのではないだろうか。
翼は諦めたように足を止めて振り返ると予想通りに髭達が直ぐ背後に居た。
「×××っ! ××っ! ×××っ!!」
相手は感情を込めた声を翼に向けてきた。内容は分からないがこちらにとっていい言葉であるとは到底思えない。ただ……
「はぁはぁはぁ、お、おいおいっ、お前らまで真っ青な顔でどうしたって言うんだよっ!?」
そうなのだ。髭達もフィスと同じく走った事による上気など見られず、真っ青な固い表情を浮かべている。もしかすると、この世界の人間達は疲れると真っ青になる体質なのだろうか。だとすれば疲れているのは翼だけでないと、微妙な孤独感から解放される気もする。
そんな翼の手を引っ張り続ける手がある。確認するまでもない。フィスだ。逃げろと言ったのに彼女には翼を置いて行くと言う選択肢はないらしい。嬉しくもあるが愚かな行為である。それを言った所で追いつかれている状況では既に無駄かもしれない。なら、もう一度時間稼ぎをするしかない。
「ダメ、逃げる」と繰り返すフィスを横目に翼は何かないかと考える。
最初に思いついたのはもう一度唐辛子スプレーをかけると言う選択。しかしいくら髭相手とはいえ、2度も見せられた攻撃が通用するのだろうかと疑問が残る。
ではスタンガンは?
これも微妙だ。前回は相手の視界が潰れていたから通じただけ。今の状況ではタダの射程距離の短い武器である。普通に考えれば翼よりも強いであろう相手に有効とは思えない。仮に当てたとしても、その隙に他の2人にやられて終わりである。
他に何か、他に何かないのだろうかと考えながら、暗くなり始めた風景を目にした瞬間、もう一つの奥の手を思い出す。LEDライトのホルダーについた1つのアイテムを。きっとこの世界にない混乱を生み出すアイテム。
翼はフィスに「耳をふさげ」と言葉をかけると、それをLEDライトから外すと迷う事無く、発動させて髭達に投げつける。その瞬間――
ピーーーー! ピーーーー! ピーーーー!
と機械音が大音響で響く。
そう、翼が投げつけた物は携帯式防犯ブザー。図書館などに侵入した泥棒などに使う物である。その音は投げた本人ですら驚くほどにうるさい。
ただし……これが大きな間違いだった事を思い知らされるまでにそれほどの時間を要する事はなかった。
髭達が音から逃れるために耳を両手で覆う。
翼も同様に耳を塞ぎながらも逃走するためにフィスへとアイコンタクトを取る。
フィスは……耳を塞ぎながらも逃げる事を忘れたかのように小さな体を大きく震わせている。
その動揺の強さを伝えるかのように翼の手を強く強く握ってくる。
まるで髭以外の、もっと別の何かに怯えるように。
次の瞬間、ブザーの音は途絶えた。どうしてと確認する必要もない。髭達が踏み砕いたのだろう。
通常、生物は未知の物に対する何らかの畏怖がある。特にあのような大きな音を放つ物ならば、それは更に拡大される。本来なら大きな警戒心を持って対応すべきところを髭達は迷う事無く、破壊を試みた事になる。それは勇気という言葉だけでは片づけられない。
しかし翼はその行動の理由を考える事が出来なかった。いや、この場合は出来ないと言った方が正しい。その理由を耳を肌を足を通して感じるから。人の心にある種の動揺を生み出すには十分な威力を発揮するほどに。それは低く重い音であり、空気に微かな緊張と大地に振動を求める。
そして……奴らは俺達の遥か頭上から恐怖と言う挨拶を交わしてきたのだった。
「とろーる……」
全員が凍り付く中で、フィスの震える口から空想の世界の住人の名が漏れたのだった。




