影踏み
傾きかけていた太陽が時間の経過を知らせるかのように山の影に身を隠し始めた中、翼とフィスは掘った穴に医学図鑑を埋める事に夢中になっていた。お陰で背後から迫る存在から声を掛けられるまで無防備な状態を晒している事に気づかなかったのは愚かと言うよりほかない。
「×××……!」
意味は当然のごとく分からない。だが翼は突然、雷でも落ちたかのように体を大きく震わせて振り向く。理由は簡単。来る時に同じパターンで襲われているからだ。その記憶が過剰な反応を見せたのである。そして何よりも意味が分からなくたって”聞き覚え”がある声が脳を刺激したからだ。
そこに居たのは……
「やっぱり、お前だったか。どうやら嬉しくもない縁に恵まれているようだな、俺は」
相手に分かるはずもないのに思わず翼は元の世界の言葉をもって返答してしまう。
その返答を向けた相手とは……忘れもしない”髭”の野郎だった。
前回と違って、いきなり襲ってこなかったのは翼に対する警戒心か、それとも……
「×××っ! ×××××~~~~~!」
今のは言葉が分からなくても予想が出来る。恐らくは「ここで会ったが3年目!」とでも言ったのだろう。もっとも言葉を聞かなくても、怒りと欲が絡んだギラギラとした瞳を見れば理解出来そうでもある。
「つばさ、あれ、しりあい?」
突然の来訪者に怯えを見せながらもフィスは短く最低限の質問をしてくる。
ただし――
「覚えはあるけど知り合いじゃないな。知り合いたいとも思わないけどな」
「あれ、すごく、おこっている。かみつくかも」
フィスに言われなくても既に怒っているのは分かる。更によく見れば、まだ残る額のスタンガンによる傷は消えていない。傷が消えてないのだから翼が何度も電撃ショックを与えた記憶も薄れておらず、それが怒りとして向けられているのであろう。こちらからすると正当防衛なのだが、人を突然襲ってきたような奴に通じる理屈ではないのだろう。所詮は髭なのだ。
「しかし……髭の野郎、噛みつくのか?」
非常に原始的な攻撃ではあるが、怒りの為か剥き出しにしている歯を見ると可能性が高そうだ。翼は兎も角としても、フィスの綺麗な肌を噛むなんて性犯罪的行為だ。彼女の背中の傷を思い出すと、あれ以上傷つけさせる事を許せるわけがない。
そんな翼とフィスの会話を無視するように、髭の野郎は言葉がわからなくても下品だとは分かる様な声で捲し立てている。どうやら今回も獲物として翼達を見ている事は間違いないようである。
ただ前回はこちらも運が良かったとはいえ、隙をついても倒せなかった相手を再度狙おうとするなど、少々おかしな話である。しかも今回は女性で小柄だとはいえ、フィスが加わっている。髭にとってはますます不利な状況のはずなのに何を考えているのだろうか。それともそんな判断が付かないくらいに、脳味噌まで髭が侵食していて、逝ってしまっているかもしれない。ならば今回もスタンガンでの再教育をしてやるしかない。
「ぶとらげらっちょっ! ほえーほえーあべしっ!?」
とりあえず翼は覚えたての、この世界の言葉を叩きつける。意味としては「御託はいいから取引を開始しろ」だったはずだが、相手を少しでも威嚇出来れば内容など気にする必要はない。もっとも向けられた髭は少々困惑した表情を浮かべたようがどうでもいい。
ただ髭はしばらく考え込んだように動きを止めていたが、それで冷静になる事が出来たのか、目を細めるとニヤリと口元を歪めると、それまでと打って変わって静かにゆっくりと言葉を口にし始めた。
しかし当然ながら翼に内容は理解は出来ない。
そんな翼の袖をフィスが引っ張る。どうやら通訳してくれるらしい。
「だったら、とりひき、いのち、かわり、ありがね、ぜんぶ、あと…………まざりもの、おいていけ、いっている」
「まじか、馬鹿正直に言葉通りに取引にしようってか……なんていうか威嚇のつもりが逆効果だったか。うん? でも”まざりもの”って何の事だ?」
翼の疑問にフィスは答え辛そうにして俯く。彼女にとっては口に出したくもない言葉なのだろうか。それに確かに”まざりもの”の言葉の前に一瞬空白があった。
翼は少し考え込んでみる。
ありがね……これは恐らく金の事だろう。ピークの時に比べれば半分以下になっているが、髭から戦利品として得た時に比べれば随分と増えている。これを置いて行けとは如何なるものか、この世界風に言うなら「髭如きにやる銅貨など1枚もない」と言いたい所である。逆に髭の野郎は迷惑料を置いて行くべきではないだろうか。全く持って馬鹿な話である。
しかし、翼は”まざりもの”には心当たりがない。最初に髭とあった時にも翼はそれを持っていたのだろうか。ただ隣で影を落としてしまっている、フィスの様子からすると彼女が持っている、もしくは関係しているものである可能性が大きい。恐らくは……だが今はどうでも良い事だ。
「フィス、あんなクソ髭の言う事は気にするな! そして髭の野郎に伝えてくれ。冗談を真に受けてるんじゃねーよ! 貴様にやるものなんて髪の毛1本あるわけねーだろ! ばぁーーか! ってなっ!」
それを聞いたフィスは恐る恐る顔を上げると頷き、通訳をする。翼が伝えてほしい嘲笑を含む言葉には聞こえなかったが、聞いていた髭の表情が熟れた果実の様に変化し始める。どうやら十分な成果は得られたようである。
しかし、それでも髭は襲ってこない。前回は不意打ちまでしたのに今回は慎重すぎるのではないか。それほどまでに唐辛子スプレーとスタンガンを脅威に感じているのだろうか。時間が経過した所で変わるとは思えない状況を何故選ぶのか。
その無言の疑問に返答するように髭が指を口元にもっていくと短く口笛を吹く。
――しまった!
翼は失態に気づく。前回が上手くいったから今回も上手くいくとは限らない。そして前回が髭1人だったから今回も同じだとは限らないという事を。
そしてその答えが正解である事を示す様に髭の背後の林から抜け出るように、2つの影が実体化した。1人はひょろりとした背の高い帽子かぶり男と、もう1人はやや小さめで鼻の大きなアンバランス野郎。つまりは今回は3人でお出迎え。髭は確実に仲間が揃うのを待っていたというわけである。頼んでもいないのに迷惑この上ない。髭のくせに学習能力があるとは生意気である。
思わず翼は戦力アップしてきた髭に対する苛立ちが表情に出てしまう。
対して髭は十分な戦力が揃った事に満足したような表情を浮かべると、あの言葉を口にした。
「ぶとらげらっちょっ! ほえーほえーあべしっ!?」
翼が先ほど口にした言葉。もはや通訳がなくたって理解出来る。
「クソ髭がっ!」
完全に逆転された状況に翼は、髭に対する評価を1段引き上げた言葉を吐き捨てた。




