2. 三つ目を、お受けします
朝の応接間には、東の窓から斜めに光が入る。埃ひとつない卓の上で、その光が所在なげにしていた。来客の予定というものは、部屋まで緊張させるらしい。
そこへ父が、茶ではなく壺を運んできた。
「お父様。それは何のおつもりで?」
「い、いや、侯爵家のお怒りなら、これで、その、お詫びの品に……」
「求婚してきたのは先方ですのよ。お詫びをするなら、あちらですわ」
壺は棚に返していただいた。父の背中が、壺より小さく見える。この人は母が死んでから五年、心配だけで娘を育ててきた人である。骨董の目は確かなのに、娘の縁談になると相場がまるで読めなくなるのだ。
約束の刻限――門の前に馬車の止まる音がして、それがちょうど時計の鐘と重なった。刻限に寸分違わず着く客は、早く着いて外で待っていた客である。
アルブレヒト・ラインフェルス侯爵、二十八歳。焦茶の髪、姿勢のいい長身。挨拶は短く、世辞がひとつもない。座る前に椅子の位置を直さず、出された茶の湯気を一度だけ見て、それから知的な瞳をキラリと光らせ、私を見た。所作に、余計な音がない人である。
卓に置かれたのは、貴族院の登記簿の写しだった。
「まず、弟の非礼を詫びます。あれは領地へ逃げたようです。見つけ次第、謹慎させます。そのうえで――道は三つあります」
当主は指を一本ずつ立てた。
「一つ。破談です。申し出た側の家門として違約金をお支払いする。ただしあなたには『金で片づいた令嬢』の名が残る」
「二つ目は?」
「弟を連れ戻し、履行させる。……これは、あなたへの侮辱が続くだけだ。私が勧めません」
「三つ目を、伺いましょう」
「花婿変更の条項です。同じ家門の当主または嫡流の男子が、花嫁側の同意を条件に、花婿の座を引き継げる。――つまり、私が履行に立つ」
「!?」――――。
沈黙の間に、私は算段を弾いた。
一つ目。違約金を取って逃げれば、それこそ座興の勝ち札のひとつだ。「壁の花、金で退場」――嗤った連中の帳面に、綺麗な落ちがつく。三年前の笑い話が、金貨の音つきでもう一度上演されるだけである。ありえない。
二つ目。逃げた花婿の履行など、罰にもならない。私が劇の続きを演じてあげる義理もない。
三つ目なら――。
嗤った連中は、これから侯爵家当主の婚約者となった女の前で、毎晩頭を下げることになる。壁際からは決して見えなかった、一番いい席である。
欲しいものの形が、これほどはっきり見えたのは初めてだった。私は嗤った誰かの不幸が欲しいのではない。あの連中が誰ひとり札を折らずに、頭を下げる客席で――一度も泣かずに、一番いい席に座ってみせたら――――いったいどんな景色になるのだろう。
「申し添えます」
当主が続けた。
「帰責の条項というものがあり、最初の求婚が賭けの余興だったと貴族院が認めれば、あなたは違約金なしで婚約を解消できる。物証が揃えば、ですが」
顔を上げた。この方は今、自分に不利な道を、先に教えた。
「……それは、わたくしに逃げ道を教えていらっしゃるの?」
「あなたには、知る権利がある」
「その道では、わたくしの欲しいものは貰えませんの」
「でしょうね。私は満座であの受諾を見て、王都で一番聡明な方だと思いました」
なぜか当主は微笑みさえ浮かべていた。
――言葉の裏書きを検める。癖である。
三年の壁際で覚えた作法だ。綺麗な言葉ほど、裏に別の名前が書いてある。お世辞なら、狙いがある。狙いがあるなら、視線が泳ぐ。泳がないなら、値踏みの間がある。
……何も、出てこない。
視線は真っ直ぐで、間は静かで、裏書きはどこにもない。裏のない言葉というものを、私は受け取り方を習っていない。耳の後ろが妙に熱くなり、扇の内側で指が一度、意味もなく折れた。この勘定は、何の勘定かしら?
「三つ目を、お受けします」
声は、思ったより落ち着いて出た。
「ほう……」
「ただし――条件がひとつ。私を、お飾りにしないこと」
言ってから、自分の欲の形に気づく。飾りなら、三年間ずっと壁の飾りだった。いいえ――飾りにすらなれない花だった。今さら上等な花瓶に挿されて黙っているために、あの満座で扇を閉じたのではない。
「では、こちらからもひとつ」
当主はゆっくりと私の瞳を覗き込んだ。
「あなたの目を、飾りにしない――その聡明さを存分に生かしていただきたい」
私は一瞬その真意を測りかねた。弟君をバッサリとやった私の力を何に生かせというのか? だが、生かせというなら申し分のない話である。
「いいんですの? バッサバッサといってしまいますわよ?」
「望むところです」
当主は嬉しそうに微笑んだ。
◇
同意の書付には、その場で署名した。借りたペンは手に馴染まないほど重く、それでもペン先が紙を走る音は、静かな応接間にやけに大きく響く。三日前、扇を閉じた音の続きが、この音なのだと思う。
当主はそれを持って、その足で貴族院へ向かうという。今日はちょうど、あの求婚から三日目である。
◇
その日暮れ、とある屋敷の遊戯室。「三日で泣いて逃げる」に張られた金貨三十枚が、若い紳士たちの間で音を立てて動いた。受け取る側も渡す側も、笑ってはいない。一番若いのが「兄君が出てくるなんて聞いていないぞ」と呟き、誰も返事をしなかった。見届けの届出を貴族院へ出したのは自分たちだ、という一点だけが、暖炉の火が落ちるまで、誰の口からも出なかった。
その夜――――。
父は棚の壺を眺めて、長いこと唸っている。
「……侯爵家のご当主とは、その、どういうお人柄なんだね?」
「まだ存じませんわ。ただ」
扇を膝の上で開いて、閉じる。
「嘘の値がつかない方のようですの」
三日目の壁の花は、泣きも逃げもせず、侯爵家の婚約者になった。
次の見物は、貴族院の公開閲覧日だそうである。




