第8話:包囲網と、夫としての流儀
「繰り返す!
侯爵邸を占拠した暴徒ども、直ちに武装を解除し投降せよ!
抵抗するならば、王国軍および聖教会過激派騎士団の総力をもって、一兵残らず粛清する!」
吹き飛んだ天井から見下ろす王都の夜景は、いつの間にか数千の松明と、冷徹に光る魔導兵器の砲口で埋め尽くされていた。
ガルフォード侯爵が事前に手を回していた国軍の精鋭、そしてリーゼロッテの復帰を快く思わない教会の過激派たちが、この爆発を「魔王の反乱」と断定して完全に包囲したのだ。
「ひ、ひひ……、助かった。国軍が来たぞ……! おい、魔王! 貴様らがどれほど不条理な力を持っていようとも、国そのものを相手に勝てると思うなよ!」
泡を吹いて気絶していたはずのガルフォード侯爵が、軍勢の気配に息を吹き返し、床に這いつくばったまま勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ガハハハハ! ゼノン様、あの下等な羽虫どもが、数の暴力で我らを圧殺するつもりのようですな! 素晴らしい、久々の大戦だ! このバロール、まずはあの先頭の隊長格から消し飛ばして参ります!」
四本の腕の戦棍を激しく打ち鳴らし、狂喜乱舞するバロールが地を蹴ろうとした、その瞬間。
「バロール。動くなと言っている」
ゼノンの冷徹な一言が、バロールの巨躯をその場に硬直させた。
ゼノンは夜会服の袖についた微かな埃を払うと、隣で眉をひそめているリーゼロッテを見つめた。
「リーゼロッテ。
これほどの軍勢を相手にするとなると、さすがに街の一部が壊れる。明日の朝、君がエルナと一緒に買い出しに行く予定のパン屋が巻き込まれては寝覚めが悪い」
「……ええ、そうですね。
あそこのクロワッサン、エルナの大好物ですから」
リーゼロッテは深く溜息をつきながらも、聖杖を優しく地面にコツンと突いた。
その瞬間、彼女を中心に、王都の半分を丸ごと包み込むような、淡く、しかし絶対的な純白の障壁が展開される。国軍の魔導砲が放った先制の光条が障壁に触れた瞬間、何一つの音も立てずに霧散した。
「国を敵に回す、か」
ゼノンは気絶しかけているガルフォード侯爵の前に歩み寄り、その胸元を容赦なく踏みつけた。
「勘違いするなよ、羽虫。私にとって、この国がどうなろうと知ったことではない。だが……」
ゼノンは懐から、かつて魔王軍の全権を示した印章——ではなく、恋愛指南書『愛妻家としての誇り』をそっと取り出し、ガルフォードの目の前に突きつけた。
「この指南書の第3章には【妻の安眠を妨げる騒音は、夫の怠慢である】とある。
君のくだらない陰謀のせいで、私の妻は涙を流し、愛娘は地下室で待つ羽目になっている。そして今、外の有象無象どもが、我が家の明日の朝食の平穏すら脅かそうとしているのだ」
「し、指南書……? 貴様、何を言って……」
「つまり、君たち全員、私の『家庭の平穏』の邪魔なのだよ」
ゼノンの瞳の奥で、漆黒の魔力が限界を超えて圧縮されていく。
国軍の精鋭も、教会の過激派も、そして目の前の侯爵も。
彼らにとっては国家の命運を懸けた大戦のつもりかもしれないが、元魔王にとっては、ただの「家庭内の害虫駆除」に過ぎなかった。
ゼノンは静かに右手を掲げ、王都の夜空に向けてその指先を向けた。
それは、かつて数多の軍勢を塵に帰した超位魔法の予兆。包囲する数千の兵士たちが、本能的な死の恐怖にガタガタと震え始める中、最強の夫による「夜の静粛作業」が始まろうとしていた。
第8話をお読みいただきありがとうございます。
国軍に包囲されてなお、ゼノンの判断基準が「明日の朝のクロワッサン」と「妻の安眠」という、完璧なブレない親バカ・愛妻家っぷりを描きました。
国家規模の危機を、あくまで家庭の事情として処理しようとするゼノンの圧倒的な格の違いを楽しんでいただけましたでしょうか。
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