第49話 返却と、順番
ペンを持ったまま、篝は机の上の元帳を見た。
さっきまでの白い紙より、そっちの方が重く見える。
角が丸い。何度も開かれて、閉じられてきた厚みだけがある。
白い紙みたいなよそよそしさは少ないのに、すぐには手を出せなかった。
マレイが元帳を開いた。
開く音は小さい。
そのまま、さっき空けた欄の行だけを指で示す。
「ここです」
短い声だった。
篝は身を寄せた。
古い字が並んでいる。
インクの濃いところと薄いところがあって、紙の端には爪で擦れたみたいな癖も残っていた。
誰かが何度も触ったものの方が、いまは少しだけ目に近い。
それが変だった。
昨夜の門の前では、何にも手が届かなかった。
なのに今は、誰かの指が触れてきた帳面の上を、ちゃんと追えている。
篝は空けていた欄へ、もう一度ペン先を置いた。
かり、と音が鳴る。
白い紙のときほど喉は細くならなかった。
ならなかったことに、少し遅れて気づく。
書く。
短い注記を、そのまま写す。
一行だけだ。けれど、最後の文字まで行くあいだ、篝は一度も手を止めなかった。
書き終えて、息を吐く。
自分がずっと息を浅くしていたことに、そのとき初めて気づいた。
埋まった欄を見る。
それだけで紙全体の形が少し落ち着く。抜けていたところに蓋がはまったみたいに見えた。
そこまで見てから、篝はまた変な感じに襲われた。
昨夜は、ひとつも動けなかった。
今は、たった一欄でも埋められる。
その二つが、身体の中でうまく並ばない。
「……そこまでで大丈夫です」
マレイが言った。
大丈夫。
さっきも聞いたその言葉が、また来る。
でも今度は、前へ押す声じゃなかった。ここで切っていい、と線を引く声だった。
篝は紙から目を上げた。
「全部じゃなくて、いいんですか」
こんなことを聞くのは変だと思いながら、それでも口に出た。
マレイは元帳を閉じた。
「今日の分としては、もう揃っています」
それだけだった。
励ましでも説明でもなく、終わりの位置だけが置かれる。
篝は書き終えた紙を見た。
最初に置かれたときより、少しだけ自分の手跡が増えている。
でも、それで何かが分かったわけじゃない。
ただ、空けたままではなくなった。
「……これ」
声が少し掠れた。
「戻してきます」
言ってから、篝はそれが頼みでも確認でもなく、ほとんど報告みたいな言い方だったことに気づく。
マレイは一拍だけ置いた。
「お願いします」
短い返事。
紙を持って立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る。自分が立ったことが、今度はすぐに分かった。
受付までの数歩は長くない。
長くないのに、歩いているあいだじゅう、足の裏だけが妙に意識に残った。
止まらないで前へ出る。それだけなら、まだできる。
受付の奥で帳面を見ていたリリアが顔を上げた。
「……預かります」
今日は、それ以上は足さなかった。
篝は紙を渡した。
手を離したあとで、ちゃんと離せたことに少し驚く。
リリアはもう紙へ目を落としている。世界はそこで止まらない。
篝は振り返った。
机は、さっきと同じ場所にある。
半歩だけ外れていて、半歩だけ静かだ。
そこへ戻る。
戻る理由を言葉にはできない。
でも、戻っていく足だけは止まらなかった。
机に着くと、次の紙はまだ置かれていなかった。
マレイは閉じた元帳に手を置いたまま、何も言わない。
その沈黙で、初めて篝は気づいた。
いまは、次を決める声がどこからも来ていない。
それでも、椅子の背に触れた手は離れなかった。
篝はゆっくり座った。
意味はまだ分からない。
昨夜、自分の足がどうして動かなかったのかも、何ひとつ掴めていない。
ただ、戻ってきた。
戻ってきて、もう一度ここへ座った。
そのことだけが、手のひらに残る薄い痛みみたいに、静かにそこにあった。




