第48話 写しと、机
机は、受付の喧噪から半歩だけ外れたところにあった。
半歩だけなのに、音の届き方が少し違う。
人の声は聞こえる。紙をめくる音も、ペン先が走る乾いた擦れも届く。
でも、それが直接こちらへ向かってくる感じは薄かった。
篝は椅子を引いた。
脚が床をこする。小さな音なのに、それが自分のした音だと分かるまで一瞬だけ遅れる。
机の上には、薄い紙の束が一つと、元になる帳面が一冊。
帳面の端はよく使われたみたいに少しだけ丸い。
紙の方は白い。白すぎて、まだ誰の手にも触れていないみたいに見えた。
「欄ごとに、そのまま写してください」
すぐ横で、マレイの声がした。
篝は顔を上げた。
マレイは机の端を押さえていた。
昨夜、自分を玄関まで戻したときと同じで、音を増やさない動きだった。
それなのに、もう帳面の向こうにいる。そのことが、胸の奥に薄く引っかかった。
「迷ったところは空けてかまいません。止まるより、先に進めた方が楽です」
それだけ言って、手を離した。
止まるより。
篝はその言葉を、少し遅れて飲みこんだ。
昨日の夜も、止まる暇はなかった。
止まらないまま、順番だけが決まっていった。
でも、机の上に置かれた紙は静かだ。
まだ何も決めていない白さで、篝の前にある。
「……はい」
返事をして、椅子へ座る。
腰が木に触れる。剣の重さが位置を少し探して、それから落ち着く。
ペンを持つ。
指は動く。握れる。
けれど、最初の一画をどこへ置くのかだけ、少しだけ遠い。
帳面を見る。
名前。日付。品目。数。短い語が並んでいる。
難しいことはない。
読めるし、写せる形だ。
篝は最初の欄へ、そっとペン先を置いた。
かり、と小さく鳴る。
それだけで、喉の奥が少しだけ細くなる。
紙の音だ。
ただの紙の音。
受付で鳴っている帳面の音と同じで、昨夜の本とは違う。
違うはずなのに、身体の奥だけが先に縮む。
篝は息を浅く吐いた。
吐いてから、肩に力が入っていたことに気づく。
刺激は小さい。
小さいのに、身体はまだ昨日の大きさで受け取ろうとする。
それが少しだけ、腹立たしかった。
書く。
一文字ずつ、欄の中へ置いていく。
字は崩れない。線も震えない。
ちゃんと書ける。ちゃんと書けるのに、書けている実感だけが一歩遅れる。
後ろで、リリアの声が上がった。
「はい、大丈夫です。順番にやります」
明るい。
早い。
その声で、誰かが一人、受付の前へ進む気配がした。
篝は視線を上げないまま、次の欄へ移った。
品目を書き写す。
数を書く。
その下の短い注記へ目を滑らせたところで、ペン先が一度だけ止まる。
止まるより、先に進めた方が楽です。
さっきのマレイの声が、今度は近いところで思い出された。
篝は空欄のまま次へ行った。
それで叱られる気がして、少しだけ背中が固くなる。
けれど、すぐには何も飛んでこない。
紙の上では、抜けた欄が一つある。
あるけれど、全体はそこで壊れない。
そのことが、少しだけ意外だった。
横から手が伸びた。
びくりとするより先に、篝は肩へ力を入れていた。
「そこ、あとで元帳を出します」
マレイだった。
指が示したのは、さっき空けた欄だった。
責める言い方ではない。ただ、順番を置き直すみたいに言う。
「……はい」
「いまはそのままで大丈夫です」
大丈夫。
その語は、今日だけでもう何度も聞いている。
リリアが言うと、前へ進ませるための声に聞こえる。
マレイが言うと、ここで止まっていい線を引く声に聞こえた。
同じ語なのに、少し違う。
篝はその違いを、頭で整理する前に、先に手の方で受け取った。
指先の固さが、ほんの少しだけゆるむ。
一枚目の終わりまで辿り着いた。
最後の欄へ日付を書き入れて、ペンを置く。
置いたとたん、手のひらに薄い痛みが残っているのに気づく。
強く握りすぎていたらしい。
紙を持ち上げる。
軽い。
軽いのに、それを渡す動きだけは少し慎重になる。
マレイが受け取った。
受け取って、紙面を上から下まで目で追う。
目は速い。けれど、速さを見せつける感じはない。
「……大丈夫です」
短く言って、紙を横へ置く。
「次を回します」
その言い方で、篝の喉がまた少しだけ細くなりかける。
けれど、今度は昨日の夜ほど深く落ちなかった。
回される。
その言葉は同じだ。
同じでも、いま机の上で動いているのは、篝をどこかへ閉じるための順番じゃない。
抜けた欄をあとへ回して、一枚目を終わらせるための順番だ。
それだけの違いだ。
それだけの違いなのに、身体はさっきより少しだけ息を通した。
後ろで、またリリアが笑っている。
「大丈夫です。順番にやります」
朝の受付は止まらない。
紙も動く。帳面も閉じたり開いたりする。
その中で、篝の前には、さっき空けた欄の元帳がそっと置かれた。
白い紙じゃない。
角の丸い、よく触られた帳面だ。
まだ少しこわい。
でも、一枚目よりは、置き場がある気がした。
篝はもう一度、ペンを持った。




