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三河の片隅で、家族を守る――その名はまだ誰も知らない  作者: 可可多


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第五十二話 春を待つ家 【第一部 完】

一


弥左衛門の居室を辞して廊下を進むうち、竹千代は、己の足取りがいつもより弾んでいることに気づいた。歩みに合わせて、腰の革が小さく鳴る。鞣したばかりの猪皮の匂いが、初冬の冷えた空気の中に、ほのかに立った。


松丸の居室の前で一つ咳払いをし、竹千代は襖を開けた。「兄上、ご覧くだされ」


文机に向かっていた松丸が、筆を止めて顔を上げた。竹千代は戸口に立ったまま腰に手を当て、胸を反らし、できる限りの得意顔を作ってみせた。「いかがです、なかなか婆娑羅でございましょう」


松丸はしばし何も言わなかった。目を丸くしたまま立ち上がり、竹千代の周りをゆっくりと一巡する。左右に据えられた鞘、艶を帯びた猪革、小ぶりな金具。松丸は腰をかがめ、環の縫い目を指でなぞった。「話には聞いておったが……実物は、また別じゃな。太郎兵衛とやら、まこと良き腕をしておる」


竹千代が満足げに頷いてみせると、松丸の肩が小刻みに揺れ始めた。堪えようとして堪えきれず、やがて声を上げて笑い出した。「自ら婆娑羅と名乗る者があるか。昔の婆娑羅大名とて、己でそうは申さなんだであろうに」


「ならば、わたしが名乗り始めるまでのことにございます」竹千代が胸を張ったまま答えると、松丸の笑いはいっそう深くなった。しばらくして目尻を拭い、ようやく息を整えた松丸は、弟の肩に手を置いた。「……じゃが、良い顔をしておる。その帯を待っておった者の顔じゃ」


それから、ふと声を落とした。「ただな、その言い草は、父上の前では二度と申すでないぞ。浮ついた物言いには、ことのほか厳しいお方じゃからな」


竹千代は神妙に頷いてみせたが、口の端が緩むのは止められなかった。


二


笑い声を聞きつけたものか、廊下にお妙の足音が止まった。盆を手にした彼女の後ろには、お蘭の姿もあった。


竹千代は待っていたとばかりに振り返り、腰に手を当てた。「お妙、見てくれ。婆娑羅であろう」


お妙は腰帯と竹千代の顔を見比べ、口を開きかけて、そのまま袖で口元を覆った。肩が震え、盆の上の湯呑みがかたかたと鳴る。「わ、若様……」それ以上は言葉にならず、笑いを鎮めるのに、しばしの間を要した。


その傍らで、お蘭は穏やかに目を細めていた。「よう似合っていますよ、竹千代」


竹千代が胸を張りかけると、お蘭はそっと言い添えた。「けれど、その帯を締めて出かけた時は、必ず無事に戻ってくるのですよ。帯だけが戻ってきても、母は嬉しゅうありませんからね」


冗談めかした声であったが、その底にあるものを、竹千代は聞き逃さなかった。「肝に銘じます、母上」


ようやく笑いを収めたお妙が、目尻を指先で押さえながら口を開いた。「どれほどお強うなられても、どのような帯を締めておられても、若様は若様にございます。……お妙は、それだけで十分にございます」


あの涙の夜を、竹千代は忘れてはいなかった。喉の奥が熱くなるのをこらえ、「ああ。ありがとう、お妙」とだけ答えた。


三


日が落ちるのが早くなった。夕餉の囲炉裏には赤々と火が熾り、鍋の中で、大猪の塩漬け肉が根菜と共にことこと煮えていた。座に着いても、竹千代は腰帯を外さなかった。


箸を取って間もなく、弥左衛門が椀を置いた。「時に、竹千代」


松丸の箸が止まった。お妙が目を伏せた。


「婆娑羅、とやらの話じゃが」


竹千代は危うく汁を吹き出すところであった。弥左衛門は眉間に皺を寄せたまま、囲炉裏の火に目を落としている。「廊下まで、筒抜けであったわ」


重い間が、囲炉裏を囲む一同の上に落ちた。竹千代が、いかなる詫びを口にすべきかと考えを巡らせたとき、弥左衛門の口元が、ほんのわずかに動いた。


「……兄の伊之助も、新しい拵えが出来るたび、儂の前で、そなたと同じ顔をして胸を張っておったものよ。血は争えぬのう」


松丸が噴き出し、お妙も袖を口に当てた。お蘭が、くすりと笑って一同を見渡した。「竹千代が生まれた日にも、父上は同じことを申されましたよ。えらい元気な泣き声じゃ、と」


「……お蘭」弥左衛門が咳払いをした。


竹千代は、その言葉をよく覚えていた。赤子の濁った意識の中で、この世で最初に聞いた、父の声であった。


笑いが引いた頃、弥左衛門は囲炉裏の火を見つめたまま、低く言った。「来春には軍議がある。据え置きと申しても、安堵はできぬ。……じゃが、今宵の飯はうまい。それだけは確かじゃ」


「父上」松丸が背筋を伸ばした。「来春の折衝は、儂が先に立ちましょう。弟一人に、背負わせはいたしませぬ」


弥左衛門は長男を見つめ、深く頷いた。それから一座を見渡し、ぽつりと呟いた。「……えらい賑やかな夕餉になったものじゃ」


四


夕餉の後、竹千代は縁側にいた平蔵を誘った。「平蔵殿、井堰まで、歩いてくださいませぬか」


平蔵は何も問わず、立ち上がった。


初冬の夜気は澄み、霜の気配が足元から這い上がってくる。里の屋根の上には、数えきれぬ星が瞬いていた。井堰に着くと、木組みが月明かりを受けて鈍く光り、せき止められた水が低い音を立てて流れていた。竹千代が木片に図面を描いたあの冬から、数えて幾たびの季節が過ぎたであろうか。


「……竹」平蔵が、水面を見つめたまま口を開いた。「ここから始まったのう」


「はい」竹千代は頷き、しばらく黙っていた。「来春、軍議の日を迎えれば、それがしは、まことに人へ刃を向ける日を迎えるやもしれませぬ。その時に、己がどうなるのか。……まだ、分かりませぬ」


平蔵は隻眼を細め、水音に耳を傾けるようにしていた。「覚悟とは、忘れぬことよ。そうであったな」


「はい」


「淵は独りで覗くものではない。来春の淵もじゃ。儂が居る。松丸様も、御父上も居る。……そなたは、独りではない」


竹千代は深く頭を下げた。


胸の内に満ちたものに、名はなかった。感謝とも、安堵とも、恐れとも違う。それらがすべて混じり合い、一筋の流れとなって、胸の底へ深く降りてゆく。井堰に堰かれた水が、やがて田を潤す力へと変わるように。重さであったものが、いつしか支えへと姿を改めていた。


「面を上げよ、竹千代」


かつて、同じ声で、同じ言葉を聞いた日があった。竹千代はゆっくりと顔を上げた。平蔵は、それ以上何も言わず、ただ星空を見上げていた。


家族を守る。


水路を引くための図面を広げたあの冬から、胸にある願いは、一つも変わっていない。ただ、守るべきものは、いつしか屋敷の内には収まらなくなっていた。老爺、甚助、太郎兵衛、里の人々。そして、この水の恵みを受けて冬を越す、数多の家々の灯。腰に双短剣の重みを確かめながら、竹千代は、来たるべき春の方角を、まっすぐに見据えた。


阿久居竹千代。いまだ幼名を名乗る、三河の片隅の郷士の次男。


やがて元服の折に改まるその名が、何を成し、何を背負うことになるのか。


それは、まだ誰も知らない。


〈第一部 完〉

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