痛みのない理想郷
仕立ての良い漆黒の三つ揃えのスーツに、首元には深く沈む夜の海を切り取ったような、濃紺のシルクのネクタイ。神城愁の身にまとう衣服には、糸一本にいたるまで一切の無駄も、生活感の丸みもなかった。
血色の薄い肌と、冷徹なまでに整った顔。その顔に掛けられた、細い銀縁の眼鏡の奥で、愁の瞳はいつも他人の感情を値踏みするように静まり返っている。彼は「記憶の調律師」。人の心から溢れ出
た絶望を、最も美しい形で買い取る職人だった。
人の心から溢れ出た絶望は、驚くほど美しいきらめきを放つ。
ピンセットで慎重につまみ上げ、遮光性の高いガラス瓶へと落とし込む。チリン、と涼やかな音が響き、淡い群青色の結晶が底に収まった。つい数秒前まで、目の前の男の脳髄を焼き、生きる気力を
失っていた「最愛の妻に先立たれた」という地獄のような記憶の残骸だ。
「……あ、あれ?」
男が、涙で濡れた顔をきょとんとさせた。
自分の胸に手を当て、何かを探るように首を傾げる。
「俺、なんで泣いてたんだっけ。何か、すごく悲しいことがあった気がするんだけど……思い出せないや」
「おめでとうございます。これであなたは救われました」
私は極めて事務的な、しかし引き締まった笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。
「あなたの脳から、生きる気力を奪う『致命的なトラウマ』を切り離しました。多少の記憶の前後不全や、感情の起伏の鈍化といった副作用はありますが、明日からは食事の味もわかるようになりま
すし、夜も眠れます。新しい人生の始まりです」
「そうか……そうだな! 理由はわからないけど、なんだか胸がすっと軽くなった。ありがとう、先生。本当にありがとう」
男は、ついさっきまで自殺を考えていたことなど嘘のように、すっきりとした、どこか子供のように無垢な笑顔を浮かべて、私の店を後にした。
カウンターの上には、男が記憶の「対価」として置いていった、分厚い紙幣の束が残されている。
忘却は、正義だ。
悲しみや苦しみなんてものは、人生を腐らせるだけの毒にすぎない。私はその毒を抜きとり、人々に平穏な明日を売る「記憶の調律師」だった。
この世界では、記憶は「感情の濃度」で査定されるため、「本気で愛した記憶」「本気で絶望した記憶」ほど高値で売れた。
「今日も誰かを救った」
愁は満足して、店の大きな木製の扉を閉めようとしたその時、店を告げる真鍮のベルが鳴る。入ってきたのは、かつて愁が愛し、そして「ある一言」で離れ離れになった彼女だった。




