Ep.5
私は息を呑んだ。あまりに唐突で現実感のない話なのに、白淵の目は冗談を言うものではなかった。
彼女は淡々と続ける。
「君たちの国は私にとって天国のような世界だった。清潔な水が飲み放題で、食べ物も安価に手に入る。街は清潔で糞尿が撒き散らされることもない。科学文明が発達し、車や飛行機、それにスマホにパソコン・インターネット……そして何より戦争がない。世界規模で見ればそうでもなかったけどね」
そこまで言って、白淵はかすかに笑った。
私は胸の奥でざわつきを覚えながら、その笑みの裏に隠されたものを探ろうとした。
「私の転生先の白淵家はいわば中流家庭ってやつ。父親はサラリーマンで母親はパートタイマーの主婦。まあ悪くない暮らしができたわ」
彼女の声は少し柔らかくなったが、その奥に影が残っている。
「最初はこっちの世界のことなんて忘れて幸せに生きてやろうと思った。私は元来自己中心的な人間だから」
彼女はそう言って、かすかに苦笑した。
「でも、ダメだったの。幸せになればなるほど、夢を見るようになったんだ。こっちの世界で私を逃がすために犠牲になっていった人たちのことを」
私は彼女の言葉に聞き入っていた。
「向こうの世界は本当に良い世界だったけど、でもやっぱり私はこっちの水を飲んで育った人間だったんだなって」
白淵の声には懐かしさと、罪悪感のようなものが混じっている。
「愛郷心ってやつなのか罪悪感だったのか、その両方か。こっちの世界をなんとか助けたいと思った。だから、向こう側からこっちの世界に戻る方法を探し始めた」
◇
「でもそれはとても大変なことだったの」
白淵はそう言って、ふっと目を伏せた。
「なぜなら、向こう側で私は魔法の力をほとんど失ってしまっていたのだから」
その告白に、私は思わず息を止めた。
彼女は続ける。
「こちらの世界では《紋晶》という魔法の力の根源があって、それによって私たちは自分の身体の外側に魔法を出力できるの」
そう言うと、白淵はすっと右手を持ち上げ、指先に意識を集中させた。
次の瞬間――ビリッと小さな火花のような電気がほとばしる。
「だけど、どうやら向こう側――少なくとも地球上には紋晶が存在しないみたいでね。身体の外に魔法を作用させることが、ほぼ不可能な状態だったの」
彼女の声音には苦みが混じっていた。
「加えて、身体の内側で魔法を作用させる力もすごく弱かった。こっちだと一人の体内で賄える魔力が、向こうだと数千人規模で集まって、ようやく行使できる量にしかならなかったの」
言葉を失った。
白淵が語る「向こうの世界」での無力さは、私には想像もつかない。
「人間一人の精神をこちら側に送り込むためには、どうしても魔法の力が必要だった」
白淵は静かに告げた。
「私は転移魔法の行使方法そのものは知っていた、自分が一度経験していたからね。
けれど、その魔法を発動するためのエネルギーを、あちらの世界で集めるのは困難だった」
その声音は、あくまで事実を述べるもののように淡々としていたけれど、私はそこにどれほどの無力感が込められているのかを感じ取っていた。
「だから私は……一度は諦めてしまった」
そう言って、彼女は目を伏せた。
影が頬に落ち、その表情の奥に沈む想いを私には覗くことができない。けれど、その一言に込められた痛みは、刃のように鋭く胸に突き刺さった。
「でも、どうしてもこちらの世界への募る思いを消すことはできなかった」
白淵の声が、微かに震える。
彼女は続けた。
「だから私は、こちらの世界での経験を物語の形でインターネット上に書き溜めるようになっていった。毎日毎日、こちら側での思い出を何年間も……」
私は思わず息を呑む。
彼女がどんな思いで筆を執っていたのかを想像すると、胸が締め付けられるようだった。
「今思うと誰かに知ってほしかったのかもしれない。私の想いと苦しみを」
淡々と語るその姿に、私は彼女の孤独を見た。
紙に、文字に、物語に縋らなければ溺れてしまいそうなほどの渇望と哀切。
「何年もその行為を続けていた、あるとき――きっと私には才能があったんだろうね」
白淵は小さく笑った。けれどその笑みは、自嘲とも誇りともつかぬ揺らぎを帯びている。
「私の物語が、ある人の目にとまったの。そう――彼方の聖女を作ったインディーゲーム会社の社長だったあの人に」
◇
「あの人は私をシナリオライターとしてスカウトしてきた」
白淵は静かに言った。
「“君には才能がある”……そう言ってくれた。そして、私の書いた世界がいかに素晴らしいか、どこに感動したのか、熱心に語ってくれたの」
その瞬間の彼女を想像して、私は胸の奥が少し温かくなる。
何気なく紡いできた言葉が、誰かに認められる。彼女にとって、それはどれほど救いだっただろう。
「自分が何気なくやってきたことが人に評価される……嬉しかった」
彼女の目がわずかに潤んだ気がした。
「当時、高校卒業前だった私は、他にやりたい仕事もなかったから、あの人の会社で働き始めた。最初はサブライターとして、開発中だった乙女ゲームの制作に参加してね」
白淵は遠い記憶を振り返るように微笑んだ。
「作った作品を即売会やダウンロード販売すると、それは思ったよりも売れて、私の書いたパートもすごく褒められた。あの時は……本当に嬉しかった」
そこまで語った彼女の雰囲気が、ふいに変わった。
私の背筋に冷たいものが走る。
「……だけど」
彼女の瞳が、闇の奥を見据えるように細められる。
「私は気づいてしまったの。こんなに何千人、何万人もの人たちが作品を手に取ってくれるなら――その人たちから、魔法発動のための魔力を分けてもらえばいいんじゃないかって」
私は思わず息を詰める。
白淵の声には、罪悪感とも希望ともつかぬ熱が混じっていた。
「続く二作目。私は制作チームに黙って、作品にある仕掛けを施した。……ゲームを遊んだ人間からエネルギーを回収する魔法陣を。シナリオテキストの中に、イラストの背景に、プログラムの奥に……それとは悟られないようにね」
彼女はそこで私を見据え、問いかけるように微笑んだ。
「すると、どうなったと思う?」
私は答えられない。ただ胸の奥で鼓動が早まっていく。
「二作目の売上本数は数万本。そこから徴収したエネルギーで……私は、あちら側の世界でも魔法を起動することができた」
白淵の声音には確かな光が宿っていた。
「私のなかでそれは……希望となったの」
◇
「……私は社長に正直に話した」
白淵は、まるで重荷を下ろすようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「自分がこちら側から来た人間であること。あの物語は私自身の経験を書き出したものであるということ。そしてこちら側に帰るために協力してほしいこと。勝手にゲームに魔力を徴収する仕組みを入れてしまったことも、全部」
その声には、覚悟と諦めがないまぜになっていた。私は思わず息を呑む。彼女はここまで、誰にも打ち明けずに来たのだ。




