下.関羽の戦い
関羽は山西の出である。解県は現在は運城市と呼ばれる場所で、古くから塩の産地だった。だから最近の彼は塩の密売人として描かれている。塩作り自体は民間で行われていて、作られた塩を地方官が買い上げて転売していたから、生産から販売までを地方官が握る鉄と違って確かに密造は容易だった。
地図を見ると、ここから南にある黄河までは中条山を越えて最短20kmほどだが、そうはせずに西に向かう。その道中には河東の中心地である蒲坂県がある。塩は地方の中心地に集積されて、ここから黄河の水運を利用して転売される。
中条山の標高は1000mを越えるところも有るが、低いところで300m程度だから、時間は掛かるが突破は出来るだろう。密輸には良い地形かもしれない。
その後、彼は殺人を犯して故郷を捨てた。追っ手を逃れるために長生という字を捨てて雲長に改名した。後漢時代の官吏は身内が推挙される体質が酷くなっていて横暴であったし、関羽の士大夫嫌いもあるから、民間伝承よりは役人殺しの方が理にかなっているように思う。
河東郡では160年代から180年代の間の一時期に董卓が太守になっていたようだが、あまり関係は無いだろう。郡守や県令よりも地元出身者からなる功曹の方に権限があったためだ。功曹は選ばれて成るが、有力な地元豪族の中から選ばれた。豪族は同姓集団であり、後漢代の大土地所有者である。そんな彼らが三国時代の名族だった。それに都に来る前の董卓にはそれほど悪い噂は聞かない。
関羽は出奔先で劉備の徒衆集めに応じると、すぐに護衛官となって一日中付き従った。劉備の徒衆集めは、馬商人たちから資金を貰って彼らの行商護衛をするためだったと陳氏の中国史には有る。
行商は密輸と同様いつも何処でもリスクの有る仕事だ。事故にあえば破産してしまうし、野生の獣や盗賊の危険もあった。反面その見返りは大きくて上手くいけば一財産を築くことが出来る。
名馬の産地は西域だが、そこまで行かなくても北の地で得ることが出来たし、ソグドの隊商たちが売りに来ることもある。劉備の出資者は中山の人で名前も漢人のようである。そして地理的に見れば、北に接する鮮卑と交易をしていたように見える。ここには北のシルクロードと呼ばれる道がある。
たびたび漢人の土地を略奪に来る彼らと交易は成り立つのかという疑問はあるだろう。しかし例えば匈奴の時代には彼らの王の証明があれば難なく通過できたという。
鮮卑の中には漢族と混ざる者も多く居たし、中原の混乱の中で鮮卑の中に逃れる者さえ居た。また異民族と通じることで多くの利益を得られるが故に、国情とは無関係に彼らと取引をすることは古今東西に在った。勿論、夷狄の地で得た馬を漢人の地で売るのだから特別なコネクションは必要で、誰にでも出来ることではない。十分な収入が期待できる。
180年代に黄巾党が跋扈するようになると劉備は護衛役を辞めて、武将たちに取り入って戦さを生業にしたと例の中国史にある。既に武勇の名声はあったというから、彼がそれまで護衛業だったというのも頷ける。
しかしこの頃、鮮卑の方も情勢が変わってきていた。強力な指導者である檀石槐が死に、鮮卑の内情も不安定になっていたという。内部対立が起きてしまえば、王による証明は信頼性を失ってしまう。
ところで黄巾党との初陣で劉備は叩きのめされてしまい、死んだ振りをして生き延びた。仲間に助けられて一命をとりとめ、しかしそれでも戦生業を辞めずに何度も敗北することになる。官職を繰り返し辞めながら、少しずつ上の官職を手に入れていった。
伝手に頼ったのは間違いない。最後には昔の学友公孫伯珪を頼ることになる。
武名を馳せた関羽だが五関の突破は勿論眉唾で、桃園で兄弟の誓いはしてないし、華雄と文醜は斬っていないし、顔良を切り殺したのも油断を狙った不意打ちだったと云われていたりもする。しかし髯の見事さや矢傷の切開治療をものともしなかったことは史実だ。
彼は攻め戦には滅多に連れて行かれることなく、度々守備を任されている。だが、拠点を守るというのが大役であるのは疑いない。曹操に対する荀文若がそうであったように、ときには天下の趨勢を決めたのだ。彼に手渡された鉞は軍権の委任を意味するからだ。
さて、関羽の水軍は何処から来たのか。荊州の撤退を始めるまでの関羽は水軍を使っていないから、恐らく荊州の水夫たちなのだろう。
前述したように水軍には指揮官だけでなく水夫の活躍が必要であって、関羽の使った水夫たちが荊州の水夫であったことは想像に難くない。昔から長江の水運を利用していた呉越の住民を頼るほかに、水軍を運用する期待は出来ないのだ。
それ以前から付き従っていた水夫はいないのか。例えば劉備が駐屯していた辺りの水夫はどうなのか。
劉備は拠点を何度も移っている。大まかにはタク郡、平原、小沛、下ヒが挙げられるが、黄河や長江からは何処も遠い。小さな川はあってもそこで集められる水夫の数は高が知れている。他の水運はといえば淮水支流の沂水があって、こちらは下ヒに面していた。
しかし問題は拠点を転々とするために船を維持できないという点にある。黄河や沂水から長江まで船を持ってくることは出来ないし、水夫たちがずっと付いてくるわけには行かない。下ヒは袁術に属す呂布との争奪戦の場だったし、何より最終的には軍勢を悉く曹操に奪われたと蜀書先主伝に有る。
荊州撤退の際に関羽が率いたのは数百隻の船である。物資輸送も兼ねているので全てを戦力としてみることは出来ないが、輸送艦の護衛は必要だ。
劉備が劉表のところに身を寄せた西暦201年から、荊州を離れる西暦208年の間に水軍が育成されたと考える。数百隻という規模の艦隊を築いたのも8年間のうちにだろう。例えば劉表は荊州牧になってから18年間で数千隻の艦隊を整えたのだから強ち不可能とはいえない。勿論、艦隊の一部を劉表逝去後に貰ったともいえるが。
水軍の指揮官として関羽が選ばれたのは何故だろうか。関羽に水軍についての知見が元々あったとは思えない。彼が大船団を指揮する経験を得ていた筈も無い。それだけ大規模な塩の輸送船団を組織していたのなら地方官への賄賂は必要だから、彼の士大夫に楯突く性質にはどうにも合わない。官吏にばれない程度という方が妥当だし、ここで明らかなのは船酔いとは無縁の関羽の姿だけだ。
とにかく船に慣れていることは必須の課題で、経験者であることが求められる。そして、彼の出身地にちょうど解池がある。華北では船を浮かべるのは池と相場が決まっている。
言わずもがな、代わりに張飛を採用するのは愚策だろう。いつ張飛が川に投げ捨てられてもおかしくはない。あとは趙雲が居たが、彼は騎都尉だから劉備の傍仕えだ。この点からも他に候補は居ない。
文聘のような荊州の将軍を用いるわけにもいかない。劉表が存命しているうちは、彼らは猜疑心の強い劉表の臣下だ。ならば水軍に詳しい隠れた士人を荊州で採ることは出来なかったのか。
当時、華北では袁家の内乱が起きていたし関内では馬騰が割拠していたし、士人の荊州来訪は絶えない。例えば劉備が荊州に滞在していた漢初年間には甘寧が江夏の黄祖の下で暇を持て余していた。というのに荊州に居たときの劉備はその殆どを登用できなかった。
劉表が死んだ後の名士たちは蜀に移る者、劉備に付く者、曹操に付く者に分かれたが、それ以前、荊州の8年間において劉備が登用できたのは諸葛亮だけだった。ただし伊籍も実質的には属していたようだが。他に徐庶は評価しない。
徐庶は大して出世しなかったところを見ると、蜀ならば諸葛亮のコネを利用して高官になれる程度の扱いだろうし、将来的には派閥争いで消されていただろう。あるいは当時流行していた身を保つための老荘思想が彼にあったのかもしれない。古くは前漢の曹参に見える考え方で、内輪揉めばかりの三国時代後期にも流行ったという。
いずれにせよ人が居ないのだから、水軍の指揮は劉備たちが学ばなくてはならない。
雌伏の時というが、この間に劉禅が生まれたりしているし、219年に父の後を継いだ後20才で卒した関興もこの頃だろうか。張飛が13-14歳の妻を得るのが200年、その娘の敬哀皇后が宮中に入るのが221年だから、どうやら三人とも子作りをしている可能性があるので雌伏というより仕込みの時と言うべきだが、どうでもいい。
関羽の水軍の活躍はろくに描かれていない。
輸送船を率いていた撤退戦では待ち伏せに遭って一方的に撃破された。
当時の海戦では、船を沈める力を持った大砲はない。楼船と呼ばれる大型の指揮船は嵐で沈みやすかったというが、これは以下の史実による。曰く、呉の董襲は嵐によって五層立ての楼船が沈没して死んだ。魏の杜畿は楼船の操作を誤って転覆して死んだ。上背が高いから復元力が無いとかそんなところだろう。小型船には無関係の問題だ。
人力で沈めるにはラムアタックしかないが、前述通り期待はしない。これが可能だったとしたら、敵船を沈めてから闘艦に捕虜として救助する形になるのかもしれない。楼船を押し込んで沈めることが出来たという主張も有るが、底部を押しても効果は薄いだろう。蒙衝の想像図はそんな空想を元にして破城槌のような格好をしていることもあるが、信頼は置けない。
火計は有効だったという者もいるだろうが、ギリシャの火のような武器は無い。また火矢は皮革によって防がれる。容易には燃え移らなくなるので屋根に使っていたという。
ところで関羽はあるとき腕に矢傷を受けたと書いた。記録上は水上戦ばかりの彼なのだから、船上で受けた傷かもしれない。使われたのが毒矢だとして記述のような治療でどうにかなるものなのか知らないが、いずれにせよ弓矢は炎を使って船を焼くためのものではなく、水夫や兵士を殺すためのものではないか。
撤退戦で関羽が敗れたというが、被害は記録されていない。関羽と別行動で江陵に向かった劉備は有名な長阪を経験することになるが、こちらには多くの犠牲が描かれている。簡単に言うと、劉備と同行した十数万人のうち馬に乗っていた十数人以外は全て見捨てられた。それと比べれば些細な被害は書くに値しないのだろう。
勝利を得た赤壁では、劉備は呉の大勢力に比べてずっと貧弱な部隊を率いていたことだけが明らかだ。とにかく劉備たちの描写は少ない。それが赤壁が小規模だったと吹聴される所以だ。
楽進と文聘に敗れた戦いだが、尋口は場所がわからない。楽進が襄陽に駐屯していたことや、江陵に駐屯していた関羽が漢津で文聘に輜重を奪われ、荊城で船を焼き払われていることから、漢水から分かれる水路のいずれかだろうとは思うが水経注図には見当たらない。
水上戦であることには違いないが、今度は輸送艦を沢山抱えていたわけではないにもかかわらず敗北した。
文聘は前に出てきたように劉表の部下で水軍ならお手の物だ。後半の文聘の破壊工作は奇襲染みているから数的多寡によるものとは言い張れない。水軍はどちらも荊州が元だから造船や操船に差は無い。ならば指揮官としての年季の差が出たのだろうか。
文聘はその後も夏口周辺の守備をずっと任されることになる。彼の最終的な領邑戸数は1900戸。魏の法では一戸世帯に対して一定の面積の田が支給されることになっていたし、後漢末に貨幣鋳造の過多によるインフレによって貨幣経済が壊滅して麦や特産品の現物支給になっていたから、所有する戸数がそのまま年間収入を意味する。
年代も加味して他の魏将の226年頃と比較してみると、文帝の弟の曹植が3000戸、左将軍張コウが3300戸、右将軍徐晃が2900戸、武衛将軍許チョが700戸、鎮軍大将軍陳羣が1300戸だから、後将軍の文聘はかなり見劣りする。(前将軍は満寵だが、当時の領邑は不明)
領邑は褒賞として与えられるものだから、荊州に居た彼には、222年と226年にあった呉との大きな戦いでしか増やす機会がなかったのだろう。
関羽の最後の水軍運用は、彼の最後の勝ち戦だった。219年の七月、十数日降り注いだ雨のために漢水が氾濫すると、高地に孤立した于禁の軍勢を襲撃するために水軍を用いたのだ。このときは洪水のせいで魏の補給が断たれたが、持久戦には持ち込まれなかった。
明け方、関羽は高地の周囲を船で取り囲むと一斉に矢を放った。既に于禁の軍勢は洪水で壊滅していて勝敗は見えていたが、それでも彼らは弓矢を構えて抵抗する。
戦いの最中にも増水は続いていた。増水のピークは雨が止んでからだから既に晴れていたのだろう。それに関羽は大船に乗っていたというし、洪水に雨ときたら楼船を出せる状態かは怪しい。
于禁とホウ悳に対する救援は来られなかった。総大将の曹仁も洪水のために樊城に閉じ込められていたのだ。降伏をせがむ一部の将兵は、ホウ悳に切り殺された。
ホウ悳の弓矢が関羽の額に当たったが、致命傷にはならなかったという。しかし流石に信頼できない。これは腕を貫いたのと勘違いしているのではないか。
夕刻、魏軍の矢が尽きたのを悟り、関羽の船は高地へと乗り上げる。強襲能力のある船があったのだろうか。いや、竜骨のない船だからこそバランスを崩さずに乗り上げるのは容易かも知れない。
白兵戦に陥るが、長くは持たない。決着は一日でついた。
多くの将兵と共に于禁は降伏した。
捕虜になることを拒んで小船で樊城へと逃亡しようとしたホウ悳は、転覆したところを捕らえられて斬られた。しかし不意の洪水に船の用意はあったのだろうか。ホウ悳は船底を抱いていたというから、とても小さな船だ。高台への避難のために使われていたか即席のものと考えた方がいいだろう。
于禁が降伏した後、関羽は樊城と襄陽を狙う。まだ城を落としていないのだ。いくら勝利を得たといっても攻め込んだ意味がなくなってしまう。関羽は船で両方の城を何重にも包囲すると今度は持久戦に持ち込んだ。厳しい包囲は誰一人逃さないという意思の表れだ。ここで既に城を得るのか、敵を捕らえるのか目的を見失っているように見える。
地理的には襄陽が漢水南岸、樊城がその向かいの北岸にあり、洪水によって両方とも水没していた。襄陽は襄陽郡の中心地だから、ここを守備した平狄将軍呂常は太守である。彼については碑銘が残されていて、六十才近くの老将だったという。
樊城の曹仁は二ヶ月近くも粘り続ける。この差は物資も遮蔽物も無い高地に孤立したのと、備蓄や防備のある城の中に包囲されたという違いだ。高い城壁はとうに意味を成していなかったが、それでも潤沢な弓矢があり、関羽の接近を許さない。先ほどは身体を貫かれたのだから、慎重にもなろうというものか。
関羽は無理に突入することも、密かに城に乗り込んで混戦に持ち込むこともせず、無為に包囲し続けて時間を過ごし、とうとう水が引き始める。
その頃、漸く宛から来た徐晃が救援に到着する。彼の軍勢は新卒ばかりで脆弱だったが、曹仁らの士気を上げるには彼らが戦わなくとも十分だった。曹仁は機有りと見て反攻に打って出ると、とうとう関羽の軍勢を撃退した。
策も何も無しに好機を狙っただけの戦いだったのだろう。洪水という機会は長く持たないにもかかわらず、彼は特攻をすることも、諦めて撤退することもなかった。
襄陽も必然的に解囲され、最終的な勝利は曹仁と呂常に与えられる。そして、この頃既に孫権軍は動いていて、関羽の退路は最早失われていた。
関羽の陸戦について語るとすれば、曹操に属していたときと麦城の話だけしかない。しかしこれは趣旨とずれるので書かないでおこう。
最終的には目を覆いたくなる結果になってしまった。書き始めた当初は二勝二敗の感覚だったのだが、どうにも擁護できない。
やはり最強の五虎将軍は黄忠で間違いないようだ。そのうち書こう。
ところで資料として本のほかに百度百科や中国系ウィキソースを利用した。いい加減に訳しているので誤訳が多くあるかもしれない。