名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
消えた花婿 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
ひっそりと挙げられた祝言の日、花婿は忽然と姿を消した。残されたのは、不自然なまでに整いすぎた筆跡の文と、ただ彼を信じて待ち続ける純朴な娘・真砂。相談を受けた中宮・彰子は、女房の赤染衛門とともに、わずかな手がかりから不審な失踪の真相をたぐり寄せる。しかし行き着いた先には、刃も毒も使わず、ただ「恋」という幻で娘の人生を囲い込む、あまりにも卑劣な罠が待っていた――。圧倒的な観察眼で悪の正体を暴き、静かな怒りとともに苛烈な裁きを下す"石の中宮"の活躍を描く、平安宮廷ミステリー。
現実というものは、ときに作りごとよりよほど奇妙です。
これは、彰子さまがよく仰せになる言葉です。もっとも、初めてそれを聞いたころの私は、半ば本気にしていませんでした。
物語は人を驚かせるために練られています。けれど現実は、たいてい湿っぽく、卑近で、艶も雅もありません。恋は破れ、財は尽き、人は見栄を張り、つまらぬことで嘘をつきます。そこにあるのは、ありふれた浅ましさばかり――そう思っていたのでした。
でも、あの春の一件以来、私は軽々しくそう言えなくなりました。
なぜなら、その事件には刃も毒もありませんでした。血も流れず、死者も出ず、呪詛も怨霊も出ませんでした。なのに、ひどく残酷で、しかも見事に人の心を縛り上げたのです。後になって思えば、あれは恋の形をした詐術でした。けれど、当の娘にとっては人生そのものだったのでしょう。その娘の名を、西洞院の真砂といいました。
その日、私は里下がりの途中で、彰子さまの御前へ立ち寄りました。春とはいえ、風はまだ少し冷たい。御簾の外では桜がようやく色づきはじめ、庭の白砂の上に、柔らかな日が落ちていました。
彰子さまは火桶のそばに座し、何やら文を広げておられた。私はいつものように挨拶をし、少し世間話でもして帰るつもりだったのですが、その日は違いました。
「衛門」
と、彰子さまが、ふいに格子の方へ目を向けられました。
「はい」
「今、表を歩いている女を見なさい」
私は言われるまま、几帳のかげから外をのぞきました。
牛車止めのあたりに、一人の女が立っていました。ずいぶんと大柄で、年は二十を少し越えたくらいでしょうか。
身なりは決して貧しくありません。でも、どこかちぐはぐでした。紅を帯びた薄色の袿に、少し派手な重ね色。髪は量こそあるが、結い方に落ち着きがありません。
何より、門の前で立ち止まり、進むか退くか決めかねている様子が、ありありと見て取れました。手にした扇の要をいじり、二、三歩出ては止まり、また戻る。思い切って来たくせに、いざ門をくぐる段になって怖じ気づいている――そんなふうでした。
「恋の相談でございますね」
と私が言うと、彰子さまは少し笑われた。
「そう思いますか」
「ええ。あれは、怒っているのではなく、戸惑っております」
「わたくしもそう見ます」
「相手にひどい目に遭わされた女なら、ああはためらいません」
「ええ。あれは、まだ相手を疑いきれていない女の迷い方です」
そこまで仰せになったところで、門の方から女房の声がして、その女が取り次がれました。
まもなく御簾の前へ通された娘は、近くで見ると、外見以上に気の毒なほど率直な顔をしていました。目が大きく、表情がそのまま顔へ出ています。賢しらに取り繕う器用さを持たない人の顔です。しかもやや近眼らしく、私たちを見るときも目を細め、少し首を前へ出す癖がありました。
彰子さまはやさしく席を勧められた。
「こちらへ。どうぞ、気兼ねなく。赤染衛門もおりますが、わたくしのそばで聞くことに慣れている者です」
「は、はい……」
娘は緊張で声を上ずらせながら、御前へと座りました。それでも落ち着かぬらしく、扇の端をしきりに撫でています。その様子を一目ご覧になって、彰子さまはふと仰せになった。
「目が悪くて、しかも細かな筆仕事をなさるのは、おつらいでしょう」
娘は、はじかれたように顔を上げました。
「え……?」
「それに、今朝、かなり急いで文を書いてからお出になりましたね」
私は内心、また始まった、と思いました。でも娘の方は、文字通り息を呑んでいました。
「ど、どうしてそのようなことを……」
「わたくしの特技は、人が気づかぬところを見ることです」
と、彰子さま。
「もっとも、難しいことではありません。右の袖口に筆を置くときの擦れがあり、左の指先に薄い墨が残っている。それから、履いている草履の鼻緒が、片方だけ少しねじれたままになっている。急いでお出になったのでしょう」
私はその時になってようやく見た。なるほど、娘の指にはごく薄く墨の跡があり、袖には机へ擦れる者独特の線がついている。
娘は、それでいっそう彰子さまを頼もしく思ったのでしょう。顔をくしゃりと歪めて、今にも泣きそうになりました。
「どうか、お助けくださいませ……。どなたにも、わたくし、もう何を信じればよいのか分かりませぬ」
娘の名は、真砂といいました。
父はすでに亡く、もとは西洞院で装束や調度の商いをしていたそうです。かなり手広くやっていたようで、亡き後にもそれなりの財が残ったらしい。
ところが母が再婚した。相手は父よりずっと若い男で、名を経業という。年のころ三十を少し過ぎたばかり。真砂より五つほど上なだけだと聞いて、私は思わず眉を上げました。
「母は、父が亡くなって間もなく、あの人と一緒になりました」
真砂は言った。
「もとは父の商いに出入りしていた者で、唐物の酒や布を扱う仲買のようなことをしておりました。今は、商いのついでと申して、しばしば大坂や博多の方へ出向いております」
「では、ご実家の商いは」
と私が尋ねると、真砂は唇を噛んだ。
「継父が、もうそういう大きな店は時代遅れだと言って、早々に人へ譲ってしまいました。父の代からの者は皆、惜しみましたけれど……」
その声には、当時の不満がまだくすぶっていた。もっとも、彰子さまはそのあたりには立ち入らず、静かに次を促された。
「あなたご自身には、収入があるのですね」
「はい。亡き伯父が、筑紫の田地から入る年貢の一部を、わたくしのためにと残してくれました。年に数十匹の絹が手元に入る手はずになっております。それと別に、わたくしは人の文を清書したり、写経の手伝いをしたりして、少しばかり稼いでおります」
私は内心で頷いた。袖の擦れも、墨の跡も、その仕事ゆえだ。
「その絹は、ご自分で扱っているのですか」
と、彰子さま。
「いえ……」
真砂は急に声を小さくした。
「家にいる間は、継父が取りまとめた方がよいと申しますので、ほとんど母へ渡しております。写経の手間賃だけ、わたくしの手元に」
私はそこで、はっきり嫌なものを感じました。でも、まだ口を挟む段ではありません。
「それで」
と彰子さまが言われる。
「あなたは、誰を探しているのです」
真砂は顔を上げ、頬を赤くした。
「……保澄の君、と名乗るお方でございます」
それから真砂が語ったところを、私はできるだけ正確に記しておきます。
春先、亡父とゆかりのあった職人や商人たちの集まりで、小さな催しがあった。楽を奏し、花を見、旧交を温める程度のものでした。
真砂はそこへ行きたかったのだが、継父は大いに不機嫌で、そんな場所へ出る必要はない、家の女は家にいるのがいちばんだ、と言って許さなかった。
「けれど、その時はたまたま継父が大坂へ下る用がありましたので」
と真砂。
「母も、行くだけ行ってみてもよいではないかと。
父の旧知の方々もおりますし……」
「そこで、その保澄の君と」
「はい」
真砂の表情が、痛いほど明るくなり、それがまた哀れであった。
「お会いしたのは、その日一度きりではございません。
翌日には、無事にお帰りになりましたかと文が届き、そのあと二度ほど、夕方に散歩をご一緒しました」
「昼ではなく、夕方」
と、彰子さま。
「はい。あの方は、人目につくのをひどく嫌っておいででした。とても恥ずかしがり屋で、昼の明るいうちには外へ出たがらず……。
目の病を患っておいでとかで、日の光をひどく嫌っておいででした。お会いする時も、眩しさを避けるように常に扇で顔の半ばを隠しておられましたし、喉も弱くて、いつも少し囁くようなお声でした」
私は、そこですでに少し妙だと思いました。人前を避け、顔を覆い、声もはっきり出さない。けれど恋する娘にとっては、それも奥ゆかしさや陰のある魅力に見えるのでしょう。
「お住まいは」
「それが、はっきりとは……。烏丸のあたりで主計寮の下級役人をしているとだけ」
「では、文はどこへ」
「留め置きで。あの方は、文のやりとりも、人目に触れぬようにと気になさって。わたくしの方には必ずご自分で文をくださるのですが、宛名だけでなく中身も、とても整いすぎた手で……」
そこまで言って、真砂は少し困ったように笑った。
「わたくし、あまり字のことは分かりませんが、どうもご本人のお手ずからではない気もいたしました。ですがそれを申しますと、保澄の君は、“筆跡などは瑣事です。心が通っていればよい”と」
彰子さまは、わずかに目を細められた。私はその変化を見逃さなかった。あのお方が何か引っかかりを覚えられた時の目である。
「そして」
と、静かに促される。
「継父が戻ってきてからは」
「まるで逢えなくなりました。継父は、あのような集まりへ出たこと自体をひどく嫌って、わたくしに“町の男どもと馴れ合うな”と」
「保澄の君は、それでも文を?」
「毎日、欠かさず。それで次に継父がまた大坂へ下ると聞くと、今度はすぐにでも夫婦になろうと仰せになったのです」
「早いですね」
と私は思わず言った。
「はい……けれど、あの方はたいへん真剣でした。わたくしの手に経巻を持たせて、たとえどんなことが起きても、自分を信じて待っていてほしいと誓わせたほどです」
「どんなことが起きても」
と、彰子さまが繰り返された。
「はい。その時は、少し変だと思いました。けれど、何かお家の事情でもあるのだろうと……」
私は、今度はかなりはっきりと妙だと思いました。婚礼を急ぎ、人に知られるのを恐れ、しかも“何があっても信じろ”と言う。まるで、自分が消える前提でいるようです。
「婚礼の日は」
「先の五日。北山の小さな御堂で、ひっそりと。そのあと、母とわたくしと、保澄の君とで膳を囲む手はずでした」
「継父は」
「ちょうど堺へ下っているはずでした」
「なるほど」
真砂はここで、いよいよ声を震わせた。
「わたくしと母は、一台の牛車で先に御堂へ向かいました。保澄の君は、別の車で後からと仰せになって。ですのに……」
「来なかった」
「はい」
その一言で、娘の顔が崩れた。
「御堂へ着いて、待って、待って……。ようやく後から来た車の御者に聞けば、途中まではたしかに乗っていたのに、着いた時には中におられなかった、と…。それ以来、文もなく、お姿もなく、何一つ」
そう言うと、真砂は袖で顔を覆って泣きはじめました。私は気の毒でなりませんでした。でも気の毒であればあるほど、話の筋は妙でした。
「このことについて、お母上は何と」
と、彰子さま。
「母は……」
真砂は袖を下ろした。
「最初は、きっと何か理由がある、あの方は誠実な方だ、と申しておりました。けれど継父が戻ってからは、急にこのことを口にしたがらなくなって…。今では、もう忘れなさい、恥になるだけだ、と」
「継父は」
「同じでございます。いずれ何か便りがあるだろう、騒ぐことではない、と。けれど、それきり何も起こりません」
私はそこで、どうにも我慢ならず口を挟んだ。
「継父殿は、その保澄の君に会ったことがおありですか」
「いいえ。いつも、ちょうど継父の留守の時ばかりに」
その答えを聞いて、私は思わず彰子さまを見た。そのお顔は、ほとんど動きませんでした。でも、内心ですでにかなり見えておられるだろうことが、私には分かりました。
「保澄の君からの文はありますか」
「はい。四通」
「お持ちですか」
「ここに」
真砂が懐から取り出した文を、彰子さまは受け取られた。紙は悪くない。香も控えめです。でも、文字はたしかに妙に整いすぎていました。男の荒さも、個性もない。まるで、見本通りに清書したような書きぶりです。
「わたくしが預かりましょう」
と、彰子さま。
「それから、継父殿の商い先と、名を」
「堀川の経業。堀川の北に住まい、唐酒や舶来の品を扱う仲買です」
「分かりました」
真砂は、なおも未練のこもった目で文を見つめていた。まるで、その紙こそが保澄の君その人であるかのように。
すると彰子さまは、ひどくやさしい声で仰せになった。
「真砂。もしわたくしが真相を見つけても、それがあなたにとって嬉しいものとは限りません」
娘は目を見開いた。
「それでも、知りたいのでございます」
「本当に?」
「はい。たとえどんなことでも、あの方に何が起きたかだけは……」
私は、その言葉に少し胸が痛みました。知ればもっと傷つく、と分かっていても、人は知らずに済ませられぬことがあります。
真砂が去った後、部屋にはしばらく沈黙が落ちました。
「さて」
と、私は最初に口を開いた。
「姫様は、どこまでご覧になりましたか」
「だいぶ」
と、彰子さま。
「衛門は?」
「私は……」
少し考えてから答えた。
「娘御が正直で、あまり賢くないこと。継父殿が好ましくないこと。保澄の君が、ひどく怪しいこと、くらいでございます」
彰子さまは少し笑われた。
「十分です」
「十分でございますか」
「ええ。ただ、順番を整えればもっとよく見えます」
「と申しますと」
「まず、娘は近眼で、細かな筆仕事をしている。これは見た通り。加えて、今朝は急いで家を出た。草履の鼻緒と墨がそれを教えています」
「はい」
「つまり、衝動的に来た。継父か母と、何か言い争って」
「それも、見たままでございます」
「ええ。次に、娘は年に絹が数十匹の収入があり、それを家へ入れている。写経の稼ぎもある。つまり、この娘が婚家へ入れば、今の家にとっては明らかな損失です」
そこまで言われて、私ははっとした。
「なるほど……」
「継父は若く、家の実権を握っている。その娘を外へ出したがらず、交際を嫌う」
「ええ」
「しかも、保澄の君が現れるのは、必ず継父の不在の時だけ」
「はい」
「目覆い、囁き声、人目を避ける、夕方ばかり。ここまで重なれば、“その男は顔を見られたくない者だ”と考えるのが自然でしょう」
私は思わず身を乗り出した。
「では、まさか」
「まだ断じません」
と言われたが、その声音にはほとんど確信があった。
「最後に、文です。この文は、あまりに整いすぎている。しかも四通とも、同じ癖で、同じところに墨のかすれがある」
「書き手が同じ」
「ええ。本人の癖を隠すために、意図して整えたのか、あるいは人に清書させたのか。ですが、どちらにせよ、“自分の手を見せたくない”意図がある」
「ではもう、答えは」
「ほとんど」
私はしばし黙った。言われてみれば、すべてが一本につながる。でも、あまりに卑劣で、あまりに人の心をもてあそぶ話なので、すぐには受け止めきれませんでした。
「姫様」
「何です」
「もし、私どもの考え通りなら……真砂どのは」
「ひどく傷つくでしょうね」
「はい」
「けれど、知らぬまま一生待つ方が、まだ残酷です」
私は、そうかもしれない、と思いました。
彰子さまは、その日のうちに二通の文を書かれました。
一つは、堀川の経業の住まいへ。明日暮れ時、御前へ来るようにと。
もう一つは、経業が出入りするという商い先へ。ごく簡潔に、ある男の人相について問いただす内容でした。その人相とは、もちろん真砂の語った保澄の君から、髭と囁き声を取り除いたものでした。
私は、その文を見て思わず言いました。
「そこまでなさるのでございますか」
「確かめねばなりません」
「ですが、もうほとんど」
「ええ。けれど推理は、思い込みの上に寝かせてはなりません。最後に一つ、外からの証が要ります」
翌日、私は別の用で宮中を離れていたため、少し遅れて御前へ戻った。すでに日は傾き、灯が点りはじめていました。部屋へ入ると、彰子さまはひとり静かに座しておられ、前には返書が一つ置かれているます。
「来ます」
と、あのお方はそれだけ仰せになった。
「継父殿が?」
「ええ。それから、商い先からも返事が来ました“その人相にぴたりと当てはまるのは、経業その人なり”と」
私は唇を引き結んだ。
やはり。でも、やはりで済ませるには、あまりにいやらしい所業です。
「お怒りですか」
と、彰子さま。
「ええ。たいへんに」
「わたくしもです」
その一言は、ひどく静かでした。でも、あのお方の怒りは、声を荒げる形では現れません。むしろ、その静けさが恐ろしい。
やがて、廊下の向こうで足音がしました。入ってきた男は、中背で、顔色は白く、目だけが妙に鋭かった。年は三十をいくらも越えていないでしょう。衣は上等だが、いかにも商いで立ち回る男らしい軽さを帯びている。これが経業でした。
「中宮さまのお召しと聞き、恐れ入りましてございます」
と、深く頭を下げる。その物腰は丁寧だが、内心では何事かと計っているのが見て取れた。
「お呼び立てしたのは、娘御――真砂の件です」
と、彰子さま。経業はすぐに、少し困ったような顔を作った。
「あれは、若い女の思い違いにございます。いっときの恋慕に過ぎませぬ。家の恥ともなりかねませぬので、あまり大きくは――」
「保澄の君、という男についてですね」
その名が出た時、経業の目がほんの一瞬だけ揺れた。見逃せるほど小さな動きではありませんでした。
「はい。しかし、そんな男、もとより真砂の心違いか、どこぞのならず者の悪戯か」
「本当にそう思いますか」
経業は、そこで初めて彰子さまをまっすぐ見た。そして、何かを探るように微笑した。
「……何か、お疑いでも」
「ええ」
と、彰子さまは即座に答えられた。
「わたくしは、保澄の君など最初から存在していなかった、と考えています」
部屋の空気が、しんと張った。経業の顔から、笑みが消える。けれどまだ崩れはしない。商いで鍛えた者らしく、とっさに別の仮面をかぶった。
「それはまた、大胆なご推察でございます」
「大胆ではありません。筋を並べただけです」
「お聞かせ願えましょうか」
「ええ、もちろん」
彰子さまは少しも声を高めず、まるで日常のことを語るように話し始められた。
「まず、真砂は年に絹数十匹の収入を持っています。写経でも稼ぐ。その金は、今の家へ入っています」
経業は黙っている。
「もし真砂が嫁げば、その金は家から離れます。あなたにとっては損です」
「それは、家を預かる者として当然――」
「次に、あなたは真砂の外出と交際を嫌った」
「娘が軽々しく外を歩けば」
「けれど、亡父ゆかりの集まりへ出た時だけ、都合よく“保澄の君”が現れた」
経業の眉がぴくりと動いた。
「その男は、あなたの不在の時にしか現れない。昼は会わず、夜ばかり。顔を隠し、声を変え、人目を避ける。これは恋人の振る舞いではありません。正体を見破られたくない者の振る舞いです」
「ずいぶん飛躍なさる」
「そうでしょうか。文も奇妙でした。整いすぎていて、人格の匂いがない。それでいて、四通すべてに同じ癖がある。ご本人の手ではないか、あるいはご本人が必死で自分の癖を隠した手です」
経業は口を開きかけ、しかし閉じた。
「さらに、婚礼を急がせた。それも、あなたの留守の間に。その一方で、真砂に“どんなことがあっても信じて待て”と誓わせた。つまり、その男は最初から、婚礼の場で消えるつもりだったのです」
「……」
「ここまで来れば、狙いは一つ。真砂を“誰とも結ばれぬまま、消えた男に心を縛らせておくこと”。そうすれば数年は、他の縁談を退けられる。そのあいだ、収入は今の家に留まります」
私は、その言葉を聞きながら、改めてぞっとした。ただ金を手元に留めるために、娘の人生を幻で囲い込む。なんという悪知恵だろう。
経業はまだ、かすかに笑おうとしていた。でも、唇がうまく上がっていませんでした。
「中宮様は、面白いお話をお作りになる」
「作ってはいません」
と、彰子さま。
「今朝、あなたの商い先から返書が来ました。保澄の君から髭を外した人相は、経業、あなたその人だと」
その瞬間、男の顔色が変わった。一気に血の気が失せ、目の奥の硬さだけがぎらつく。
私は、ここで決まった、と思いました。
「……仮に」
経業は、ややあってから低く言いました。
「仮に、そうであったとして。それが何の罪になります」
私は思わず膝を進めた。何という開き直りだ。けれど彰子さまは、ますます静かでした。
「律に触れるかどうか、という意味なら、あなたの言う通りでしょう。けれど、わたくしは今、公の裁きの話をしているのではありません」
「なら、何のためにわざわざ私を」
「あなたに、自分のしたことがどれほど下劣かを、ひとまず知ってもらうためです」
その一言は鋭かった。経業の頬がぴくりと引きつる。
「真砂は、あなたを父と思おうとしていた。少なくとも、家の主として従おうとしていた。その信頼を利用し、自分で恋人を演じて、娘の人生を縛った。しかも母まで巻き込んで」
「妻は、家のためと思っただけです」
「家のため?」
彰子さまの声が、ほんのわずかに冷えた。
「“家”とは誰のことでしょう。真砂を除いた家ですか」
経業は、そこで初めて言葉に詰まった。
「あなたは、真砂の愚直さを利用した。目が悪く、人を信じやすく、ひとたび情が向けば疑いきれぬ娘だと知っていて。そのうえで、声を変え、顔を隠し、消える算段まで整えた」
私は、怒りのあまり口を挟みそうになった。もし私が真砂の兄か叔母であったなら、この男の顔を扇で打ったかもしれません。
「……あの娘は、いずれ忘れます」
と、経業がぼそりと言った。
私は耳を疑った。
「何ですって」
「娘というものは、次があればそちらへ心が移る。いっとき待たせれば十分だったのです。どうせ、女ひとりに絹も持たせておく方が危うい」
「危ういのは、あなたの心です」
私はとうとう言ってしまった。経業は私を睨んだが、彰子さまが扇で制された。
「衛門」
「……失礼いたしました」
彰子さまは、それから経業へ向き直られた。
「真砂には、何も言わぬつもりですか」
「言えば、娘が騒ぎましょう」
「あなたの心配は、娘ではなく金でしょう」
経業はそこで、とうとう露骨に唇を歪めた。
「中宮さまほどのお方では、世を渡る苦労はご存じありますまい。金がなければ、人はきれいごとだけでは生きられません」
「生きられぬからといって、人を欺いてよい理由にはなりません」
「ですが、証はありますまい」
そう言って立ち上がった男の顔には、すでに居直りの色があった。自分が捕らえられぬと知った者の、薄汚い自信である。
「検非違使とて私を捕縛することはできませぬ」
「ええ」
と、彰子さま。
「それが残念です」
その時、私は本気で、この場に鞭でもあればと思った。けれど彰子さまは、ただ冷ややかに見ておられた。
「行きなさい。ただし、真砂の縁談をこれ以上妨げれば、その時はわたくしも別の手を考えます」
経業は、一礼もそこそこに退出した。廊下の向こうへ消える足音を聞きながら、私は、あの男はいずれもっと大きな悪事をする、と確信しました。
男が去った後、しばらく誰も口をききませんでした。私は怒りが冷めず、扇を握りしめたまま言いました。
「姫様、あのような男をこのまま」
「どうしようもありません」
「ですが」
「分かっています。けれど、今ここでできるのは、真砂をその家から切り離す方向へ導くことだけです」
「真相をお伝えにならぬので」
彰子さまは、少しだけ目を伏せられた。
「言ったところで、あの娘は信じぬでしょう」
「……」
「信じたくないことは、人は容易に受け入れません。とくに、恋にすがっている時は」
私は、真砂の泣き顔を思い出した。たしかにあの娘は、保澄の君が誠実であることを、心の底から疑っていなかった。そこへいきなり、“その男は継父だった”と言っても、正気の沙汰とは思わないでしょう。
「では、どうなさるのでございます」
「別の縁を探すよう、母方の親族へ働きかけます。
それから、真砂の収入を家から切り分ける算段も」
「そこまで」
「できる限り」
私は、ようやく少し息をついた。彰子様は、ただ謎を解いて終わる方ではありません。そのあと、人がどう立ち直れるかまで考えておられます。
それでも私は、ふとこぼしました。
「気の毒でございますね」
「ええ」
「保澄の君など、初めからいなかった」
「いませんでした」
「それでもあの娘は、たしかに恋をしたのでしょう」
「しました」
「では、その恋は、いったい何だったのでございましょう」
彰子様は、しばらく答えられなかった。やがて、静かにこう仰せになりました。
「恋をする力そのものは、本物だったのです」
数日後、真砂はもう一度、御前へ呼ばれました。その時のことは、私は横で見ていて胸が詰まりました。真砂は、まだわずかな期待を捨てきれていない顔をしていたからです。
彰子様は、慎重に言葉を選ばれた。
「保澄の君については、これ以上追うだけ無駄でしょう」
「そんな……」
「その男は、あなたに誠実ではありませんでした」
真砂は、白くなった。
「でも……でも、あの方は」
「いいえ。少なくとも、あなたが信じたような人ではなかった」
「何か、理由があったのでは」
「理由はありました。けれど、それはあなたのためではありません」
真砂の目に、また涙がたまった。私は、ここで真実をぶつければこの娘は壊れる、と感じました。だからこそ、彰子さまはそこまでしか仰せにならないのだ。
「忘れなさい」
と、彰子様は仰せになりました。
「そんな……無理でございます」
「ええ、すぐには無理でしょう。けれど、忘れなさい。待っていても、その男は戻りません」
真砂は泣いた。けれど、前のように“信じて待つ”とは言わなかった。その代わり、ぽつりと聞いた。
「わたくしが、何か悪かったのでございましょうか」
私は息を呑んだ。その問いが、一番痛い。
彰子様は、ためらいなく答えられた。
「何も」
「では、なぜ」
「あなたが悪いのではなく、相手が卑しかったのです」
真砂は、その言葉にしばらく耐えるように震えていたが、やがて深く頭を下げた。完全には納得していないのでしょう。けれど、少なくとも、保澄の君を神のように待ち続ける心には、ひびが入ったはずです。
この件は、後から思うと実に奇妙です。誰も殺されていない。宝も盗まれていない。律に照らせば、大罪と呼ぶのは難しいかもしれません。
それなのに、私は、これほど腹立たしく、また後味の悪い一件を他にあまり知りません。
なぜなら、ここで踏みにじられたのは財産だけではなく、人が人を信じる心そのものだったからです。
真砂は愚かだったかもしれません。でも、愚かさは罪ではありません。しかもその愚かさは、他人を疑わぬ素直さと裏表でした。
経業は、そこを見抜き、利用した。恋を装い、誓いを立てさせ、花婿の姿で娘の未来を囲い込み、しかも消えることでその囲いを完成させました。それは刃よりも陰湿で、毒よりも後を引く仕打ちです。
私はあの時、つくづく思いました。世の中には、手を汚さず、人を壊す者がいます。そういう者ほど、始末が悪い。
そして、彰子さまはそういう相手に対して、決して大声を上げません。静かに筋を並べ、逃げ道を塞ぎ、最後にその卑しさを本人に突きつける。あれは、律の裁きではありません。けれど、別の意味でたいへん苛烈な裁きだと、私は思っています。
その後、真砂がどうなったかを少しだけ記しておきます。
彰子様のお取り計らいで、真砂の母方の親類が動き、彼女の収入は一部を別に管理されることになりました。また、経業がむやみに縁談を妨げられぬよう、周囲の目も入りました。
真砂はしばらく塞ぎ込んだと聞きます。それはそうでしょう。自分が信じた相手は初めから影でしかなかったのだから。
けれど、半年ほど経ってから、私はある歌会で、ずいぶん穏やかな顔になった真砂を遠目に見ました。まだ少し夢見がちな目をしていましたが、以前ほど危うくはありませんでした。そばには年配の女房がいて、何か話しかけると、真砂はちゃんと笑っていました。あれならもう大丈夫かもしれぬ、と私は思いました。
その夜、御前へ戻ってその話をすると、彰子さまは静かに頷かれた。
「人は、幻に恋をすることがあります」
「はい」
「けれど、幻で生き続けることはできません」
「そうでございますね」
「だから、どこかで目を覚まさねばなりません」
私は、ふと聞いてみました。
「姫様なら、真実を全部打ち明けられた方がよかったと思われますか」
彰子さまは、少し考えられたのち、こう仰せになった。
「人には、知るべき真実と、知らずに済ませた方がよい真実があります。今回は、その境目が難しかった」
「では、あれでよかったので」
「分かりません。ただ、少なくとも真砂は、もう“保澄の君”を待ってはいないでしょう」
それで十分だったのかもしれない。あるいは、十分ではなかったのかもしれない。
だが、私は今でも、この件を思い出すたびに胸のどこかがざらつきます。なぜなら、これは恋の物語ではなかったからです。
娘の恋心を、家の金のために細工した男の話。そして、石の中宮が、その細工の綻びを見抜いて、かろうじて一人の娘を幻から引き戻した話です。
現実とは、人の頭の生み出す何物よりも、限りなく奇妙です。
あの日以来、私はその言葉を疑いません。
〜出典〜
A case of identity(花婿失踪事件、同一事件)
作:Arthur Conan Doyle 訳:大久保ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/54910_47218.html
〜舞台背景〜
『花婿失踪事件(同一事件)』は、「名探偵シャーロック・ホームズ」の著者アーサー・コナン・ドイルの初期の短編、56ある短編小説のうち3番目に発表された作品で『ストランド・マガジン』1891年9月号初出。
それがどうした、かというと、ヲタク界隈では、2番目に発表された「赤毛連盟」と編集部の取り違えで発表順が逆になってしまい、発表が先の「赤毛連盟」内に発表が後の「花婿失踪事件」の記述があるとマニア的な書き込みがありました。
また読解的なトピックとしては、1928年に提言された推理小説を書く際のルール「ノックスの十戒(Knox's Ten Commandments)」が守られてないトリック(一人二役)が味わい深いそうです。
1戎 犯人は、物語の当初に登場していなければならない。ただしその心の動きが読者に読みとれている人物であってはならない。
2戎 探偵方法に、超自然能力を用いてはならない。
3戎 犯行現場に、秘密の抜け穴・通路が1つより多くあってはならない。
4戎 未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない。
5戎 主要人物として中国人(※超人と解釈)を登場させてはならない。
6戎 探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない。
7戎 変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない。
8戎 探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない。
9戎 サイドキックは、自分の判断を全て読者に知らせねばならない。また、その知能は、一般読者よりもごくわずかに低くなければならない。
10戎 双子・一人二役は、予め読者に知らされなければならない。




