5話 橋上の叛逆
空は、すでに雲に覆われていた。
王城へ続く大通りを歩きながら、ヴェルンは空を一瞥した。厚い雲が西から流れてくる。しばらくすれば降る。
最初の雨粒が石畳を叩いたのは、城門が見えてきた頃だった。
街の人々が軒下へ、扉の奥へ、急ぎ足で消えていく。荷車が幌を引き下ろす。露店の女が商品を抱えて駆ける。雨は瞬く間に本降りになった。
ヴェルンは立ち止まり、空を見た。
それだけだった。また歩き出した。
王城は海に面した崖の上に建っていた。
玉座の間は城の本棟から橋で繋がれており、その下は切り立った断崖だった。橋の欄干から見下ろせば、雨に煙る海が見える。
城内を歩くヴェルンの靴音が、石廊下に静かに響いた。すれ違う官吏が目を逸らす。近衛兵が敬礼する。誰も何も言わない。
玉座の間の扉が開かれた。
玉座の間は広かった。
高い天井に、雨の音が反響している。太い柱がいくつも連なり、その間に深い影が落ちていた。空気が淀んでいた。石と燭台の臭いの奥に、何か別のものが混じっている。ヴェルンはそれに名を与えなかった。
ヴェルンは玉座の前で片膝をついた。
エルドラン二世は玉座に深く座り、杯を片手に持っていた。
「よくやった、灰色の剣。これで蔵に巣食う鼠は減った」
ヴェルンは、短い肯定だけを返した。
「……貴様には褒美を与えよう。酒はどうだ?」
「お心遣いに感謝いたします。しかし、あいにく酒は嗜みません。代わりに、ひとつ願いがございます」
「申してみよ」
「捕縛したガルドという者、私に尋問をさせてもらえれば——」
「それは叶わぬ。もうヤツは処刑した」
ヴェルンはわずかに間を置いた。
「……枢密院法務官の判断でしょうか」
「貴様には関係のないことだ」
「失礼しました」
王は杯を口に含んだ。ゆっくりと、満足そうに。
「うむ、良い香りだ。酒の味を知らぬ貴様でも良さが分かるはずだ」
別の杯を手に取り、王は酒を注ぎ始めた。傾けられた瓶から流れ出る液体は、どこか澱んでいた。混ざり切らない赤と黒が、杯の中で揺らめいていた。
「さぁ、飲んでみよ。遠慮はするな」
「それでは——」
ヴェルンが立ち上がろうとした時、扉が乱暴に開かれた。
飛び込んできた衛兵は、声を張り上げた。
「陛下! 騎士団内に造反です! 首謀者は副団長エルンスト・グレイヴ。兵は少数ですが——宝物庫が破られました。内門も、すでに突破されています!」
膝をついた衛兵の肩に、血が滲んでいた。それでも男は、息を整えるより先に頭を垂れた。
王は落ち着いた様子で再び杯に口をつけた。柱の陰から、近衛兵が次々と姿を現す。
「鼠は一匹では巣を作らぬ。飼い主が来るなら、なお都合がよい。近衛、待機せよ。ここで討つ」
「陛下、ここは私にお任せを。玉座の間を血で汚すことはありません」
王はヴェルンを見た。値踏みするような、しかし満足した目だった。
「……よかろう。近衛を二名つけよう」
「不要に願います。近衛は御身の守護を」
「頼もしい限りだな」
ヴェルンは立ち上がり、踵を返した。
廊下で呆然としていた衛兵に、ヴェルンは声をかけた。
「衛兵を全員下がらせろ。急げ」
衛兵は短く応え、先へ駆けていく。
玉座の間から外へ出ると、横殴りの雨が出迎えた。石橋が雨粒に叩かれ、欄干の向こうで海が白く霞んでいる。退避していく衛兵たちが背後を流れていった。
ヴェルンだけが、橋を歩いた。
中程まで来たところで、足を止めた。
静かに瞼を落とした。
唸る風の音。雨が石畳を叩く音。
それらが少しずつ、遠くなっていく──
——ヴェルンの耳が、空を切る音を捉えた。
灰色の剣が、一本の矢を二つに割った。
折れた矢が橋の上に落ちた。雨に流されていく。
ヴェルンは、何事もなかったように剣を鞘へ戻した。
やがて、足音が近づいてきた。複数。整然としていた。
正騎士の鎧をまとった者が八人。そして——外套を目深に被った者が一人。弓を腕に掛け、その手にはまだ矢があった。
彼らはヴェルンから距離を置いて、足を止めた。
一人が矢を番えようとした。先頭の騎士が腕を上げて制止する。
「よせ、リュシエル。矢を無駄にするな」
「しかし……」
騎士は腰から、古びた剣を鞘ごと外した。
それをリュシエルへ差し出す。
「奴は危険だ。我らが失敗した時は、これを持って逃げろ」
リュシエルは弓を腕に回し、両手でその剣を抱えた。
「……ご武運を、グレイヴ」
騎士——エルンスト・グレイヴは、ひとりヴェルンへ歩み寄った。
激しい風が二人の外套をはためかせた。橋の下で、海が鳴っている。
「灰色の剣よ。民を守るため、大義のため——その道をあけよ」
グレイヴは剣を抜き、ヴェルンへ向けた。
ヴェルンは雨に打たれながら、ゆっくりと腰の剣に手をかけた。鞘から刃が抜ける気配だけが、雨音の隙間に滑り込んだ。
「これは仮説だが——」
剣を外套の陰に引き、グレイヴと向き合う。
「貴様たちの目的は王の暗殺。それは叛逆であり、大逆だ」
一歩、歩み寄る。
「剣を捨て、法の裁きを受けろ」




